- ナノ -

指の隙間からこぼれ落ちる



「操縦は任せたぞ」

「アイアイ、キャプテン!」


喋る白くまが潜水艦を操縦しているなど、早々信じられないような光景だろう。オレンジ色のつなぎを着たこのくまが船の航海士だということもまた、中々に信憑性の薄い事実である。

慣れた手捌きで舵を取るベポの後ろ姿を数秒見つめたローは、操縦室を出た。小窓に映る景色に明るさなどなく、闇夜のような暗さがどこまでも続いている。時折海洋生物の姿が横切っていくその様子も彼はすっかり慣れきっているため、別段珍しさを感じることもなかった。

ハートの海賊団を乗せたポーラータンク号は、海中を進みながら、海軍本部のあるマリンフォードへと一直線に向かっていた。シャボンディ諸島からの出発であるため、そう時間はかからない。一日も使わずに、船はあの戦場へと到着するだろう。その間外界の情報は遮断されるため、今どのような状況になっているかなど、当然知る由も、術もない。

カツン、カツン、と足音を鳴らしながら通路を歩くローの姿は普段と変わりない。対してクルー達は戦争真っ只中の場所に突っ込むということに不安を覚えているのか、そわそわと落ち着かない空気が漂っていた。

明かりの灯っている食堂をチラリと見れば、船員が集まって口々に不安を漏らしている。紛れて近寄れる水中という手段である分、正面突破よりも安全であるというのに、何を焦っているのか。そんなことを思いながらローが呆れていると、ふと彼は、一人足りないことに気がつく。


「ペンギン、魔弾屋はどうした」


突然にかけられた声に大袈裟に肩を跳ねさせたペンギンは、大慌てに振り返る。バクバクと鳴る心臓の辺りを押さえながら一度深呼吸をした彼は、帽子のつばの下でぱちりと目を瞬かせた。


「彼女なら、ずっと出入口の前に……クルーでもない自分が艦内を彷徨くのはよくないだろうからって、そう言ってました」


その言葉を聞き、ローは彼女がいるだろう場所へ足を運んだ。

ペンギンの言う通り、潜水艦の甲板と艦内とを繋ぐ扉の前に、エヴァは座り込んでいた。両膝を腕で抱え、膝に額を乗せながら、ゆっくりと深呼吸をしている。握られた右手の中には、小さくなったエースのビブルカードが微かに存在を主張していた。太陽の光など届かない暗い海の中、真っ白な蛍光灯で照らされた廊下には、彼女以外に人はいない。

その姿を遠目に見つめたローは、彼女の方へと向かっていく。廊下の奥から聞こえてきた足音にエヴァが顔を上げれば、ローと目が合った。


「麦わら屋とはそんなに深い仲だったのか?いや……それとも、火拳屋の方か」


エヴァの前で立ち止まったローは、トン、と肩を壁に預けるようにして、表情の読み取れぬ顔で彼女を見下ろしている。エヴァは一度視線を伏せてゆっくりと呼吸をすると、そうですね、と肯定の言葉を返した。


「白ひげさん達ほど、深い仲ではありません。少々縁があっただけの仲です」

「そうか。『縁があっただけ』の相手の危機にそんな顔するとは、存外お人好しだな」


そんな顔。エヴァは自身の頬に左手をあて、ペタペタと顔を触る。しかしながら当然、感触だけで自分の表情などわかるわけもなかった。左手を下ろした彼女は、冷えた床に手のひらを置いて、意味もなく床を撫でる。その仕草は、まるで迷子になってしまった子供が親の手を探しているかのようだった。

翳りを落とす彼女の瞳とは裏腹に、彼女の手首にあるブレスレットは、きらりきらりと光を反射させて煌めいている。同じ青でも違うものだとぼんやり考えながら、ローは座り込んでいるエヴァを見つめる。

つい先日シャボンディ諸島で見た時の彼女は、氷のようとまでは言わずとも、どこかツンとした冷たさをローに感じさせた。澄ましたような表情がそう思わせるのか、凛とした雰囲気がそう思わせるのかは定かでない。しかして、瞳に埋め込まれた青は馴染み深く、夜の静かな海のような女であった。淡々として落ち着いているその様は、波紋さえない水面のようで、荒波どころか波さえ立たない。

だが、今自身の目前にいる女は、その時とは様子が随分と異なった。不安げな様子は、人見知りの激しい幼い子供に似ている。声や言葉にはしないが、空気や瞳はずっと不安定に揺れていた。

ローには、エヴァとエースがどのような関係であったかなどわかりもしない。もとより、詮索するほどの興味があるわけでもないため、わざわざ聞こうとも思っていない。目的地に着くまで私室にでもいたらいいというのに、では何故、こうしてエヴァのもとに足を運んだのか。警戒しているというのも一つではあるが、それ以外の理由を彼は自分で理解できていて、心の中で舌打ちを落とす。

――妹に、似ていた。容姿や性格は似ても似つかないものだ。妹の髪は黒ではなく茶色だったし、性格だって物静かではなく、甘えん坊で天真爛漫だった。しかし、こうして不安そうにしている姿は、床に伏していた妹の姿をローに思い起こさせた。だからつい、どうにも放っておけなくて、彼は様子を見に来てしまった。


「べつにそうしているのは勝手だが、お前一人が祈ったところで意味なんてありゃしねェぞ」

「……ええ、はい。わかってます。神は人の祈りを聞いても、必ず叶えてくれるわけではありませんから」

「ほう……その神とやらは、天竜人か?」


彼女が指した神が何であるのか、ローは理解している。絶対的であり超越的である、人々の信仰の対象としてのそれであって、間違っても天竜人を指しているわけではない。わかっていながら、彼は愉快そうに口角を上げた。性格はあまり良くないようだと彼の表情を見ながら、エヴァはまさか、と呟いた。


「アレは神ではなく、どこまでも人ですよ」


権力に溺れ、他者を見下し、保身に走る。その欲にまみれた姿は、どうやったって人間だ。神は自分と人間とを同格に見たりはしないが、人間をそれ以下とは見ない。人間は人間としか識別しない。その辺り、天竜人がどれだけ醜悪であるのかがよくわかるようだった。


「地上でそれを言えば、不敬どころじゃねェな」

「本人の耳に届いていないなら、問題ないでしょう。言葉や思想は自由です」

「そりゃそうだ」


喉で笑う音が通路に響いた。ローは壁に寄せていた体を離すと、エヴァを見下ろし、突然にオペの経験を尋ねた。ぱちりと瞳を瞬かせた彼女だったが、何回かあると伝える。


「執刀医よりは、助手の方が多かったですが……できないわけではありません」

「そうか。まァ、一人での航海……しかも“偉大なる航路”となれば、浅い知識や技術だけで渡っていけやしないだろうしな……」


呟いたローは、しばし考えるように顎に手を置いて、視線だけエヴァへ向けた。


「うちの奴らには一通りの知識と技術を叩き込んじゃいるが、もしオペが必要になったなら、その時はお前も手を貸せ」


お願いや頼み事ではなく、言ってしまうなら命令だ。偉そうな物言いではあるが、しかしこの船の船長は彼であるのだから、そうなるのも当然と言えば当然で。もとよりエヴァはタダで船に乗せてもらおうなんて思ってはいないし、できることはするつもりであった。その為、彼女はそれを受け、特に文句を言うこともなく頷いた。ローはそんな彼女に満足げにするでもなく、かと言って驚くわけでもなく。表情を変えぬまま、彼はエヴァに背を向けると、通路の奥へと消えていった。

去っていく背を見つめていたエヴァは、自身の右手を見下ろした。手首を飾るブレスレットをそっと撫でた彼女だったが、ふと目を見開いた。

僅かに震える手のひらを広げた彼女は、その中身を見て、ヒュッと息を呑んだ。


「…………エース?」


決して失くすまいと固く閉じていた手の中には、何も残っていなかった。