優しさの破片がこぼれた
千佳はこれまで、射線上に遮蔽物のない状態で、水平への狙撃だけを行なっていた。しかしB級に上がった後のことも考え、様々な状況での狙撃も想定しておくべきだと桔梗が木崎に話を通し、訓練のやり方をいくつか変更した。
まず最初は、遮蔽物のある状態での狙撃訓練を行うこととなった。ランク戦はもちろん、防衛任務などでも、常に射線が通るわけではない。そのため、まずは相手にバレないように狙撃地点の捜索をしなくてはならない。
地形をフラットにしてもらい、的の位置は変えず、的との間に遮蔽物を設置。今まで狙撃地点としていた場所では射線が通らないようになっているため、訓練の一環として、千佳にはまず狙撃地点を決めるところからはじめてもらった。狙撃地点を見つけたらそこで狙撃を繰り返す。一時間ほどで遮蔽物の位置を変え、また狙撃地点を探し、狙撃を行う。それが現在の、千佳に与えている訓練内容だ。
まだ始めたてなため、難易度は低く設定していることもあってか、千佳は存外、すぐに射線の通る位置を見つけることができている。
今日も今日とて長時間の訓練が終わり、桔梗は帰ろうと支度をしていた。しかしそんな彼女を、修たち三人を連れてジョギングに行こうとしていた木崎が制した。
「桔梗、帰りは送る。少し待っててくれ。ついでに、おまえと話したいこともある」
木崎をじっと見つめた桔梗は、頷くとバッグを置いて、ソファーに座りなおした。それを見た木崎は悪いな、と一言伝えて、修たちと共に夜のジョギングへ向かった。
「話って何かしら? 桔梗さん、察しついてる?」
「雨取さんの訓練に関してでは? メニューを変えたので」
不思議そうな小南にそう返しながら、桔梗は幸人に帰りが少し遅れることを連絡した。
烏丸は夕方からのバイトが入っているため今日は基地にはおらず、陽太郎も雷神丸と共にジョギングについていったため、現在リビングには桔梗、小南、宇佐美の三人しかいない。宇佐美は今日の夕食担当なためキッチンで準備をしており、桔梗は本を取り出して読書中。静かな室内で、小南は居心地悪気に視線を彷徨わせていたが、我慢できず口を開いた。
「そういえば、千佳が桔梗さんの弟子だって、本部で噂にならなかったの?」
「あ、確かに……でもこの前本部に行ったとき、誰もその話はしてなかったような……陽介も知らないみたいだったし」
「さあ? 知りません」
「桔梗さん、誰にも言ってないんですか?」
「雨取さんが弟子とは人に言ってません。私用があった村上さんと、その時そばにいた穂刈さん、当真さんは弟子がいることは知ってますよ。恐らくその内の誰かから聞いただろう、荒船さんも」
誰が弟子なのかも大方悟られているだろうことは、桔梗もなんとなくわかっているが、何れにせよ噂が出ようが出まいが、気にとめはしない。
自分が一部からよく思われていないことを、桔梗は知っている。義手であることが知られて以降、射手であった頃から個人ランク戦で勝利したり、合同訓練で高い順位を出せば「手加減をしてやっている」と言われ、ならば手を抜いて順位を下げてみれば、「片腕のやつに負けるわけがない」と言われ。どっちにしろ何か言われるのならと、桔梗はほどほどに手を抜きつつ、十位以内の順位に入るよう調節している。
弟子の件が出回れば、恐らくまた何かしら言われることになるのだろう。たやすく想像できたが、桔梗は何を思うこともなかった。
けれど、ふと千佳のほうはどうなのかと考えた。自分ではなく、千佳が何かを言われる可能性があるのではないか、と。小南と宇佐美の声を聞きながら、桔梗は少しばかり考えを巡らせた。
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玄関から音が聞こえると、桔梗は文庫本から顔を上げた。手早くしおりを挟んだ彼女は本をバッグの中にしまい、ソファーから立ち上がった。
「では、私は失礼します」
小南と宇佐美に一言伝えると、桔梗は部屋を出た。どうやら修たちは手を洗っているようで、洗面所のほうから彼らの声が聞こえた。廊下を進んで玄関へ着くと、木崎がまだ靴を履いたまま立っていた。
「わるい、待たせたな」
「いえ。夜までおつかれさまです」
彼女が靴を履いてバッグを肩にかけ直すと、木崎と共に基地を出て、車へ向かった。失礼しますと一言添えて助手席に乗った桔梗がシートベルトをつけたのを確認し、木崎は車を発進させた。
桔梗が以前暮らしていた家は、四年半前に近界民の襲撃で壊されてしまっている。また幸人と両親とが言い争ったことで、幸人は高校卒業後に桔梗を連れ出すように家を出たこともあり、彼女は幸人と二人暮らしをしていた。警戒区域からそう離れていない立地なこともあって住もうとする者がおらず、家賃の安い2LDKの家だ。
「幸人の具合はどうだ。退院したんだろ」
「はい。四週間ほど自宅療養をとのことですので、早くても来月末には職場復帰できるそうです。骨がくっつくのには、二ヶ月ほどかかるみたいですが」
「そうか」
先日無事退院した幸人は、自宅で療養後、医師の判断を得てから本部でエンジニアとして職場復帰することになっていた。
「それで、話というのは?」
窓の外を眺めていた桔梗は、視線を木崎のほうへ向け、単刀直入に尋ねた。それを受け、彼は前を向いたまま雨取の件だと告げる。桔梗としては予想通りの返答であったが、しかし木崎が話した内容は、予想外のことだった。
「トリオンの件で、過去のことを利用したようになっただろう。そのことを、謝りたかった」
ぱちりと、桔梗は目を瞬かせて顔ごと木崎を向いた。その瞳は驚いたように丸くなっている。彼女はてっきり、訓練メニューだとか、合同訓練での千佳の様子だとか、そういうことについてだと思っていた。そのため思わぬ本題に、返事が送れた。
そうですか。驚きつつ呟いた桔梗は、一度視線を下げて、再度木崎を見つめて、大丈夫です、と続けた。
「私に彼女の訓練を見させるには、充分効果的なことです。それに、わざわざ謝ることでもないでしょう」
「だが、おまえにとっていいものでもないだろ。だから、すまない」
ちょうど赤信号に捕まった。木崎は桔梗のほうを向くと、頭を下げて謝罪をこぼす。そんな姿に律儀な人だと心の中で呟いた桔梗は、受け取っておきます、と謝罪を受け入れた。そうしないと、彼は納得しなさそうだったからだ。
「でも本当に、謝ることはないかと。兄さんは、いえ……迅さんは、私と彼女とを引きあわせたかったようですし」
「迅が?」
「はい。兄さんは異様に、玉狛へ行くよう勧めてきました。そこでいい出会いがあって、私をいい方向へと導いてくれるから、と」
今考えて見れば、自分と千佳とを会わせることが目的であったとわかる。しかし千佳を知らない幸人が、それを「いい出会い」と断定できるわけもない。ならば誰かがそう幸人に伝えたと考えるのが自然だった。
だとすれば、そんなことを言えるのは、未来視を持つ迅くらいのものだ。何を思って迅が桔梗と千佳とを会わせたかったのかは定かでないが、少なからず、何かしらの意味があってのことというのは確かだった。
「それがどういう未来なのか、私には知る由もありません。それに、いい出会いかどうかもまだ判断できません。けれど、少なからず、私は彼女を放ってはおけそうにありません……迅さんは、私に彼女を守らせようとしているのかもしれませんね」
そう告げると、桔梗は木崎へ向けていた瞳を動かして、暗い住宅街を見つめた。信号が青へと変わったのを機に、木崎は前を向き直してアクセルを踏んだ。
桔梗が玉狛に異動することが決定した数日前に、林藤と木崎の二人だけは、幸人から彼女の事情を聞いていた。
狙撃手のノウハウを自分が千佳に教えることは、そう難しいことでもない。しかし現役狙撃手であり、合同訓練でも一緒になる桔梗のほうが気付く点もあるだろう。それこそ今回のように、高所から低所、低所から高所への狙撃や、遮蔽物のある場合での射線の通るポジション探しなどを訓練に組み込むことも、千佳の不得意な部分に気付いた桔梗が提案したことだ。
また、幸人から桔梗を任せられているというのもあった。他人との関わりを必要最低限のものにしてまで拒む彼女を、幸人は心配していた。そのため、彼女に少しでも他人との繋がりを持ってほしいという幸人の願いを、木崎は友人としてできる限り叶えてやりたいと思っている。それもあって、彼は桔梗が千佳に興味を示す理由になり得る彼女のトリオン量について教えたのだ。
「ああ、そうです。雨取さんの件で、私も木崎さんに頼みたいことがあります」
閑散としはじめる住宅街を見つめていた桔梗は、思い出したような口振りで、いつもと変わらぬ表情で木崎を見た。彼が頼み事について促すと、桔梗は身体も少し彼へと向けた。
「雨取さんの師匠は、木崎さんということにしておいてほしいんです。正確には、木崎さんだけ、ですね」
自分は千佳の師匠ではない、ということにしてほしい。桔梗が言っているのはそういうことで、突拍子もない願いに木崎は眉をひそめた。理由を聞かれることは彼女もわかっていたからか、木崎が尋ねる前に口を開いた。
「本部では、私をよく思っていない隊員もいます。私が色々言われる分にはかまいませんが、雨取さんに飛び火させるわけにいきませんから」
お願いします。そう頭を下げた桔梗に、木崎は納得いっていない風だったが、渋々了承した。それが、今彼女ができる精一杯の優しさであるとわかっているからこそ、無碍にはできなかったのだ。
桔梗はあまりにも優しすぎたというのは、幸人の言葉だ。彼女の事情を話したときに、幸人は困ったように笑って、どこか遠くを見つめながらそう言った。話を聞いていた林藤と木崎は、接していくなかで彼が桔梗をそう評する意味を理解できた。
桔梗は決して、他人を慮る心を持っていないわけではない。そのほとんどが兄へと向けられているだけの話だ。否、必要以上に他者へ向けないよう自分で制限しているだけだった。それが、彼女が考えに考え抜いた、彼女なりの他者への気遣いで、優しさであると知っているのは、極々僅かな者だけ。
四年半前のことを、木崎は鮮明に思い出せる。片腕を失った桔梗を守るように近界民との間に入っていった幸人を助けたのは、何を隠そう木崎であった。
「兄さんを助けてくださり、ありがとうございます」
桔梗にとって幸人は特別な存在である。そのため彼の恩人である木崎に対しては、他の人に比べると少しだけ、僅かに、態度が柔らかかった。しかし目に見えてわかるほどでないため、それに気付いている者は少ない。
「私の腕は気にしないでください。片腕なんて、兄の命に比べれば安すぎて、お代にもなりませんから。それに、誰も悪くなかったんです。逃げ遅れた私だけが悪かったんです」
そう淡く微笑んだ桔梗を、木崎はきっと忘れやしないだろう。その後再び会いにいった時には既に、彼女は今のように他者から距離を置くようになっていて、けれどふとした時に、微笑んでいた桔梗の名残のようなものが見えた。制限してもしきれない感情が漏れてしまうことがあった。
自分のせいで千佳まで悪く言われるわけにいかない。その言葉こそ、まさしく名残だった。
「……迅は、雨取を守らせるためにおまえを玉狛に異動させたかったわけじゃないと思うぞ」
「どうですかね。彼女は人一倍近界民に狙われますが、自分を守る術がまだないので」
少なからず、彼女を盾にするような、そんなためではない。木崎はそう伝えたが、桔梗は感情のわからない声で言葉を返した。
ふと、車内に軽快な音がした。桔梗がスマホを確認すれば、念のためにと連絡先を聞いておいた千佳から、メッセージが送られてきていた。「今日はありがとうございました。またよろしくお願いします」という丁寧で短いメッセージ。普段桔梗が帰る際に直接伝えられる言葉だが、今日はその前に彼女が帰ってしまったため、こうしてメッセージを送ったのだろう。
数秒画面を眺めた彼女は、何度か親指を画面に近付けたり離したりして、「おつかれさまです。こちらこそ、よろしくお願いします」という簡素な言葉を送り返した。
やはり、迅には何か別の意図があったのだろう。それこそ、桔梗にいい変化が起こるような。彼女の行動を横目に見た木崎は、素直に受け取られることはないとわかっているから、口にはしなかった。