- ナノ -

後で悔やむから後悔なんだ



手術を終えたルフィは、体中を包帯で巻かれ、酸素マスクを装着されたまま、艦内で眠っていた。長かった手術もようやっと終わりを迎えそうな頃、潜水艦はマリンフォードから遠く離れた海上へと浮上していった。


「そのままそこにいても、おれ達にできることはないぞ」

「ええ、理解しています」


管に繋がれ、包帯だらけの体で眠るルフィのそばに佇むエヴァの背を見つめ、ローは投げかけた。現状医療で出来得る限りの処置を行い、あとは本人の体力や気力に委ねられているような状況。これ以上彼らにできることなどなく、エヴァとてそれを理解できないような頭ではない。

エヴァはルフィを見つめると、彼の手のひらに手を伸ばし、そっと手を重ねた。


「あなたは、充分に頑張ったから。だからどうか、自分を責めないでね」


呟いた彼女は、ルフィの手を離すと、いきましょうかとローに声をかけ、二人は部屋を出ていった。

海上に姿を見せた船のすぐそばには、海軍の軍艦が一隻佇んでいた。あの場からまだ追跡が来たのかとクルー達が肝を冷やす中、甲板に降り立ったのはハンコックただ一人であった。彼女は海底をサロメという愛蛇に尾行させ、ポーラータンク号がどこに浮上するのかを察知していたのだ。

ハンコックは彼らを捕らえようとはせず、ただ一つ、ルフィの容体を尋ねた。ちょうどその時、艦内からローとエヴァが姿を見せた。


「やれることは全部やった。オペの範疇では、現状命を繋いでる。だが、あり得ない程のダメージを蓄積してる。まだ生きられる保証はない」


両手を拭きながら、彼は医者としての回答をした。ハンコックとてルフィの状態がどれだけ危険であるかを理解していたため、その言葉に文句も無茶も言わず、しかし難しい表情を浮かべる。


「それは当然だっチャブル!」


そこに割って入ったのは、軍艦に忍び込んでいたインペルダウンの囚人達と、イワンコフだ。イワンコフはポーラータンク号に降りると、ルフィが監獄では立つことすらできない体であったことを告げた。しかしそれでも彼があれだけ暴れ回ったのは、全て兄であるエースを救出したい一心。


「その兄が、自分を守るために目の前で死ぬなんて……神も仏もありゃしない……!精神の一つや二つ崩壊して当然よ!」


その言葉に、囚人たちは泣きながらルフィに声援を送っている。ハンコックもまた、涙ぐみながらその現状に心を痛め、自分が身代わりになってあげたいと切なげにこぼしている。


「ところでヴァーナタ達、麦わらボーイとは友達なの?」

「……いや」

「私も、彼とは特に縁はありません」

「正直言って助ける義理もねェ……親切が不安なら、何か理屈をつけようか?」


二人の言葉に、イワンコフは時には直感が体を動かすときもあるのだと、首を横に振った。エヴァはその言葉を聞きながら、右手首のブレスレットを撫でた。

不意に背後から聞こえた扉の開く音。艦内からは慌てる声が聞こえ、視線は一気にそちらへ向いた。見れば包帯を巻いたジンベエがそこにいた。


「“北の海”のトラファルガー・ローに、“東の海”のエヴァじゃな……ありがとう、命を救われた……!」

「あなた、絶対安静ですよ」

「魔弾屋の言う通りだ。死ぬぞ」

「無理じゃ……心が落ち着かん……」


よろけながらに甲板へ出てきたジンベエは、自分にとっても失ったものが大きすぎたのだと、力無くこぼした。自身でさえそのショックが大きすぎる中で、故にルフィの心中は最早計り知れないと、彼は続ける。


「あの場で気絶したことは、せめてもの防衛本能じゃろう……」


仮に命を取り留めたとして、目覚めた時が最も心配だと、ジンベエは話す。何せ目覚めた時には、彼の兄はこの世にいない。そのショックに精神が耐え切れるかどうか。それを、ジンベエは危惧していた。

ハンコックはしばし考えると、ベポに電伝虫があるかを尋ねた。九蛇の海賊船を呼べば、この潜水艦ごと“凪の帯カームベルト”を渡ることが可能となる。ルフィが生きていることが知られれば、政府は必ず追っ手を差し向ける。そのため、ハンコックはルフィを女ヶ島で匿うと案を出した。

現状、それは一番安全であることは、考えずともわかった。そのためローは意を唱えることはせず、電伝虫をハンコックに渡すよう、クルーに命じた。


「じゃあ、麦わらボーイを援護するという、ヴァターシの使命はここまで!」


イワンコフは後のことをジンベエに任せると、囚人達を連れてカマバッカ王国に向かい、船を出航させた。ジンベエはまだ自由に泳げる身でない。そのため、ルフィの回復を見届けることにして、ロー達と共に女ヶ島へついていくことなった。













九蛇の船に連れられ、ポーラータンク号は“凪の帯”に位置している、女ヶ島を訪れていた。蛇のような形をした岩場を一度見上げて、エヴァは視線を落とす。

到着した当初、ハンコックはロー達の滞在を許そうとはしなかった。女ヶ島はその名の通り女のみの島であり、男性禁制は絶対の掟だ。しかし、ポーラータンク号に匹敵する医療器具やローほどの医療技術を持つ医師が島にいないのもまた事実であった。そのためやむを得ず、緊急特例として湾岸への停泊を許可された。

湾岸の岩場に腰掛けた彼女は、自身の手のひらをじっと見つめながら、ぼんやりとした瞳を浮かべていた。


「火拳屋が死んだのが、そんなにショックだったか」


近くに腰掛けていたローが、エヴァに視線を向けながら尋ねた。彼女は顔を上げてそちらを一瞥し、再度手のひらを見る。


「……そうなのかもしれません」

「なんじゃ、お前さん……エースさんと知り合いじゃったのか?」

「……そうですね。以前、少し」


空腹で倒れていたところを拾った。そう呟いたエヴァは、深く息を吐いた。

ビブルカードが、燃えて消えてしまった。それが意味することは、ひとえに「死」のみ。自分があの場に辿り着いた時には、既にエースは死んでいた。

あの戦場に自分がいたことで、何かが変わったかもしれない、などという思い上がりを、エヴァは抱いてなどいない。ただ思うのは、彼は果たして笑っていたのかということだけ。

この世界は生き辛いと告げた自分に、「おれも同じだ」と寂しそうに笑った顔が、彼女はどうにも忘れられなかった。

死ぬ瞬間、果たして彼は、後悔などせずにいれたのか。その人生が満足のいくものであったのか。それが、彼女の気がかりであった。大事なのだと言っていた弟を残して逝く。それは、彼にとって悔いとなってしまうのではないか。そうなると、眩しく笑うその表情が曇ってしまわないかと考えると、それが惜しかった。

太陽のように眩しくて、温かい人だった。手が冷たい人間は心が温かいと言うが、では逆に手が温かい人間は心が冷たいのだろうか。エヴァは、とてもそうには思えなかった。何せエースの手も心も、あまりにも温かかったのだから。


「……これは、わしの独り言故、聞き流してくれてかまわん」


エヴァを見つめていたジンベエは、ぽつりと呟いた。


「インペルダウンにいた際に、エースさんはルフィくんの話をしてくれた。じゃが、それ以外にも、以前出会ったという人物の話も、わしに話してくれた」


空腹で倒れていたところを助けてくれたという人物について。その言葉に、エヴァは僅かに反応を示した。

一人で旅をしているというその海賊を、白ひげの船に乗らないかと二度誘ったが、仲間を増やす気はないと呆気なくフラれたと、エースは笑って話したと言う。


「海のように綺麗な瞳をしていたが、時折寂しそうな目をすると言っておったな。どうやら、ルフィくんに出会う前の自分に似ていると、そう思ったようでな」


瞼を閉じたジンベエは、檻の中で聞いたエースの言葉を思い出す。


「だから、なんか放っておけなくって……一方的に約束したんだよ。向こうからしたらありがた迷惑なのかもしれねェが……おれとしては、もう一回笑ってくれたら嬉しくてさ。ジンベエ、そいつさ、笑った顔がとびきり美人なんだよ。だから――」

「もっと笑っていてほしい、と」


気付けば、エヴァは顔を上げてジンベエを見つめていた。その瞳は丸く見開かれており、呆然としている風に見える。その瞳はぐらりと揺れているが、濡れてはいなかった。

――嫌いじゃなかった。彼の笑ったその顔は太陽みたいに眩しくて、手なんて届きそうもないのに。こちらに手を差し出してくれるその温かさが、エヴァにはどうしたって嫌いになれなかった。怖かったはずの炎だというのに、彼のそれに触れてみたいと思った時点でダメだった。

どう足掻いても自分は誰かの手を取れなくて、取るわけにはいかなくて。あまりにも生き辛いこの世界を、独りで生きていかないといけなくて。そんな己の前に突然現れた男は、一方的で人の話を聞かないくせに、強引ではなかった。こちらの手を無理矢理に取ることはせず、しかし差し出す手を引くこともしなかった。そんな優しさが、エヴァの心に沁みていった。

たった数日という日の浅い関係でありながらも、何も知らず、何も聞かず、けれど生きるのが楽しいと思えるように頑張るから、なんて軽々言ってのけた人。初めて、言ってくれた人。

彼に心を許すのが嫌だと、もう会うこともないだろうと心の中で払いのけ、冷めた思いを抱きながらも、心の奥の奥では、彼を受け入れようとする自分がいた。自身を育ててくれた夫婦や、優しくしてくれた島民たちにさえ、最後まで閉ざし続けていたというのに。エヴァは今更ながらにそれに気付いた。

それなのに、彼の死に涙さえ出てこない己の薄情さを、果たしてエースはどう思うのだろう。冷たい人間だと軽蔑するのか。なんとなく、仕方がないと笑ってくれるのではないかと、エヴァは思った。

どうせなら、もう一度くらい名前を呼んであげたらよかった。そんなこと思ったところで、もう遅いというのに。