- ナノ -

痛みを運ぶ風はやまない



   ドアを開けると、外の冷え冷えとした空気が室内へと吹き込んで、女性は少し身震いをした。玄関の外には、見覚えのない少女が一人立っていた。風で揺れる左袖を凝視してしまったが、すぐに失礼だと視線を外した。


「どちら様ですか?」


   見たところ、十代くらいの少女のようだった。息子の同級生だろうかと疑問に思いつつ尋ねると、彼女は小さく頭を下げた。


「突然すみません。以前、こちらの娘さんに勉強を教えていた人を、覚えていますでしょうか?」


   女性は記憶を巡らせ、すぐに思い出した。もう五年以上は前のことだ。娘の家庭教師をしてくれていた青年が頭に浮かび、おずおずと頷けば、少女は僅かに眉を下げて、名前を名乗った。

   その名前に、聞き覚えがあった。青年の口からよく出てきていた、彼の妹と同じだったからだ。よくよく見れば見せてくれた写真の面影があり、女性は驚いたように瞳を瞬かせた。


「兄のことで、ご報告があるんです」


   そう話す少女を中へ迎え入れた女性は、リビングへと通し座ってもらうと、ホットココアを淹れて彼女の前に置いた。少女はまた眉を下げると、お礼を伝えた。

   少女はぽつぽつと話しはじめた。ゆっくりと、言葉を選ぶように、彼女の口からこぼれ出る言葉を、女性は聞き逃さぬように何度も相槌を打った。


「兄から皆さんのお話は聞いておりましたし、お世話になりましたので、ご報告をしたほうがいいかと思い……お時間を頂いてしまい、すみません」


   深々頭を下げる彼女に慌てて頭を上げるように声をかけた女性は、少女に労りの言葉をかけた。

   礼儀正しく、落ち着いた雰囲気は年齢に比べ大人びた印象を与えるが、けれども女性は、彼女が今にも消えてしまいそうな危うさも覚えていた。ぼんやりとマグカップを見つめる瞳が揺らいでいるように見えたのは、きっと彼女の気のせいではなかっただろう。

   ココアを飲むように促せば、少女は顔を上げて、おずおずと右手を出した。視線はつい、左腕に注がれて、少女は困ったように微笑んだ。


「お見苦しいものを、すみません」

「え?   あ、ああ、いいえ、そんな……そんなことないわ……私こそ、不躾にごめんなさい」

「お気になさらず。小さな子には、直接聞かれることもありますから」


   空っぽな袖をそのまま垂れ流すのは邪魔なのだろう。二の腕あたりで結ばれており、彼女が少し動くだけでプラプラと揺れた。

   冷ますように息を吹きかけて、少しずつココアを啜った彼女は、美味しいですと一言こぼしてマグカップを置くと、そっと左袖を見た。


「一年前に失くしたんです。例の災害で。もうないんですが、痛むんですよ。こうも寒いと、より一層痛む気がして。人体の不思議ですね」


   しみじみ呟いた彼女に、女性はなんと言うべきかわからなかった。少し気まずげな空気が流れるなか、少女は不意に尋ねた。


「兄の代わりに、お線香をあげてもよろしいですか?」


   その言葉に、女性は一瞬呆気に取られたが、すぐに頷いた。

   線香をあげ終えた少女は、そろそろお暇します、と女性を振り返り、ゆっくりと立ち上がった。しかし重心が不安定なのかふらりと倒れそうになるものだから、慌てて支えてあげると、少女は申し訳なさそうに謝罪とお礼を告げた。

   ひんやりとした風を浴びながら、玄関を出た少女はゆっくりと頭を下げた。


「息子さんには、兄のことはお伝えしなくともかまいませんので。まだ冷え込むようですから、お身体にはお気をつけて」












   タイトルを眺め、あらすじに目を通した桔梗は、食指が動かなかったのか手に取っていた本を棚に戻した。数歩移動して綺麗に並べられている本をじっと見つめて、気になった本を手に取る。そうしてまたタイトルとあらすじに目を通す。それを何度も繰り返していた。

   早急に欲しい本があった桔梗は、少し大きめの書店を訪れていた。吟味して選んだ四冊を手に、少し他のも見ていこうと、本棚に挟まれた通路をゆっくりと歩いている。

   外はすっかり冷え込んで、冷気が肌を刺すようだが、室内は空調が効いているため少し暑いくらいだった。桔梗は時折左手の指先を軽く動かしながらも、視線は本棚を見つめていた。


「おにいちゃん、これほしい!」

「この前、サンタさんからあたらしい絵本もらっただろ」

「もらったけど〜……」

「うーん……なら、兄ちゃんもいっしょにママにおねがいしてやるよ」


   聞こえた会話に、桔梗はつい視線を向けた。かわいらしい水玉模様のワンピースを着た女の子が、兄だろう少年のズボンをくいくいと引っ張っている。どうやら欲しい絵本をおねだりしているようで、仕方なさげに妹の手を引いて母親のもとへ向かう姿は、見ていて微笑ましいものだった。

   寒さが強まると、よく腕に痛みを感じた。それは血流が悪くなり、筋肉が硬直することが原因らしい。しかし痛むのはないはずの左手で、未だに腕があるかのような感覚で、痛みを感じた。義手をつけていないときは特にだ。それが所謂幻肢痛だと桔梗が知ったのは、病院で教えてもらったからだった。

   痛みはいつだって間欠的なものだ。毎日起こるわけでもない。けれどふとした時に、刃物で裂かれているかのような痛みが走った。ボーダー入隊を機に義手をつけてからはその頻度も減ってはいるが、常時義手をつけているわけではない。家で過ごしているときにはなるべく義手は外している。そのため痛みが起こるのは、基本家にいる時が主だ。

   けれど時折、義手をつけた状態で外に出ているときにも、弱い痛みが左腕を走ることがあった。今だってそうだ。指先に感じるものは、確かに痛みと呼んでいいだろう。

   しかし然程気にするものでもなく、義手無しのときに感じるそれに比べればかわいいものなため、桔梗は無視して本の吟味を続けた。


「お、桔梗じゃねぇか」


   目にとまった本に手を伸ばした桔梗は、そのままの体勢で顔を動かした。こちらに向かって軽く手を上げる男の姿を見て、彼女は数回瞬きをして、「こんにちは、諏訪さん」とだけ言って本棚へ視線を戻した。伸ばしたままの手で本を棚から抜き取れば、その間に隣に来た諏訪が、彼女の手もとを覗き込んだ。


「それ、どんな話だ」

「……現代で起こった殺人事件の捜査をする中で、十年前の未解決事件の真相も明らかになっていく、そんな話かと」


   あらすじに目を通して棚に戻した桔梗は、へえ、と聞いてきたわりに興味なさげな返事をする諏訪を一瞥し、別の本へと意識を向けた。


「新しい本の発掘か?」

「はい」

「これとか結構いいぞ」

「もう読みました」

「マジか。よかったろ」

「そうですね。トリックが中々おもしろかったです」


   差し出された本を数秒見て返事をしながら、桔梗は書店のオススメと大々的に銘打たれている本を視界に入れた。偏屈な刑事と、そんな先輩に振り回されている若い相棒刑事の二人が、連続殺人事件に挑む話だ。序盤から犯人が明かされており、どうやって犯行を証明していくか、という推理小説、「Iのヒガン」。猟奇殺人と仄暗さを含んだ内容の中に、時々描写される二人のコミカルなやりとり。そのギャップが好評で、ベテラン俳優と今話題の若手俳優を起用し、つい最近映画化もされている。

   桔梗は既に読んだことがある内容なため、話の流れも犯行のトリックも知っている。映画は気になりはするが、観に行くほどではないため、DVDにでもなった頃に観ればいいかと考えている。


「これ映画化したんだっけか」


   彼女の視線の先を追った諏訪は、本を手に取り表紙や背表紙をまじまじと見つめている。中々面白かったな、と呟く彼の声を聞きながら、桔梗はそうですね、と相槌を打った。でも私は、彼女はそう口を開こうとした。


「まあ、俺は『花の棺』のが好きだけどな」


   呟かれた言葉に、桔梗は口を開いたまま、声ではなく息を吐いた。

   「花の棺」は「Iのヒガン」と同じ作者が書いた作品であり、こちらも推理小説の一つ。とある女性の恋人の葬式から始まるその物語は、その女性が恋人の死を受け入れられず、事件の解明を主人公である探偵に依頼する、というストーリーである。読んでいく内に恋人の死に隠されている秘密、事件の真相が明かされるのだが、全てを知った上で始めから読み直すと、より一層惹き込まれていく作品だ。


「……私も、そっちのほうが好きです」

「へえ、奇遇だな。全部理解した上でもう一回最初の葬式のシーン読み返すと、見方変わるんだよな。『あんな軽い棺を見送ったって、虚しいだけでしょう』って言葉も、読み終われば意味が理解できる」


   本を棚に戻した諏訪は、なにかを思い出したようにフハッと笑った。


「そういや、初対面の時も同じようなことあったな」


   諏訪と桔梗が会ったのは、諏訪がボーダーに入隊してから二ヶ月ほど経った頃のことだ。幸人と知り合い、同い年ということで仲良くなった際に、幸人から妹と会ってほしいと言われたことが始まりだ。

   家でも学校でも、桔梗は一人で本を読んでいることが多い。片腕を失くしたことで、周囲は腫れ物を扱うような態度になり、時に不自由な彼女に顔をしかめる。桔梗もあの大災害の日から幸人以外に心を開かなくなっており、孤立している状態だった。そんな彼女を心配するなかで、彼女が読んでいる本の中に諏訪が持っているものがあることに気付いた幸人は、いい話相手になればと二人を会わせた次第である。


「まんま言葉が被って、幸人が楽しそうに笑ってやがった」


   初対面のとき、桔梗は家のリビングで読書をしていた。幸人から会わせたい人がいると連絡が来ていたため、それを待っていたのだ。そうして家に来た諏訪は、桔梗が読んでいた本を見て、自分も読んだことがあると話し、悪くない話だったと続けた。それに対してそっけなく返事した桔梗に特に嫌な顔をするでもなく、諏訪は顎に手を置いた。


「フーダニットに焦点当たってるから、読みながら犯人探しできて面白かったな」

「そうですか」

「でも、俺は『餞には心臓を』のが好きなんだよな』

「ですが、私は『餞には心臓を』のほうが好きです』



   桔梗もそのときのことはしっかりと覚えている。ピッタリと被さった声に目を丸くして驚く自分たちのそばで、幸人が「二人は気が合うねえ」と笑っていた姿をすぐに脳裏に浮かべることができるくらいには、彼女の中で印象に残っていた。

   カラカラ笑っていた諏訪は、そうだ、と桔梗を見た。


「幸人の手術、成功したんだってな」

「はい。退院や仕事に戻るまではまだ時間が必要ですが、経過は良好なようです」

「今度風間とか誘って見舞いでも行くか」

「お時間があるなら、ぜひ。兄さんも喜ぶと思います」


   幸人は諏訪や木崎、風間に寺島と、同い年なメンバーとは、ご飯を食べに行ったり、誰かの家で飲んだりと仲が良く、桔梗が入隊してからは四人が家に来ることもあった。そのため、彼女と関わりがあった。幸人の病気が判明してからはそれも無くなってしまったが、桔梗が学校や任務で不在の際に誰かしらが彼を訪ねたりしていたようで、幸人から話を聞いている。

   桔梗は少し視線を横へ移動させて棚を眺め、手もとにある四冊の本を手にレジへと向かった。


「もういいのか?」

「はい。興味のあるものがありませんでした」


   へえ。呟いて、諏訪は桔梗の後ろを歩く。彼女はそれを気にはせず通路を進んでいった。

   そう混んでいなかったこともあり、並ぶことなくレジへ進むことができた彼女は、持っていた四冊の本を置いた。諏訪は何も買うものがないようで、その間も彼女の後ろに待機していた。


「……それ、おまえが読むのか?」


   指差されたのは、会計中の本。「指導の基本」「良い後輩の伸ばし方」「教え上手になるには」「師の務め」と、どれも後輩指導に関する本ばかり。諏訪は本と桔梗とを順に見て、どこか困惑している風だった。桔梗は財布から会計金額をピッタリ払い、貰ったレシートを不要なレシート入れに入れながら、はいと頷く。差し出された袋は、桔梗の後ろから伸ばされた諏訪の手に渡り、彼女は伸ばしかけた手を下ろした。


「自分で持てます」

「おー。つか、何で指導本?」

「必要だからです」


   書店を出れば冷たい風が肌を撫でるので、桔梗は少し眉を寄せた。諏訪はそりゃ必要だから買うんだろ、とおかしそうに笑った。

   結局、諏訪は桔梗が買った本を持ち彼女を自宅に送ると、ヒラヒラ手を振って帰っていった。そんな彼の後ろ姿をじっと見つめた桔梗だったが、フイッと顔を背けると、一人きりの自宅に入っていった。