- ナノ -

反比例して浮かぶ心



「ありがとうございます、スマイサーさん」


見送りに来てくれたスマイサーに頭を下げたエヴァは、彼がわざわざ用意してくれた拳銃の入った荷物を大事そうに腕に抱えた。


「気にすんな。ここ二年、存外悪くない生活だった」

「……食事はちゃんと摂ってくださいね。睡眠も」


カラカラと笑って頷いた彼は、エヴァの頭を軽くポンポンと叩いた。エヴァは少し驚いたような顔をしたが、大人しくそれを受け入れた。


「じゃあな、お嬢ちゃん。あんたの作ってくれた菓子、中々おいしかったぜ」


再度頭を下げたエヴァは、船に乗り込んだ。出航し、遠くなっていく船を見送りながら、スマイサーはフッと微笑みながら、彼女の言葉を思い出す。


「……銃なら、撃った時に感じるのは、銃の反動だけです」」


苦しそうに、罪悪感でいっぱいな思い詰めた顔をしていたことを、果たして言った本人は気付いていたのか。

淡白なようで、人の食生活や健康に気を遣い、思いの外世話焼きだった彼女を思い出し、スマイサーはおかしそうに笑いをこぼす。


「……海賊にしちゃあ、随分優しすぎる気もするが……」


一人呟いた彼は、船が見えなくなったのを確認し、店へと戻っていった。













頂上戦争より二年の月日が流れた。あっという間な、長いようで短いこの時間で、世界では様々なことが起きていた。二年前にエヴァと同じ時期にシャボンディ諸島に集結した海賊達は、そのほとんどが既に「新世界」へ進出し、その名前を轟かせている。エヴァはまだ「新世界」へは行かず、しばらく前半の海にとどまっていたが、五日ほど前からシャボンディ諸島に滞在していた。


「『仲間募集』……変なビラ……」


レイリーからコーティングを終えたとの連絡を受けたエヴァが船へ向かっている道中、二年間音沙汰なく「死亡説」さえ噂されていた“麦わらの一味”のチラシを見つめていた。最低額七千万ベリーの賞金首を条件として、“麦わらの一味”が仲間を募集しているのだ。エヴァは不審げに眉を寄せ、その紙を丸めて捨てると、自身の船まで急いだ。

船に到着したエヴァは、早速乗り込むと帆を張った。そうして万が一のためにと用意しておいた水中用の弾丸を銃に詰め、貴重品を切り目の中へ保管した。

コーティング船は様々な圧力を軽減する力を持っているが故に、浮力が足りなくなってしまうのだ。そのため海中へ行くには、船底を支える浮き袋を外す必要があった。こういう時、能力者は不便だ。エヴァはため息を吐きながら、近くにいた島民に頼んで船底の浮き袋を外してもらった。

船底を支えるものがなくなると、徐々に船はシャボンに包まれていく。それに伴い、船は海中へと沈んでいった。そしてあっという間に海面から離れていく。

泳げなくなった身であるエヴァにとって、海中の景色は魅力的で、幻想的でもあった。まるで人の住む世界が遠のいていくかのような感覚に、エヴァはしばし言葉を失う。海中には船よりも何十倍と大きい魚の姿もあり、マングローブの太い根が海底まで続いているようだった。

しばし海中の世界に目を奪われていたエヴァだったが、我に返ってレイリーから預かったメモに目を通した。レイリーはコーティング船を使用するにあたっての注意事項をまとめてくれていたのだ。

シャボンはある程度まで伸びると、それ以上は突き抜ける特性となっており、海獣に向けて銃や大砲を撃ち込んでも割れることはないようだった。銃を扱う彼女としてはありがたい話で、ひとまず安堵する。しかし一度に多数の穴が空いてしまえばシャボンは割れてしまうようだった。


「海王類や障害物に気をつけないと、ってことか……」


メモに目を通し終えたエヴァは、最後に付け足されている「魚人島を目指す船は到達前に七割沈没する」という一文に眉をひそめ、辺りを見た。少しばかり海王類の姿が見受けられはするが、海流自体はまだ安定している。しばらくは安心だろうと、エヴァは甲板に置いてある椅子に腰掛けた。

船は順調に下降していき、受光層を抜け、薄明層を抜けていくと、もう光も届かなくなってきていた。エヴァは作った切れ目から上着を引っ張り出すとそれを羽織って、“記録指針”を見ながら航路を確かめる。

あまりまっすぐに進みすぎてしまうと、海流に攫われて海山や海底火山に突き当たってしまうのだ。また下層部になっていくと、深層海流にも到達していく。エヴァは今いる表層海流から深層へと潜る下降流へ乗る必要があった。

少しずつ肌寒さが増していき、エヴァがフッと息を吐くと、吐息が白く染まっていた。そしてようやく、下降流のプルームが姿を見せた。


「……滝?」


エヴァは目の前に広がった光景に、一瞬言葉を失った。尋常じゃないスピードで海が下へと落ちていくそれは、海中の滝と呼んでも過言ではないだろう。底は真っ暗闇で何も見えない。これに乗るのかと冷や汗を垂らしたエヴァだったが、ふと視界の端で何かが蠢いた。

目を凝らしてよく見れば、船の残骸を握り潰すような触手が見えた。視線をずらせば、巨大な目玉が二つ。


「クラーケン……?ここに住み着いてるなんて、そんな話は……」


ぱちぱちと目を瞬かせたエヴァは、思わず表情を歪めた。どうやら下降流に乗ろうとする船を襲っているようで、この船も獲物として狙いを定められていることだろう。エヴァが面倒だと言いたげにため息を吐くと、一本の足が迫ってきていた。

エヴァは切れ目を作ると、そこに銃弾を撃ち込んだ。水中用の銃弾はシャボンに現れた切れ目から巨大な足に直撃する。水圧で爆発した弾丸の威力は中々なもので、流石に痛かったのだろう、その足はふらりと離れていく。だが他の足がまだ残っているため、攻撃させなければいいと、顔目掛けて切れ目から銃弾を発泡した。

これだけ巨大な的を、外す方が難しいだろう。銃弾はしっかりとクラーケンの顔に直撃し、クラーケンは痛みに悶えている。今のうちにと彼女は船を下降流へと乗らせる。

船は凄いスピードで下へ向かっていき、エヴァは船が海流の真ん中を維持できるよう、なんとか船舵を取る。気を抜けない大破されかねないと、彼女は気を張りながら海流に押されるがままに海底へ沈んでいった。

そうして海底へ沈みきると、寒さはより一層に増し、エヴァは上着の上から両腕をさすった。明かりのない海底では何も見えず、エヴァは船のライトを灯した。辺りには深海魚達がうようよと泳いでおり、こちらを狙っているようにも思えた。だが、深海は光が届かない暗闇故に、目が退化している生物が多い。そのため、海王類などに襲われる率は深海の方がまだ少ないようだった。

深海を慎重に進んでいけば、辺り一帯を包んでいたはずの冷気が消えていき、次第に暑さを帯びていった。エヴァは流れだした汗を拭って海中を覗けば、船は海底火山地帯へ突入していた。どうやら噴火はしない様子だったため安心しながら進んでいき、彼女はその先の断崖絶壁を見下ろした。

指針は確かにそこを指しており、エヴァは迷うことなく真っ暗闇な海溝へ向かっていった。













海溝を降りていき、しばらく。先程までの暗闇が嘘のような、船は明るい空間へと辿り着いた。無事海底一万メートルまで到達したことにエヴァは肩の力を抜いて息を吐き出し、顔を上げる。


「あれが、魚人島……」


巨大なシャボンに囲まれた島が、海底に堂々と君臨していた。島を見上げたエヴァは瞳を瞬かせ、“記録指針”を確認する。指針はしっかりと目前の巨大なシャボンを示していた。

魚人島への入口はどこなのかと、エヴァが舵を取りながら島を観察していた最中。突然に海獣の群れが船の前に姿を見せた。しかしただ襲ってきたわけではないようで、海獣の上に誰かが乗っていた。


「そこの海賊船、止まれ!」


海獣の上には、縞模様のシャツにジャケットを羽織り、帽子を被った魚人が乗っていた。鋭い牙を見せながらこちらを見下ろす彼に、エヴァは片眉を上げる。


「ほう……クルーは一人か?ハモハモハモ!まさかそんな海賊がいるとはなあ……」


独特な笑い声を上げたその男は、エヴァを見つめて選択の権利があると呟き、一つ尋ねた。


「我々『新魚人海賊団』の『傘下に下る』か、はたまた『拒否する』か……お前はどちらだ?もし拒むなら、ここで沈んでもらう!」


それは、答えなど最初から一つと言っているようなものではないのか。選択の権利があるという言葉は果たしてなんだったのか。理不尽な問いに顔を歪めたエヴァは、辺りを見回す。ここは深海一万メートルであり、エヴァは能力者である以上海での戦いなど勝機はほとんどゼロも同然。かと言って傘下に下る気も更々ない。

どう切り抜けるかとエヴァが考えていれば、不意に複数の気配を感じた。後ろに視線を移した彼女は、遠目ながらに落ちてくる巨大な何かと船の存在を確認すると、ナイフを取り出した。


「質問の答えですが、『NO』でお願いします」


その答えに、男は瞳を鋭くさせたと思うと、船を沈めようと海獅子に指示を出した。海獅子は大きな唸り声を上げながら、船にその牙を向けた。エヴァは振り返ると、落ちてきた船の船首を視界に入れ、ナイフで空気を切った。

シャボンに牙が突きつけられたと同時、エヴァは間一髪切れ目へと飛び込んだ。そうして、ライオンのような船首に着地した彼女は、自身の船が大破したのを見つめながら、ため息を吐いた。


「念のために大事なものは入れておいたからよかったけど……魚人島って、船売ってるのかな……」


呆気なく破壊された自身の船を眺めながら呟いたエヴァは、くるりと振り返って船首から飛び降りると、甲板にいる面々に頭を下げた。


「すみません、突然お邪魔してしまい……」

「……あなたは、確か……」

「あー!エヴァじゃねェか〜!」


目を丸くして驚いている面々の中、一人嬉しそうに声を上げた青年に、エヴァは軽く頭を下げた。


「お久しぶりです、麦わらさん。傷口はしっかり塞がっているようですね。それだけ綺麗に塞がったなら、開くこともないでしょう。ドクターも安心するかと」


“麦わらのルフィ”とその一味の姿を順に見て、エヴァはそっと右手首のブレスレットを撫でた。