- ナノ -

詰められては一歩引く



   食事に対してそこまで大きなこだわりのない桔梗は、食べるのならば美味しいものがいいとは思うが、不味くなければそこまで手の込んだものでなくてもいいと言うのが本音だった。しかし幸人の入院期間中に頻繁にコンビニ弁当などに頼らなかったのは、ひとえに彼に余計な心配をかけないためである。

   元々、二人で暮らす以前から、桔梗はある程度の家事はしていた。そのため苦というわけではないし、幸人に負担をかけたくないというのもある。それでもやはり、一人でいる間は料理が少しばかり億劫に感じなかったと言えば嘘になってしまうだろう。食べさせる相手がいるならまだしも、自分一人の食事に時間をかけるのを、彼女は嫌がった。

   だが幸人が退院したことで、桔梗はゆっくりと食事ができるように戻り、また、玉狛での役割も戻ってきた。


「ききょうちゃんのとうばんはひさびさだな」

「そうですね」


   玉狛では、食事当番が存在する。本部基地とは異なり、食堂を入れるほど人口が多いわけではないからだ。また、負担が偏らないように、当番制での食事作りを導入している。

   ここしばらくの間、桔梗は食事当番が回ってこなかった。それと言うのも、幸人の入院のことがあったため、木崎たちが気を遣って彼女を外してくれていたのだ。だが先日幸人が無事退院したため、桔梗は自分を当番に組み込んでも大丈夫だと伝え、今日がその日であった。

   千佳の訓練は木崎に任せ、桔梗は支部のキッチンに立っていた。自分用の無地のグレーのエプロンは、基地に置いておくために買ったものだ。彼女が動くと同時に揺れる薄いピンク色の紐がワンポイントだそうだが、彼女にとってはさして関心のあるものでもなかった。

   じゃがいもが安かった。そんな理由から少々買いすぎたというのが否めないため、献立を肉じゃがとポテトサラダに決めたのは、買い物を終えた後のことだ。既に肉じゃがは完成しているため、あとはポテトサラダと、もう一品汁ものを作ろうとしているところである。

   適当な大きさに切ったじゃがいもをレンジで三分加熱し、その間に卵を溶く。そうしていればすぐにレンジからの呼び出しがかかり、桔梗はじゃがいもをサッと取り出して、熱いうちに皮を剥き、ボウルに入れて木べらで潰していった。少し固形感が残る程度が桔梗の個人的な好みなため、潰しすぎないぐらいでやめて、粗熱を取る間にきゅうりを薄切りにカットする。具材はこれだけだが、桔梗としてはこのシンプルさが好きなので、今後も具材を増やすことはないだろう。

   じゃがいもに手をかざして熱の具合を確認し、きゅうりとマヨネーズをボウルに加えて混ぜ合わせながら、汁ものは簡単なものでいいか、と考える。

   これくらいでいいだろうと手を止めた彼女は、ポテトサラダの味を塩胡椒で調節し、スプーンで軽くすくって味見をした。そうすると、近くにいた陽太郎が物欲しそうに彼女を見上げてくるので、その視線を受け、桔梗は小皿に一口分だけ取り分けて、スプーンと一緒に渡してあげた。

   陽太郎が嬉しそうに味見をするのを尻目に鍋に水を入れて火にかけながら、ネギを切り、片栗粉を水で溶いて、次に卵も溶いていく。鍋が温まったのを確認し、塩と薄口醤油、みりんを加えて煮立てながら、水溶き片栗粉を鍋に入れ混ぜてとろみを加えながら、一度沸騰させた。


「ききょうちゃん、おいしいぞ」

「それはよかったです」


   満足げに親指を立てる陽太郎に返事をして、ブクブクと泡が出てきはじめたのを見ながら、桔梗は鍋の中へ溶いた卵を少しずつ回し入れた。全て入れ終えたら、お玉で優しく全体を混ぜ合わせ、火を止めて、仕上げに刻んだネギを入れれば、かきたま汁の完成である。

   こうして料理をしている時、改めて腕のありがたみを実感する。洗濯や掃除は、時間がかかるものの片腕でできなくもない。しかし料理はそうもいかない。当初は義手の製作に乗り気ではなかったものの、幸人にかかる負担を軽減できていると考えれば、遅かれ早かれ必要になってきたものだっただろうと、今は考えている。

   既に炊けてある米と一緒に汁も人数分よそい、テーブルへと並べていく。各々自分用の食器と箸とがあり、新たに玉狛に加わった修たちの分も、木崎が用意してくれていた。

   水に浸けておいたボウルなどを洗って片している間に、廊下のほうから声が聞こえてきて、扉が開いた。


「お腹空いた〜」

「桔梗さんが当番なの久々ね」

「ほう……ききょう先輩はご飯を作れるのか」

「桔梗は家でも料理をしてるからな」


   続々入ってくる面々におつかれさまです、と業務的に言葉をかけながら、桔梗は手を洗った。義手は鬼怒田の計らいで防水となっているため濡れても問題ないので、その点はとてもありがたかった。水気をしっかりと拭き取り、エプロンを脱いだ桔梗は左手に手袋をつけた。


「あ、桔梗さんのポテサラ!   アタシ好きなんですよ〜」


   テーブルを見た宇佐美は目を輝かせて、嬉々として席に着いた。桔梗はダイニングテーブルから離れ、ソファーのほうへ行き、ソファーの前に腰を下ろした。


「桔梗先輩は、食べないんですか?」

「私は結構です。家で夕飯を用意してるので」


   桔梗は、基地で夕飯を食べることはない。それは自分で作ったときも同様で、彼女が皆と食卓に着くのは、基本昼だけであった。

   木崎から事前に送ると言われていた彼女は、バッグの中から課題プリントを取り出すと、黙々とそれに取りかかった。基地に来るときは基本学校帰りが主なため、桔梗は家に帰らずに制服や荷物もそのままで基地に足を運ぶ。玉狛に異動してからは、木崎を待つこの空き時間で学校の課題をすることは少なくなかった。

   各自席に着き、いただきますと挨拶の揃う声を耳が拾いながら、桔梗は課題に取りかかった。談笑の中に、紙一枚挟んでシャープペンがテーブルを叩く音が微かに混ざる。たまに音が止まって、少しして再度鳴りだして。ペンのキャップで下唇を押し上げるのは、桔梗が考える時の癖だった。


「ききょう先輩、これなんて言うんだ?」


   手を止め考えていた桔梗に、遊真がくるりと振り返って尋ねる。視線を向けた彼女は、遊真が手に持つお皿を見て、「肉じゃがです」と端的に答えた。

   遊真は近界で暮らしていたからか、こちらの世界について知らないことが多い。それは社会的な規則や常識、勉学に関することだけではなく、こういった料理についてや、物の取り扱い方など、日常的な部分についても知識がない。そのため度々「これはなんて言うんだ?」と小さな子どものような質問が飛び出てくる。


「ほう、肉じゃが。なんかカレーと似てるな。ルーってのがないカレー」

「使ってるものはカレーとあんまり変わらないなから」

「なるほど……こなみ先輩のカレーもおいしかったけど、これもおいしいな」


   その呟きに何も返すことはせず、桔梗は課題のほうへ意識を戻した。













   静かな夜道を、桔梗は烏丸と歩いていた。

   木崎に送ってもらう予定であった彼女だが、自分が送る、と烏丸が言い出したのだ。普段はバイトや任務、下の兄妹を迎えに行ったりと多忙な烏丸だが、今日はそれらの用事がなく、そんな時は彼は桔梗を送りたがった。それを彼女は、木崎に送ってもらう予定だと断っていた。

   だが、修たちが玉狛に来てからは、木崎は桔梗以外にも修たちを家まで送ることがあった。それを挙げ、木崎には中学生三人を送ってもらい、自分が桔梗を送ると提案した。そんな彼の言葉から意を汲んだ木崎が、彼女にそれでもいいかと尋ね、桔梗がどっちでもいいと答えたため、烏丸と共に帰路に着くこととなった。


「桔梗先輩。夕飯、おいしかったです」

「そうですか、よかったです」

「先輩は料理が上手ですね。毎日でも食べたいです」

「……それはどうも」


   どこかで似たようなことを言われたな、と少し考えた桔梗は、それが風間だったことを思い出した。

   幸人たちが集まって飲むのは、居酒屋以外なら幸人の家か諏訪の家が多いのだが、女子高生を一人家に残して飲みに行くのはよろしくないのではないかと考えた幸人が、木崎たちとの付き合いを控えていた時期があった。それに気付いた桔梗が気にする必要はないと伝え、またそれならばうちで飲んだらどうか、と提案したことが始まりである。木崎たちが家に飲みに来た時、桔梗は夕飯と、寝落ちた彼らの朝食も用意しているのだが、桔梗の出した味噌汁を飲んでいた風間から、烏丸と同じようなことを言われたのだ。

   寺島曰く「人が胃袋をつかまれた瞬間を見た」らしい。風間に同じようなことを言われたときも、桔梗は同様の返答をした。


「先輩、得意料理とかあるんですか?」

「……考えたことがないです。作れるものを作ってるだけなので」


   それで会話は終わった。実際、桔梗の言葉に嘘はなく、彼女の中では、自分でこれが得意だと思っている料理はない。二人の、基桔梗はほとんどの場合、相手から振られた言葉に返事をするだけだ。必要時以外に自分から話題を振ることはないため、こうして会話が終わることも、沈黙に包まれることも、今に始まったことではない。

   横断歩道の信号が、カチリと赤に切り替わったのを見て、二人は足を止めた。そばのボタンを押して、目の前を走っていく車のエンジン音だけが聞こえるなかで、烏丸は盗み見るように桔梗を見て、控えめに声をかけた。それに反応した薄紫の瞳がゆっくり移動して、烏丸を見上げる。


「あの、ちょっと、聞きたいっていうか……相談、ってほどでも、ないんすけど……」

「はい」

「俺、修の訓練、見てるじゃないですか」

「そうですね」


   消去法ではあったが、烏丸は修の師として練習メニューを組んだり、トレーニングルームで彼の相手をしている。多忙故にその合間を使ってのものではあるが、それでも出来うる限りのことをやっているだろう。

   信号機の色が青へと切り替わり、桔梗は歩きだした。それを追うように烏丸は彼女の隣に並ぶと、どこか言いにくそうに何度か視線を彷徨わせながら口を開いた。


「先輩から見て、俺、上手く指導できてるって思いますか?」


   意図の読めない問いに、桔梗は眉を寄せた。烏丸が後輩の指導をすることは、何も初めてではない。弟子自体は修が初めてではあるが、本部にいた頃に、後輩隊員に稽古をつけることは幾度かあった。

   それに対して、桔梗は弟子はもちろんのこと、後輩への指導自体したことがない。だからわざわざ本を買ってみたりして、試行錯誤している。そのため、そもそも質問をする相手が違うだろうと彼女が投げかければ、烏丸は「それは、そうなんですけど」と髪を掻いた。


「純粋に、意見を聞きたくて。先輩はハッキリと言ってくれるので。教え方も上手いですし」

「……前にも言いましたが、指導に関してはあなたのほうが上手いでしょう。私よりも慣れているんですから」

「確かに後輩の稽古をつけたりはありましたけど、弟子となるとまた勝手が違いますから」


   数秒黙り、桔梗はため息を落とした。


「銃手ではなく射手を勧めたのは、良い判断ではないかと」


   銃型トリガーは射手に比べ取り扱いはシンプルで、且つ弾丸の射程を延ばす補助機能が付与されている。そのため安定して戦闘を行える。射手は弾丸の威力、射程、弾速を毎回自由に調整が可能だが、その分攻撃に手間がかかり、また命中精度がやや粗くなってしまうため、使いこなすにはセンスが必要になってくるポジションだ。

   銃手に転向したいという修に、射手のほうが良いと烏丸は勧めた。桔梗はそれを評価した。


「銃手は安定している分、トリオン能力の差は大きい。三雲くんには向いてないですね。それなら、まだ射手のほうが彼には合ってます。弾丸調整が効く分、工夫でどうにかなるでしょうし」


   射手や銃手の強みは、「離れた相手を攻撃できる」ことと「攻撃を集中させやすい」こと。狙撃手同様に、仲間が戦っている場面で、離れた場所から攻撃に参加することが可能だ。また離れた位置にいる分全体の動きを捉えることもできる。射程攻撃と、戦術で局面をコントロールする。それが、射撃トリガーの特徴を活かす戦い方である。


「雨取さんの場合はアイビスを使えば射線も関係ないですが……三雲くんは、少し離れた位置で攻撃に参加するほうがいいでしょう。彼、弱いので。空閑くんを攻撃の軸にして、三雲くんや雨取さんがサポートに回るのが妥当ですね。エース以外にも戦える人がいるのも大事ではありますが、今の彼らはその段階でもないので、それならエースをより強くするほうが現実的ですしね」


   射手や銃手用のトリガーは、攻撃手用や狙撃手用に比べると威力が低いために、一人で点を獲ることが難しい。故にサポートに回り、仲間に獲ってもらうというのが、射手や銃手の、言わば王道的な戦法になる。とは言え、決して点を獲れないわけではないのだが、修にはそれは難しいだろう、と桔梗は暗にこぼしながら、淡々と話した。

   現状まともに実戦に加われるような戦力は遊真のみなため、ランク戦では彼が主に点を獲っていくことになるだろう。遊真が落ちれば戦力も一気に落ちるというリスクがありはするが、そうならないために他二人がサポートする、というのは悪手というわけでもない。そういうチームだって少なくはないのだから。


「まあ、その辺りは私ではなく本人たちが決める部分ですが……それで、指導についてでしたね。上手くやってるんじゃないですか?」


   投げやりにも取れる言い方であったが、桔梗の言葉に嘘はない。修の弱さを踏まえた上で、烏丸は彼が少しでも戦うことができるよう、試行錯誤しながら特訓メニューを組んでいる。防衛隊員の中でも群を抜いて低いトリオンという死活的な問題を抱える彼に、根気良く。それを考えると、烏丸は修の師として「上手くやっている」のだろうと桔梗は結論を出した。

   烏丸にも、適当に返されたわけではないというのは伝わったようで、照れたように少しだけ視線を下げ、おずおずとお礼をこぼした。


「桔梗先輩にそう言ってもらえると、自信つきます」

「はあ……そうですか」


   嬉しそうに目尻を緩めている烏丸の姿は、彼のファンが見れば喜色の声が上がることだろうが、前を向いた桔梗には、その表情は見えていない。しかし仮に見たとしても、特に反応することもないだろう。

   結局、その後会話は大して続かなかった。しかしそれもいつものことで、烏丸はさして気にすることはなく、彼女を家まで送り届けた。


「では、先輩。また」

「はい。わざわざありがとうございました」


   玄関前で烏丸を振り返った彼女は、彼を見上げて数秒間を置き、口を開いた。


「帰り道、お気をつけて」


   そう告げて、桔梗は家へ入っていった。閉まった扉を見つめる烏丸は、自身を案じてくれるようなその言葉を頭の中で繰り返し、思わず緩みそうになった頬を咄嗟に引き締め、踵を返し帰路についた。