- ナノ -

彼方に焦がれる



キラキラと、光を反射させながら輝きを見せるコバルトブルーを彼女は見つめていた。己の瞳と同じ色であるというのに、その輝きは段違いだ。自身の瞳の青など、この広大な存在に比べてみれば、ちっぽけで粗末なものでしかない。エヴァはぼんやりと考えながら、くるりと背を向けた。歩くたび、腰にぶら下がっているキーリングと銀色の鍵がプラプラと揺れた。

東西南北に区切られた海の一つ、“東の海イーストブルー”に位置するこの島は、穏やかで落ち着いた島だった。裕福というわけではないが、しかし言うほど貧困でもない。栄えた島ほど遊ぶ場があるわけではないが、酒場や病院、宿に本屋など、ある程度の施設はあるため、暮らしていく分には困らない島だった。

エヴァはこの島で、温かく優しい老夫婦と共に過ごしている。二人はエヴァをかわいがってくれるし、近所の住民も皆彼女に良くしてくれる。過ごしていくには申し分ない場所だ。

彼女はここでの暮らしに不満があるわけではない。しかし、満足しているわけでもなかった。いつだって、心の中にぽっかりと穴が空いている。エヴァはそれが何故かを自分で理解しており、ここにいてもそれが埋まることはないのだろうと思っていた。

彼女には、どうしても欲しいものがあった。何としてでも手に入れたいものがあった。しかしそれは、この場にいても手に入りそうもなく、だからと言って諦めることもできないでいる。

この世界はとても広く、自分の知らないもので満ち溢れている。“西の海ウエストブルー”、“南の海サウスブルー”、北の海ノースブルーなど他三つの海や、世界を一周する“偉大なる航路グランドライン”。それらは彼女にとって未知のもので溢れているに違いなかった。

この世界のどこかに、私が欲しているものはあるのかもしれない。エヴァは海を見るたびに、そう感じていた。しかし彼女には、船がなかった。この島を出るための船を、持っていなかった。

けれど、エヴァはどうしても諦めきれなかった。彼女にとって、探しものだけが生きる指針のようなものでもあったのだ。いつ死んだってかまわないけれど、どうせいつか死ぬのなら、その欲しいものを探しに行きたかった。だから、彼女は船を買うためのお金を地道に貯めていった。叩き込まれている知識を衰えさせぬように、日々勉強もした。

そうして過ごすなかで、彼女が十八歳のとき、島に一隻の船がやってきた。真っ黒で大きなその船には大勢人が乗っており、乗組員の統一性はなく、子供から大人まで、老若男女問わず様々な人が乗っていた。島民の中には、島に上陸した彼らと知人の者もいるようで、彼らは物資の調達がしたいのだと話し、しばらく船を停めさせてほしいとのことだった。

エヴァは島の病院で看護師として働いていた。十八歳という若さでありながらも、医療の知識と技術を充分に持っていることもあり、医者としての業務も学ばせてもらいながら、簡単な診察や処置、時には手術の方にも回らせてもらっていた。入院患者の中には彼女をかわいがる者もおり、彼女は島でも評判の看護師であった。

船の乗組員はケガをしている者が多く、彼らはどうやら医療品などを必要としているようだった。また船医が足りないそうで、治療費はしっかりと払うからと、病院に診察に来る者もいた。エヴァもまた、そちらの治療に駆り出されていた。


「そう深くないので、治るのに時間はかかりません。ですが、包帯は毎日取り替えてくださいね」

「ありがとう、お嬢さん」

「いえ。お大事に」


船のそばで、六人目の処置を終えたところだった。船内からマントを羽織った男が一人出てきた。その腕には、子供が一人抱えられている。エヴァがぱちりと目を瞬かせていると、男性が彼女に歩み寄った。


「お嬢さん。ここにアスクという医者はいるかい?」

「アスク先生、ですか?」

「ああ。実はこの子は、重傷を負ってるんだ。診てほしくてね」


腕の中にいたのは、エヴァより年下だろう少年だ。全身に包帯を巻かれている様は見ているだけで痛々しい。エヴァは一つ頷くと、まずは診せてほしいと頼んだ。


「すぐにでも治療を受けれるよう、ある程度の状態を把握させてください。何が必要で、どの治療が適切なのか」


彼女の言葉に、男は少しばかり不安そうな表情を浮かべた。病院で看護師として勤務しているとはいえ、相手は十八歳の少女なのだ。それも仕方のないことだろう。しかし、エヴァに急かされ、彼は戸惑いながらも、テントの中にある簡易ベッドに少年を寝かせた。

少年を覗き込んだエヴァは、彼に声をかけた。しかし呼びかけに応じることもなければ、反応さえない。完全に意識を失っているようだったが、呼吸は荒く汗も酷かった。エヴァは彼の手首に手を当てて脈を確認すると、額に手を当てた。


「発熱してますね。脈も通常より早いです。クーリングの用意と……点滴も用意してもらいましょう。この包帯は?」

「全身を火傷してるんだ。特に、顔の左目付近が一番」

「そうですか……患部の確認は病院でしましょう。アスク先生にも掛け合ってみますので、まずは彼を病院へ」


なるべく刺激しないよう、優しく抱えてほしい。エヴァの言葉に男は頷いて、そっと少年を抱き上げると、彼女と共に島の病院へ向かった。

受付で少年の容態を伝えたエヴァは、彼を安静にするべく、空いている病室を借りたいことも一緒に話した。簡潔に話を済ませて、エヴァは男を病室へ案内して、少年を寝かせてもらった。

ゆっくりと包帯を外していきながら、エヴァは随一少年の様子を確認する。熱のせいか苦しげに顔を歪めているのを見つめながらも、その手は動きを止めず、丁寧に包帯を外していく。

包帯の下に隠れていた肌は、それはもう酷いあり様であった。部位によってはそこまで激しくないものもあったが、発赤どころではない赤みは、表皮が完全に焼けてしまっているからだろう。腫れや水疱も現れており、中でも男の言っていた通り、特に左目周辺が一番酷かった。


「DDB……感染症の可能性も……軟膏と抗生剤に……」


エヴァが一人呟いていると、病室の扉が開く。入ってきた男性医は少年を見て目を見開いており、彼も少年の状態に驚いているようだった。


「アクス先生。部位によって異なりますが、恐らくDDB……深達性II度です」


簡潔に要点を伝えられた男性医は、彼女の話を聞いてすぐに指示を出した。













「皮膚が完全に治るまでは、少し時間がかかると思います。それに左目の部分は、恐らく、痕になるかと……」


濡れたタオルで少年の汗を拭きながら、エヴァは男に伝えた。熱傷部位に抗生剤も含まれた軟膏を塗り、包帯を巻き、酷い箇所にはガーゼ保護をしたあと、少年は熱発を抑えるために点滴をされている最中であった。


「傷口から浸出液が出る時に、タンパク質と水分も一緒に出てしまうんです。これだけ酷いと、脱水や低タンパク血症になる可能性もあるので、目が覚めた時には栄養にも気をつけてあげてください」


眠る少年の手を優しく握りながら、エヴァは彼から目を離さずに、背後に立つ男に伝える。少年の様子も最初に比べると幾分か穏やかになっており、呼吸も安定していたので、エヴァはそっと安堵の息を吐いた。

これだけの大火傷だ、痛いなんてものではなかっただろう。ここまでくれば、痛覚も麻痺して逆に痛みを感じていない場合もある。いったい何があったら、子供がこんな大きなケガをするのかと、エヴァは眉をひそめた。

エヴァが少年の髪を撫でていれば、少年の眉がグッと寄り、苦しげな顔を浮かべはじめた。熱や痛みとはまた違う様子に彼女が顔を覗き込めば、少年の手が僅かに震えだし、小さくか細い呻き声のようなものが漏れた。

魘されている。体の震えや怯えたような表情からそう判断したエヴァは、少年に囁くように「頑張ったね、えらいね」と声をかけた。


「まだ痛みは続くかもしれないけど、でも、それは生きてる証拠だから。キミはよく頑張ったよ。だから休んでもいいよ。誰も怒ったりしないから」


エヴァが優しく呟くと、僅かに少年の手が、エヴァの手を握るように力が込められる。薄らと開かれていった右目は焦点が合っておらず、意識は朦朧としているのがよくわかった。エヴァはそんな彼の包帯で隠れた左目をそっと撫でて、淡く微笑んだ。


「キミが落ち着くまで、ゆっくりと眠れるまで、痛みが引くまで、手を繋いでるから。だから、今はおやすみ」


果たして少年にその声が聞こえたか、言葉が理解できたかは定かでない。だが彼はぼんやりとエヴァを見上げ、そうして再び瞼を閉じた。

少年はその日、病院に一泊した。エヴァはほとんどずっと、彼のそばで手を握っていた。

そうして夜が明けた頃には、少年は穏やかな寝息を立てていた。治療は船の中でもできるだろうと判断し、熱も下がった少年は船へと戻ることになった。迎えにきたのは少年を病院に連れてきた男で、彼は少年をそっと抱えた。


「ありがとうございます、皆さん」

「お気になさらず。私たちは医療に携わる者。患者がいるのなら、助けるため尽力するのは当然です」


アスクの言葉に、男は再度頭を下げた。病院を離れられない彼の代わりに、エヴァが船医に病状や今後の処置についての話をするため、男と共に船の方へと向かった。

船を降りてきていた船医に薬とカルテを手渡し、アスクからの伝言を伝えながら、エヴァは船の医務室へ連れていかれている少年を心配そうに見つめていた。


「キミは、医者を目指しているのかい?」

「……そうですね。元々は……ですが今は、いつか海に出たいので、そのために勉強しているだけです」

「海に?」


驚いたように目を丸くした船医を振り返ったエヴァは一つ頷くと、探したいものがあるのだと呟いた。だが船がないため、どうしようもないのだと。


「では、我々と共に来る気はないか?」


エヴァが口を閉じたと同時、船上から聞こえた声にエヴァは顔を上げる。そこには、深くフードを被った男が、彼女の方を見ていた。逆光で顔は良く見えないが、しかし今自分はその男の目を見つめているのだろうと、漠然とした確信があった。

男の登場に、彼女の目の前にいた船医は驚いた顔を浮かべながら慌てだしている。それを見れば、その男がこの船で一番偉い人物であると容易に理解ができた。


「キミが、あの少年を診てくれたんだろう?」

「……いえ。私は手伝いをしただけです。お礼ならば、アスク先生に」


低く落ち着いた声に、エヴァは首を横に振った。男はゆったりとした足取りで船を降りてきたと思うと、彼女のそばへと歩み寄る。だがやはり、フードで顔は見えやしなかった。


「さて、先程の質問についてだが……どうだ?」


男の言葉に、エヴァは一度視線を下げ、再度彼を見上げた。


「……お誘い、ありがとうございます。でも、私は誰かと海に出る気はないんです。行くなら、自分一人でと決めてます」


だからごめんなさい。頭を下げたエヴァに、男は一言「そうか」と言うだけだった。彼はしばし彼女を見つめると、ほんの少し見えた口もとで弧を描いた。

船は、翌日には出航していった。エヴァは少年が気がかりではあったが、船には医療器具はそれなりに揃っていると話していたため大丈夫だろうと、自分を納得させた。