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汀をなぞるつま先

長命種が、その永遠とも感じられる時間を過ごしていくコツは、楽しみを見つけることである。少なくともシュレンはそう思っている。何か夢中になれるものを見つけるも良し、好奇心が駆られるものを探すも良し。とにかく、自身が楽しめる要素を見出すことで、変わらない毎日が僅かでも彩りを増すものだ。

そのためシュレンは、リオセスリとの恋人関係を、いっそ楽しんでみるのはどうかと考えた。そうすれば、少しはみっともない醜態を晒すこともなくなるのではないか。これは中々良案なのでは?そう思いながらいざ足を運んだメロピデ要塞。


「シュレンさん。そろそろこっちを向いてくれてもいいんじゃないか?せっかくあんたと会えたってのに、視線一つ絡まないなんて、俺も寂しいんだが」


寂しいなどと言ってはいるが、リオセスリの声にはしおらしさなどひとつまみ分もない。むしろ愉快そうに喉で笑っているのだから、自分の反応をおもしろがっているのがよくわかる。シュレンが不満そうに眉を寄せれば、隣からまた笑い声がこぼれる音を聞いた。

恋人となってから初めて迎えたお茶会。いつもは正面に座っていたはずのリオセスリが隣に座った時点で、シュレンは警戒するように身を端へ寄せた。あれこれと話をするリオセスリに相槌を打ち、時に自分も話題を提供して。彼の座る位置以外はこれまでと変わらないお茶会風景だが、しかしリオセスリの言った通り、シュレンはその間一度も彼の方を向いていない。その視線は普段リオセスリがいる場所や、ティーカップの中、積まれた本などに注がれ、頑なに隣は見なかった。

瞳は、時に言葉以上に正直で雄弁だ。本人が隠そうとしていても、瞳に本音が映し込まれてしまうことはままある。では隠す意思がないとどうなるかと言うと、際限なく溢れ続けるのだ。

隠す気もない、基隠す必要がなくなった感情は、リオセスリの両の瞳を通してシュレンに注がれ続けている。彼が時々見せていたものはほんの一部に過ぎなくて、上手く隠していたものだと、シュレンはいっそ感心した。

簡単に言ってしまうと、シュレンはリオセスリの感情が多量に込められた瞳を、直で見ることができない。こうしてあてられているだけでもむず痒さを覚えているのに、それを視認できようか。

今まで差し出されてきた恋は、こうも熱烈ではなかったとシュレンは記憶している。自分に直接想いを告げてくる者たちは皆、瞳の中で小さく瞬いた星屑をシュレンが浸る水中に落とすけれど、それは両腕いっぱいに抱えすぎて、つい腕からこぼれ落ちていくかのように、とても控えめで遠慮がちだった。

しかしリオセスリの場合は、シュレンのいる場所をそれで埋め尽くさんばかりの勢いだ。もし視線を絡めようものなら、これ幸いと流し込んでくるに違いない。絡んでいなくとも、投げつけられてきているのだから。

この関係に楽しさを見出すと決めて来たはずが、一向に手に入りそうにない。決してつまらないわけではないけれど、なんというか、それどころではなかった。シュレンは大いにペースを乱されている。


「シュレンさん。なあ、シュレンさん。無視は酷くないか?」

「え?ああ、いや、申し訳ない。少し考え事をしててね」

「今は俺と過ごしてるのに、別のことに思考や意識を割くのは妬けるな」

「君に思考や意識を割いていたんだよ」


一瞬ピリついた空気が、嘘みたいに消える。精密機械ではあるまいに、リオセスリの機嫌はどうにも不安定すぎやしないかと些か心配になりながら、シュレンは紅茶を啜った。

本人も言っていた通り、彼は相当に嫉妬深いのだろう。だがシュレンは彼の中の基準をまったくと言っていいほど把握できていない。そのため何が逆鱗に触れるのか、機嫌が治るスイッチがどれなのか、探り探りだ。今のはリオセスリが自分で言ってくれたのもあって嫉妬の理由は判明していいたので、それに基づいて返答した。実際、シュレンが言ったことに嘘はない。リオセスリのことを考えていたのは事実だ。

これを楽しむ要素として捉える手もあるが、身の危険がありすぎる。それに、人の機嫌で遊ぶほど性悪になった覚えもない。彼女は善良な部類の魔神なのだ。


「俺のことを考えてくれてるのは嬉しいが、あんたの頭の中にいる俺じゃなくて、隣にいる俺にかまってはくれないのか?」

「……たくさんおしゃべりしただろう?」

「これでも、柄にもなく甘えてみてるんだが、シュレンさんはつれないな」


冗談なのかそうでないのか、判別がしづらい。シュレンは視線を手もとのカップに向けながら、どうしたものかと口を噤む。彼の言動は一貫して自身への好意に基づいていると考えれば、先の言葉も恐らく嘘はない。半分ほどは冗談が混じっているのやもしれない。

素直に甘えさせてやるべきか、軽く受け流すべきかと考えていや最中、ふと思い至る。こちらから愛を与え続けてあげたなら、もしかするとリオセスリも満足するのではないかと。シュレンは相手に返せる恋は持っていないが、人に渡せる愛は持っているので。


「しょうがないね。なら、つられてあげる。ほら、試しに抱きしめてあげようか?」


ティーカップを置いたシュレンは、リオセスリの方へ少し体を向けながら、両腕を軽く広げてあげた。おずおずと彼の瞳を見れば、相変わらず自分宛の甘い星屑が溢れているので恥ずかしい。

中々反応が返ってこないので、ん、と促してみるが、リオセスリは目をまん丸にして固まってしまっている。精悍な顔立ちが、今はどうにもあどけない。これは果たして対応を間違えただろうか。彼の機嫌がどちらに転ぶのか心配になりながら、彼女はえっと、と言葉を付け足す。


「いらないなら、全然断ってくれていいよ」

「いらないなんて一言も言ってないだろ」


食い気味に言葉を被せられ、シュレンは「あ、うん」と反射的に返事をした。なんとも言えない表情を浮かべているリオセスリは、果たして喜んでいるのか、それとも怒っているのか、判断しにくい。キリリと吊り上がっている眉がぐぐっと眉間に寄せられて、口もともへの字になっている。機嫌が良いとは言えない表情な辺り、喜んではいないのか。

けれども、広げた腕に入ってはきたので、嫌ではなかったのだろう。額を肩に押し付けられ、しっかり、けれどどこか慎重に腕を背中に回されながら、シュレンも彼の背中に手を置いた。

二人の身長にそこまで差はないが、体格には大きく違いがある。鍛え上げられた身体は代謝の関係もあってか体温が高く、反対に人より体温の低いシュレンには、少し熱いくらいだ。もしかするとリオセスリの方も、シュレンの肌を冷たいと思っているのかもしれないが、彼女は本来水棲なのでこればっかりは我慢してもらわないといけない。

シュレンが自分よりも大きくて広い背中を撫でてやれば、押し付けられている額をぐりぐりと動かされるので、髪が当たってくすぐったい。こうしていると大型犬みたいだなんて考えつつ、なんだか少しいじらしさを感じて、シュレンはついでに頭も撫でてあげた。


「リオセスリくんにも、甘えたくなるときがあるんだね」

「……あんたにはないのか?」

「わたし?わたしは特にないかなあ。甘えられる、甘やかすならしてあげるけど、甘える、というのはわたしに必要のない行為だもの」


僅かに、リオセスリの腕の力が強くなった。けれど苦しいと感じるほどではないので、シュレンは何も言わずに彼を撫で続ける。


「そういう言葉が出てくるってことは、こういうことを、他の奴にもしてやってんだな」

「否定はしないよ。でも、君ほど大きな子にはないかなあ」

「なら、今後は俺だけの特権にしてくれ」

「ん……君より小さな、それこそ幼い子ども相手や、メリュジーヌ相手には許される?」

「流石の俺も、彼らには寛容にならざるを得ないな」


その返しに、シュレンは穏やかな笑い声をこぼしながら、彼の名を優しく紡いだ。


「わたしは君の愛を受け取れないし、君の愛も求めてはいない」


リオセスリは、何も言わない。そのため、シュレンは言葉を続けた。


「けれどわたしは、君たち人間への愛は持っているから、それなら渡せるよ」


海と地上は、いつだって隣り合わせにある。ならばシュレンにとって、地上で暮らす者たちは隣人に違いなく。

シュレンは殊更に人間を愛しているわけではない。彼女は彼らよりも海を愛し、そこに棲む生き物たちを愛している。しかし両腕いっぱいではないだけで、手のひら分くらいの愛は持っていた。


「ねえ、リオセスリくん。わたしたち、隣人同士でいいじゃない。それじゃあダメなの?」

「ダメだ」


ハッキリと、けれどいつもよりもずっと低めの声での否定に、シュレンは困ったように眉尻を下げた。


「それは他人と共有しなきゃならない。言っただろう、シュレンさん。俺は嫉妬深い。だからあんたの愛を他の奴と分け合うなんざごめん被る。俺はあんたが欲しい。全部、なんもかんも、あんたの『今』も『これから先』も、俺が独り占めしたい」


わがままな子どものような言い分――と言うには些か重たいところがあるが――だ。けれど、シュレンは愛に飢えた子どもの叫びにも聞こえてしまう。

全部全部、偽物だったから。与えられていた幸せも、貰っていた愛も、全ては虚構であると知ってしまったから。ひとりではりぼての箱庭を壊した先、ひとりぼっちで深い海の底に来てしまったから。本来ならば過不足なく注がれていたはずの愛が、崩れて壊れて空っぽになってしまったばっかりに。

たった一度、偶然命を救ってあげただけの自分に、縋っているのだろうか。人間は誰しも特別に焦がれ、愛を欲するものだから。


「そっか」


呟きながら、シュレンはリオセスリの頭をゆっくりと撫でる。離さないと言いたげにしがみつく腕の力に、彼女は大泣きさせてしまった弟子のことを思い出した。リオセスリは弟子のように泣いてはいないが、いつもよりも頼りなさげで、心なしか幼く見える。


「シュレンさん」

「なあに」

「シュレンさん。好きだ。ずっと、好きだったんだ」

「うん」

「綺麗なだけの思い出になんかなってやるつもりはないからな。一生あんたを苛む傷になってやる」

「君は中々、発想が恐ろしいとこあるね」


やっぱりとんでもない子に捕まってしまった。その美しい瞳からではなく、言葉でも雄弁に、シュレンだけへと向けた愛をこぼすのだから。こんなにたくさん貰って、もしも彼の愛で形作られた星屑に埋もれるようなことがあったとして。それを想像すると、どうにも心の柔らかな部分が痛んでしまった。