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あの子のいぬ間に密会



一段と冷え込んだのは、雪が降っているからだろう。世間が賑わいを見せたクリスマスもとうに過ぎた。玉狛支部では相変わらず訓練が続いているし、桔梗もクリスマスなんて頭の中から抜け落ちていた。何せ、幸人の手術が脳内を埋めていたのだから。


「兄さん、身体はどう?大丈夫?」

「大丈夫だよ。ほら、無事成功したんだから」


病室で横になったまま、桔梗を安心させるように笑った幸人に、彼女は少し眉を下げはしたものの、笑みを見せた。

大動脈弁閉鎖不全症。それは、幸人が患った病だ。彼は先天的な弁以上があり、本来ならば三つの弁でできている大動脈弁だが、彼の場合は弁が二つしかしかない二尖弁であった。

十七歳のとある日。普段ならば苦でもない動きに動悸を覚えたことが、最初の違和感である。しかしそれを気にする暇もないまま、設立されてすぐのボーダーへ入隊した。少しずつ症状は悪化してきており、今年の十月末頃、重い腰を上げて病院で検査を行い、病が発覚した。

胸骨正中切開手術になるため、手術の傷痕は残ってしまったが、手術は無事成功したため、幸人はさして気にしていなかった。そこには、胸の傷痕程度で嘆いていては、片腕を欠損という自分以上の傷痕を持つ桔梗に失礼だと感じたこともあるのだろう。


「退院には二週間くらいかかるらしいから、まだもう少し家には帰れないんだ。ごめんね」

「ううん。兄さんが元気になるなら、それでいいの」

「仕事への復帰については、鬼怒田さんには俺から連絡しておくよ」


穏やかに笑う幸人の姿に、桔梗は肩の力をようやく抜いた。顔の強張りもなくなり、おずおずと彼の手を握った彼女は、ゆっくりと手の甲を撫でつけた。


「玉狛の新しい子たちはどう?桔梗も狙撃手の子を見てあげてるんだろう?」


どこか暗い空気を変えようとしたのだろう。幸人は、千佳たちの話題を出した。桔梗は何度か瞬きをすると、少し考えてから、特に変わりはないと答えた。遊真が持ち武器をスコーピオンにしたことも、修が射手シューターへと転向したことも、彼女にとっては特別気にとめるほどのことでもなかった。


「そっか。今日は、もう訓練は見に行かないの?」

「木崎さんがいるから」

「レイジは狙撃手の経験もあるからなあ……でも、普段から狙撃手をしてる桔梗も見てあげてたほうが、その子にもいいんじゃない?」

「……兄さんは、私を追い出したいの?」

「違うよ。俺はね、桔梗。桔梗が新人の訓練を見てあげるって言ったとき、嬉しかったんだ。だから、そっちに集中してあげてほしいだけだよ」


不安げな顔を浮かべた桔梗を宥めるように、幸人は彼女の手をぽんぽん、と軽く叩いた。桔梗は僅かに視線をそらすと、わかったと頷いて、ゆっくりと立ち上がった。これから訓練を見に行く気になったのだろう彼女に、幸人はいってらっしゃいと笑って声をかけた。

バッグの中からスマホを取り出して、少し操作をした彼女は、名残惜しげにしながらも病室を出ていく。なるべく音を立てぬよう、そっと扉を閉めた。

その十分後くらいか。病室の扉が開いた音に、幸人は視線を動かした。


「お見舞い、来てくれたんだ。今日は任務が入ってなかったんだね」


ツカツカと入ってきた男は、彼の言葉に視線だけよこすと、床頭台に持っていた紙袋を置いた。


「閑から本とDVDだ。入院生活暇だろうから、だと」

「それは助かるなあ。どう暇を潰そうか考えてたんだ」

「元気そうだな」

「痛み止めも効いてるからね」


仏頂面のような顔をした男とは対照的に、幸人は笑みを崩さない。そんな彼に、男は眉間のしわを深く刻んだ。


「……おまえのソレは、相変わらず気色悪いな」


突然降りかかってきた罵倒とも言えるフレーズに、幸人はしばし目を瞬かせたが、しかしすぐに愉快そうに笑い声を上げた。そのせいか、僅かに手術痕がピリリとしたが、然程気にする痛みでもなかった。


「それ、僕相手だからいいけど、おまえはただでさえ言葉が足りない上に、普段から怒ってるような顔してんだ。もうちょっと配慮したほうがいいぜ?」


大口開けて笑う幸人に、男は軽く鼻を鳴らした。


「でも、そう言ってくれるなよ。自分でもわかってはいるんだ。このままじゃよくないってことくらい。でも、僕じゃどうもしてやれない」


どこか諦め混じりな笑みを浮かべた幸人は、どうもしてやれないんだ、と繰り返した。


「だから、玉狛に預けたんだよ。そうすれば、あの子に良い変化が起こるらしいから」











桔梗がトレーニングルームに入ると、先に気付いた木崎が彼女へ視線をよこした。振り返った千佳が慌てて彼女に頭を下げて挨拶をするので、桔梗も挨拶を返した。


「よかったのか、こっちに来て」

「手術も無事終わりましたし、兄さんが雨取さんに集中してあげてほしいと言うので、かまいません」

「そうか……」


進捗を尋ねれば、木崎は手にしていた的を桔梗へと寄せた。弾の跡は五発。内四発は中心部分を貫いていた。着実に狙撃の精度は上がってきており、桔梗はしばし眺めてから、顔を上げた。


「私は、合格でいいかと」

「俺もだ」


二人の言葉に、千佳は安心したようにお礼を伝えた。

以前桔梗が言っていたように、千佳は狙撃のセンスは決して高くはない。しかし、彼女の素直さと、人の倍は行える練習量がそれをカバーして余りある。本人の性格と狙撃手というポジションも相性がよかったのだろう。弟子の優秀さを改めて感じながら、木崎は動く的の狙撃の前に、狙撃手の基本戦術についての指導に入ると告げた。


「まず狙撃手の基本は、なんだと思う」

「え、っと……隠れること、ですか?」

「隠密行動は狙撃手の基本。それも間違ってはいません」


千佳の答えにそう返すと、桔梗はそれに付随するようなものだと付け加えた。


「狙撃手にとって、自分の位置を知られることは不利です。そのため、位置を知られないようにしなくてはならない。だから隠密行動も基本。ですが、弾を撃てば、隠れていようが必然的に位置は割れますよ」


なるほど、と頷いた千佳は、桔梗から言われたことを頭の中で整理して、あれこれと考える。隠密行動、位置を知られてはいけない、撃てばバレる。そんなワードがぐるぐる回るなかで、何度か口を開閉し、少し自信なさげに視線を上げた。


「移動、ですか?」


数秒黙った桔梗は、彼女の答えに一つ頷くと、正解であることを告げた。


「狙撃手は、位置を知られてしまえば、向こうから反撃されるリスクがある。だから、撃つごとに狙撃地点を変えていく。狙撃手は居場所を知られたら負けだと思え。まずは姿を隠すんだ。相手に見つかったまま戦おうとするな」


数発ごとに狙撃地点を変える。それは狙撃手の基本中の基本である。狙撃手は動かないと思われがちだが、むしろその逆であり、狙撃手は存外走るものだ。

本来なら防衛任務に就きはじめるB級に上がってから教わることだ。しかし、先にそちらを教える辺り、木崎は千佳がB級に上がることを確信しているのだろうことが窺えた。桔梗も、彼女はB級までは難無く上がれるだろうと思っているため、それに異論はなかった。


「それと、隠密行動に置いて、狙撃手は『バッグワーム』を着ておいたほうがいいかと。『バッグワーム』の使用中は少しずつトリオンを消費しますが、レーダーには映らないので、オペレーターの目も掻い潜れます」

「狙撃地点についてだが、相手から見て射線の通りにくい位置を意識しろ。攻撃手や銃手ガンナーと距離を取ることや、広い視界を得るという意味でも、高所にいるのは大きい」

「一発で相手をキルするなら、狙うのは頭か心臓ですが、的の大きい胴体が当てやすいかと。ですがわざわざ人を狙わずとも、味方の援護に回るのも一つの手です」


何度も何度も頷いて、返事をして、千佳は二人が教えてくれることを頭に叩き込んでいった。そんな彼女の様子に、木崎は一気に覚えようとしなくてもいいと伝えると、動く的への狙撃練習に入ることを告げた。

的は同じ物を使用するが、今度の的は一定スピードで左右に動く仕組みとなっている。止まっている的とは異なり、弾丸が飛ぶ間に標的が動く分を見越しての偏差射撃を行う必要があるため、難易度は当然ながら上がる。まだ入隊日まで約十日ほど時間があるため、焦らないようにじっくりと練習するよう言いつけ、木崎は訓練を再開させた。













木崎と千佳より一足早くトレーニングルームを出た桔梗は、リビングにてルーズリーフにペンを走らせていた。テーブルの上にはホッチキスと数枚の紙が置かれている。


「ききょうちゃん、なにしてるんだ?」


向かいから机を覗き込んできた陽太郎に一瞬だけ視線を向けて、桔梗は必要なものの用意だと端的に答えると、再度文字を綴っていった。


「なかなか勝ち越せない……そろそろいけると思ったんだけど」

「あたしに勝ち越そうなんて千年早いのよ。あれ、桔梗さんだけ?レイジさんと千佳は?」

「トレーニングルームです」


リビングの扉が開くと、訓練を終えたらしい小南と遊真が中へと入ってくる。その数分後には烏丸と修も戻ってきて、彼らも小南と同じことを尋ねるので、桔梗は同じ言葉を返した。


「空閑、スコーピオンには慣れたか?」

「結構いい感じ」

「そっちはどんな感じ、とりまる。そいつ、射手として使いものになりそうなの?」

「修の発想と工夫次第、ですね。修は知恵があるので、それを上手く活用できれば、それなりに戦えると思いますよ」


人口密度が増えて賑やかになったリビングでは、各々が先の訓練について話をしている。桔梗はそれを耳には入れつつ、ペンを置いて数枚の紙を束ね、左上をホッチキスでとめた。


「あの、桔梗先輩。千佳は、どんな感じですか?」


彼女の作業が終わった頃合いを窺い、修がおずおずと尋ねた。桔梗は彼の方を一瞥すると、問題ないです、と告げる。


「今日から動く的への狙撃に移行しました。基本戦術についても話はしましたので、少しずつ覚えていくでしょう」


リビングの扉の開く音に、桔梗は顔を上げた。入ってきたのはトレーニングを終えた木崎と千佳、そして全ルームのセッティングをしていた宇佐美だった。千佳を視界に入れた桔梗はスッと立ち上がると、先程まとめていた紙を手に彼女の前に歩み寄り、少し腰を屈めてそれを差し出した。

ぱちぱち、と二度ほど瞬きをした千佳は、よくわからないままに差し出された紙を受け取り、視線を紙面へ滑らせ、目を丸くさせた。


「訓練の際に話した基本戦術についてまとめてます。それと、『バッグワーム』と、狙撃手の扱う銃についても。銃に関しては、入隊日の入隊指導オリエンテーションで実際に扱うことができるでしょうから、簡単にだけ書いてます。今すぐ覚えろとは言いませんが、入隊日までには頭に入れておいてください」

「あ、は、はい……!ありがとうございます……!」


千佳に紙を渡し終えた桔梗は、早々に帰り支度をはじめる。木崎が夕飯を食べていかないのか尋ねたが、彼女は大丈夫だと断った。


「なら、先に送っていく」

「……先に食べてください。待ちますので」

「そうか、悪いな」


いえ。一言こぼして、桔梗はリビングを出ていく。玉狛の隊員用の個人部屋に移動したのだ。彼女が基地を訪れた際に帰りが夕方を過ぎたとき、木崎は任務などが入っていない限り、必ず桔梗を家まで送って帰っている。毎回断っていた桔梗だが、いつも折れるのは彼女で、ここ最近は断るのも面倒になったのか、素直に待つようになった。


「何書いてるのかと思ったら、千佳のために用意してたのね……」

「桔梗さん、意外と面倒見がいいのかな?」

「どんなことが書いてあるんだ?」


呆気に取られている面々をよそに、千佳は受け取った紙をじっと見つめた。そんな彼女の後ろから覗き込んだ遊真だが、漢字が読めないため眉を寄せて首を傾げている。

綺麗な字が並んでいる中に、所々図面も入っているそれは、読みやすいものだ。重要な部分には赤ペンで下線が引かれているためわかりやすい。

やはり、トリオン量について教えたのは正解だったか。紙を見つめる千佳を横目に、木崎は心の中で呟く。

桔梗に彼女の桁外れのトリオン量のことを教えたのは、木崎である。それを知れば、確実に桔梗が食いつくと木崎は知っていたからだ。しかし予想以上に指導について真面目に取り組んでくれることに彼自身も驚きつつ、千佳によかったな、と声をかけた。