だって火傷してしまうわ
理由(わけ)あって“偉大なる航路”を逆走しているらしいエースは、様々な島々に立ち寄り、人を探しているのだとエヴァに話した。
「うちの隊員が、“仲間殺し”をしたんだ。隊長のおれは始末をつけなきゃならねェ。だから、こうして逆走してんだ」
「なるほど……」
だから彼だけが前半の海にいるのかと納得したエヴァは、それより、と口を開く。
「火拳さんは何故、当然のように私と買い物を?」
「ん?ダメだったか?」
「いえ……そういうわけではないですが……」
早くその“黒ひげ”と名乗る男を探さなくていいのかとエヴァが思っていれば、その考えを読んだかのように、エースは少し神妙な顔つきを浮かべた。曰く、この近辺の海でその男の目撃情報があったのだと。だから少しでも情報を仕入れたいらしく、もうしばらくこの島に滞在し、島民から話を聞こうと思っているのだと、彼は話した。
「だからまあ、よろしく頼むよ」
いったい何をよろしくするのか。エヴァは呆れたような顔を浮かべたが、一々気にしていては疲れてしまうだけだと思い、気にしないことにした。
「そういやあ、その鍵って何の鍵だ?」
視線を僅か下に向けたエースは、指を差した。彼の指と視線の先には、エヴァの腰にぶら下がる鍵がある。彼女はそれを一瞥し、顔を上げた。
「これは……わかりません。鍵しか持ってないので。でも、大事なものです」
「ふうん。そっか」
パッと笑った彼は、そう気にしてはいなかったようですぐに話題は変わった。
エースとは出会ってまだ数日程度ではあるが、彼が存外礼儀正しく、人懐こい男であることがエヴァにはよくわかった。島民に気さくに声をかけ、挨拶はしっかりと行う姿はまさに好青年という言葉に尽きる。海賊には粗暴な輩が多いものだが、彼はその例に当てはまらないタイプのようだった。
「なァ、エヴァはどこの海出身なんだ?」
「生まれは“北の海”です」
「へえ、“北の海”出身か……おれは“東の海”で育ったんだ。あれ、言ったっけ?」
「弟さんが“東の海”にいるとは」
そうだそうだ。笑ったエースは、楽しそうに兄弟の話をはじめた。なんでも三人兄弟だそうで、自分が一番上なんだと自慢げに話しており、エヴァはそれに適度に相槌を打った。
「ま、あいつもおれが一番上って言いそうだけどな」
その言葉に、エヴァは首を傾げた。恐らくもう一人の兄弟を指しているのだろう言葉だが、何故互いが一番上なのか。双子なのかもしれない。もしくは、血が繋がっていないか。考えられる選択肢はその二択だが、わざわざ聞くことでもないだろうとエヴァは何も言わなかった。
「長男二人、弟一人の三人兄弟なんだよ。まァ、そのもう一人の長男は、小せえ頃……十歳だったな。そん時に死んじまったけど」
こういう時、どんな言葉を返すべきであるのかが、エヴァにはわからない。そのため、そうなんですか、と無難なことしか言えなかった。しかしエースは大して気にしておらず、寂しそうな瞳をしながらも、懐かしむような声音で「ああ」と一つ頷いた。
「ルフィの方は泣き虫で弱虫で、おれらの後ろをついて回って……あの頃はちと鬱陶しくもあったが、今思い出せばかわいいもんだよ」
「火拳さんは、弟さんが好きなんですね」
エヴァの素直な感想に、エースはぱちりと瞳を瞬かせ、そして笑った。
「まァな。おれのたった一人の弟なんだ。あいつが立派になるまでは、心配で死ねないんだよ」
懐かしむような声音を聞きながら、エヴァは積まれているリンゴを一つ手に取った。リンゴと桃を数個ほど買った彼女は、受け取ろとした袋を横から先に取られ、瞳を瞬く。当然のように荷物を持つエースを見上げた彼女だったが、何も言わずに手を下ろした。
「エヴァは、兄弟いねェの?」
「いません。一人っ子です」
「そうか……寂しくねェか?」
弟がいるからだろう。エヴァの方が歳が上であるにもかかわらず、エースはエヴァの世話を焼く。こうして荷物を持ってくれたり、細いからもっと食えと小言のようなことをこぼしたり。これではどちらが年上かわかったものではないし、実際島民もエースの方が年上だと思っているようで、何度か兄妹に間違われた。
「先日も言いましたが、最初からいないのなら、何も思うことはありませんよ」
「……エヴァは、アレだな。リアリスト?ってやつだな」
「まあ、ロマンチストではないでしょうね」
「海賊王」の称号も、「ひとつなぎの大秘宝」も、夢やロマンに溢れている。それらを追いかける海賊は、大概ロマンチストだろう。中にはそうでない者もいるため、比較的にそちらの方が多いという話だ。エヴァはその比較的多い方ではない、というだけ。
夢を語る姿から放たれる輝きは、たとえいくつになっても衰えない。しかし自分はどうだろう。夢などなくなってしまったこの身は、輝きを失った夢の残骸に縋るしかなく。それを頼りに進んでいくしかない。夢を追う海賊には到底向いていないというのにこの道を選んでしまったのは、手段でしかないからだ。エヴァは自嘲気味に心の中で呟いた。
市場から出て、二人はエヴァの船へと向かう。人の通りもなくなってきた道を並んで歩きながら――エースがエヴァの歩幅に合わせてくれていた――彼女はほとんど諦めたような声音で呟いた。
「己の考えの狭さを世界のせいにする気はないですが……でも、私なんかでも夢を見れるような、そんな世界であったらよかったんですけどね」
眩い太陽を浮かべる抜けるような晴天に、世界を繋げる美しい青で覆われた大海。鮮やかであり控えめに咲く花々と、生命の強さを感じさせる植物たち。世界はこんなにも綺麗なもので溢れているが、しかしてそこに住む人々は、どうにも醜さが拭えない。視線を伏せて一つ息を吐いたエヴァを見下げ、エースは口を開いた。
「エヴァ。お前はこの世界、生き辛いのか?」
足を止めた彼の四歩ほど前で振り返ったエヴァは、じっと彼を見つめ、視線を下げる。
「そうですね。どちらと聞かれたら、生き辛いと言わざるを得ないかと」
「そうか」
「はい」
「おれも同じだ」
少し困ったような、寂しそうな、そんな笑い方だった。髪を掻くエースに、エヴァはしばし意外そうな目を向けた。人にはそれぞれの過去があり、中には言えぬ事情を持つ者もいる。エースが何の苦境もなく過ごしてきたと思っていたわけではないが、しかし「生き辛い」と感じている風には見えなかった。
「おれも、この世界は生き辛かったんだ。二人の兄弟と、オヤジと、仲間と出会ってようやく、少しは生きやすいと思えるようになった」
穏やかな眼差しと表情で呟いたと思うと、彼はエヴァに白ひげ海賊団に入れよ、と誘った。
「そしたらお前も、少しは生きやすくなるかもしれねェしさ。おれみたいのも、ちったァ生きやすくなったわけだし」
「……そのお誘いは、もうお断りしたじゃないですか。私は、この生き辛さを覚悟の上で生きてます。そもそも白ひげさんは、女を船に乗せないんでしょう?」
淡々と告げた彼女に、エースは仕方がないと言いたげに眉を下げた。
「……二度もフラれたんじゃ、諦めるしかねェな」
「そうしてください。それに、火拳さんみたく私も生きやすく思えるかどうか、わかりませんから」
そう告げて、彼女は歩を再開させる。エースは彼女の背を数秒見つめ、小走りでエヴァの隣に並ぶと、彼女の名前を呼んだ。歩きながら隣に視線を向けたエヴァは、彼の表情に不思議そうに首を傾げる。
拗ねていると表現すればいいのか。僅かに眉が寄り、唇はへの字に曲がっている。怒っていると言うよりは、つまらなそうな、やはり拗ねているという言葉の方がしっくりとくる表情だった。
「お前さ、おれの名前知ってるよな」
「はい。ポートガス・D・エース、でしょう?」
「おう。じゃあ、おれのこと呼んでみろ」
「火拳さん」
「それ!」
ビシッと人差し指を向けながら声を上げたエースに、エヴァは僅かに肩を跳ねさせた。「えっと……?」と困惑を見せている彼女に、エースはムッと顔を顰めた。
「おれはお前を“エヴァ”って呼んでんのに、何でそっちは“火拳”なんだよ」
「“火拳”はあなたに変わりないでしょう?」
「そうだけどよォ……おれら友達だろ」
承諾した覚えはないのだが。エヴァはその言葉は心の中だけにとどめた。
「そもそもおれは、名前で呼ばれる方が好きなんだよ。ちゃんと『おれ』を見てくれてる感じするし」
その言葉が、エヴァの心の穴に落ちてきた。「自分」を見てくれる。きっと彼の言うそれは言葉通りの意味ではなくて、もっと深くて繊細なものだろうと察してしまったからか。
「名前」とは証明のようなもの。自分を自分たらしめるためのものだから。この人は、自分自身を見てほしいのか。誰と重ねるでもなく、誰の代わりにするでもなく、「自分自身」を。
「……エース」
気付けば、エヴァは彼の名を呼んでいた。眉間に寄っていたエースの眉が、一拍遅れて離れる。数回瞬きをして自身を見つめるその表情にあどけなさを感じながら、エヴァは固まっている彼を置いていく。だが、くるりと振り返って、笑った。
「これで、満足ですか?」
じっとエヴァを見つめていたエースが、ハッと我に返る。途端に表情を明るくした彼は、照れくさそうに、しかし嬉しそうに笑うものだから、エヴァは単純な人だと心の中で呟いた。
「なァ、もう一回!もう一回呼んでくれって!」
「一度呼んだんですから、もういいでしょう」
駆け寄ってもう一回としつこくせがんでくる彼に、エヴァは面倒そうな顔をした。べつに減るものでもないのだが、しかしこのまま素直に言うのはどうにも憚られた。恥ずかしいというのもあるが、自分が彼に心を許しているような気がして、嫌だった。
頑なに呼んでくれないエヴァに、エースはちぇ、と呟いてようやく折れたようだった。
「なら、またこの海のどっかで会ったらさ、そん時は、おれの名前を呼んでくれよ」
この海のどこかで、など。いつになるかもわからなければ、そもそもまた会えるかもわからないようなことだ。今回は同じ島内であったからこそ、こうして二度目三度目と会えただけで、海の上でなんて。エヴァは少し呆れたが、けれど一つ頷いた。また会えるという希望など、持っていなかったから。
よっしゃ!と隣で笑った男は、不意にエヴァの方を見ると、片手を伸ばして彼女の頭にそっと乗せた。
「エヴァ。どんな事情があるかは知らねェし、聞かねェけど……でも、あんま無理すんなよ。どうしても生き辛くて苦しくなったら、そん時は、約束する。おれが助けてやるから。生きるのが楽しいって、お前が思えるよう頑張るからさ」
何を根拠に「助ける」なんて言うのかと、エヴァは心の中で呟いた。しかしその言葉が胸に沁みていくような感覚だった。一方的に約束だなんて笑うエースを見上げて、彼女は困ったように眉を下げた。
そうだ、なんてエヴァの頭から手を退けたエースは、黒い半ズボンのポケットに手を突っ込むと、中から青いブレスレットを取り出した。光に反射してキラキラと輝く様がまるで水面のようだった。
「やるよ」
「え?」
「市場で見かけてさァ、エヴァの目に似てんなァって思ったら買ってたんだよ。だから、やる」
荷物を一度地面に置いたエースは、戸惑うエヴァの右腕を取るとブレスレットをつけた。それをじっと見つめた彼は、やっぱ似合うなと笑った。
「……火拳さんは、体温が高いですね」
「ん?そうか?まァ、炎だしな」
指に灯された火は、エヴァにほんの少しの恐怖を彼女に与えた。だが、柔らかなその灯火や鮮やかな赤が、エースにはよく似合うようだった。彼の笑顔に、よく似合うようだった。
彼の笑顔はとても眩しい。太陽のようとはまさにこういう場面で使うのだろう。エヴァは無意識に伸ばしかけた手を引っ込めて、そっと視線をそらしながら、お礼を伝えた。