- ナノ -

愛だけ孕んだ生き物

拝啓わたしの可愛い愛弟子、滸(ほとり)へ。お前の師匠はこのフォンテーヌで、恋人ができてしまいました。

そこまで書いて、シュレンは手紙を丸めて捨てた。

事実だが、事の経緯を己の弟子にどう説明しろと言うのか。告白されました、まではまだ良いとして、その後のことまで明け透けに全て話せるわけがない。半ば脅される形で了承したら、相手はとんでもないものを隠し持っていました、など。またきっと、「お師匠は人間に甘い」と言われるのが見えている。それだけではなく、たくさん、たくさん心配だってされる。ただでさえ、璃月を去ったときにも大泣きされたのだから。

わざわざ教えなければならないようなことでもないのだから、黙っていたっていいだろう。要らぬ心配を弟子にかけるのは師匠失格だ。無難に、特に何ら変わりなく過ごしていると書いておこう。

頭の中で文面を考えながら、シュレンは水でも飲もうと自室を出た。

リビングでは、ヌヴィレットが読書をしていた。読んでいるのはフォンテーヌ国内でも人気を博す恋愛サスペンス。舞台化もされていたはずだと、シュレンは記憶している。これはまたヌヴィレットにしては珍しいものを読んでいるなと一瞥しながら、彼女はキッチンへ向かった。

コップを取り出す際にいつぞやに買ったティーセットが視界に映って一人気まずさを覚えながら、シュレンはガラス製のコップに水を注ぐ。とぷとぷと波打つ音は、聞いていてとても心地が良かった。


「それ、面白い?」


シュレンは水を一口飲んで、キッチンからヌヴィレットの後ろ姿へと声をかけた。一度振り返った彼は本のページを見返して、どうだろうか、と呟いた。


「複数人怪しい者がいるため、彼らの言動や事件現場の状況、発見された証拠をもとに、果たして誰が審判を受けるべきなのか。それを探る過程は中々に興味深い」

「君らしい感想だね。でもそれ、ただの推理ものじゃないだろう?謎は事件だけに限らず、登場人物たちの間にも発生しているはずだ。しかも恋愛ものだから、恋やら愛やらがあれこれ引っ掻きまわしているんじゃないかな」

「ふむ……確かに、君の言う通り、出てくる人物たちは複雑な関係性を秘めている。だが審判において、容疑者にどれだけの理由があろうとも、判決に影響を与えることはない」

「それは確かにそうだけど、審判官目線じゃなく、ただの第三者として読んだらいいのに。これも職業病ってものかな」


おかしそうにこぼしながら、シュレンはコップに口をつける。登場人物の行動とその理由に胸を打たれたり、トリックが明かされ爽快感を覚えたり。そういった楽しみ方が随分と下手くそな背中を見つめながら、あれでは公文書を読んでいるのとさして変わらないな、とシュレンは肩を竦めた。


「君の方は、問題は解決したのか?仕事に支障が出てはいないようだが、私の目には、君はまだ悩みを抱えているように映る」


飲んでいた水が気管に入り、シュレンは軽く咽込んだ。咳をこぼして軽く呼吸を整えている自身を振り返り、ヌヴィレットが心配そうに大丈夫かと尋ねるので、彼女は問題ないという意味を込めて何度か頷いておいた。

咳がおさまって、一度ゆっくりと深呼吸をした彼女は、ヌヴィレットから視線をそらしながら苦笑いを浮かべた。


「先日の件は解決したよ。ただ、それと同時にまた別の悩みが浮上してね」

「それもリオセスリ殿と関係が?」

「……あるね」


水を飲み干したシュレンは、コップを軽く水で洗ってから、ヌヴィレットの座るソファーに腰を下ろした。そうして少しばかり考え込んでから、言いにくそうに彼へ視線を向けた。


「君には話しておいた方がいいだろうから、伝えるけど……リオセスリくんと、付き合うことになった」

「…………付き合う?」

「恋仲になった、の方がわかりやすいかな?」


恋仲。そう、恋仲。

目に見えて呆然とした様子のヌヴィレットに、そうなるよなあとシュレンは眉の端を下げる他ない。自分だってもしヌヴィレットから恋人ができたと報告を受けたら、同じような反応になる。あと、相手のことも心配になる。

ヌヴィレットは感情を知覚でき、汲み取ることはできるが、それを理解することには長けていない。要は、自分のことさえ他人事なのだ。そんな男が、複雑に構成されている心というものの中でも特に厄介なことこの上ない恋愛感情というものを、まずもって自覚できるのか。そこから既に怪しい。


「……少々驚いたが、そうか。では君は、彼に好意を抱いていた、と?」

「半分正解だけど、半分ハズレ。わたしは彼に好意を持っているけれど、それは恋とは違うものだろう。ちょっとした友人として、彼のことを好ましいと思っているよ」

「ならば、何故恋仲という関係を結ぶに至るんだ」

「基本それは両者の感情の一致から成るものだけど、場合によってはそうでない時もあるんだよ」


流石に一から十まで全てを説明はできないので、シュレンはリオセスリから告白されたこと、幼い彼が溺れていたのを助けた際に自身のことを秘密にしてほしいと頼んだこと、それを彼は破ることなく守ってくれていたため、そのお礼として了承の返事を渡した、とだいぶ省いて経緯を話した。

なるほどと頷いたヌヴィレットは、双方で合意があるのならば他者が口出すことではないと、特に苦言をこぼすことも、咎めるようなこともなかった。なんとも彼らしい結論である。


「そうなると、先日の確認というのは、そのことについてだったのか」

「うん。彼はね、不老不死にも万病の薬にも、人ならざる力にも、興味はないそうだ」


軽い笑い声と共にこぼされた言葉に、ヌヴィレットは僅かばかり目を見開くと、ほんの少し目尻を緩めた。


「では、今感じている悩みもその関係性についてなのであれば、私は役に立てそうにないな」

「だろうねえ。でもまあ、一緒に解決策を探してほしいわけじゃないから、君はいつもみたく相槌を打ってくれてるだけでいいよ。わたしが勝手におしゃべりするから」


たとえばシュレンがリオセスリと喧嘩をして、どちらに非があるかを判断してもらう、なんて事態になったなら、彼女はヌヴィレットに相談するだろう。しかし今の彼女の悩みはそういうものではなく、もっと単純でくだらなくて、切羽詰まるほどの緊急性はないものだ。そのため、最初からヌヴィレットに助言を乞うつもりはなかった。

べつにシュレンは、相談に乗ってほしいわけでもないのだ。こんなこと弟子には話せないし、旧友たちにだって言いづらい。そもそも話すにしても弟子も旧友たちも璃月にいるのだから、手紙を送って返事があるまでにまあまあな日数がかかってしまう。ただ、誰かに少し話を聞いてほしい。その相手として、ヌヴィレットを選んだ。それだけのことだ。


「なんでもリオセスリくんは、わたしのことが好きらしい。この間貰ったって話したネックレス、あるだろう?あれもどうやらそういう意図をもってたみたいだ。しかも種族の違い、寿命の違い、気が遠くなるほど離れた年齢差。それら全てを理解した上で。わたしには同じ感情がないと知った上で、ね。でも、まずは肩書きだけでいいそうだ」

「それはつまり、中身は伴っていなくとも問題ないということになるが……」

「そう。彼はとても賢い。関係を結んでしまった以上、多少なりとも、わたしは彼を意識せざるを得なくなってしまった」


言い返す言葉もない。シュレンは彼の自身へ向ける感情の名を知ってしまっている上で、恋人という立場を許したのだ。自分はこれからリオセスリと会うたびに、彼の言葉や視線、仕草の一つ一つから、ドロドロに煮詰まった好意を見せられることになる。それを「何かはわからない」とももう思えないし、知らないフリも通用しない。

そういう優秀さは評価に値するが、こんなところにまで発揮しなくてもいいのに。シュレンはため息と共にその言葉は飲み込んでおいた。


「だけど意識したところで、果たして彼の望む結果になるのかな」


シュレンは璃月にいる頃も、それなりに人とふれあってきた。その最中に好意を伝えられるようなことが、一度もなかったわけではないが、どれも応えてあげることはなかった。種族の違い、寿命の違い、気が遠くなるほど離れた年齢差。それも理由に含まれてはいるが、それ以上に、シュレンは応えられないワケがあった。


「わたしは、愛は持っているけれど、恋は持っていないのに」


差し出されたものと同じものを、彼女は相手に渡せない。


「それが、君の新たな悩みか」

「ん?これは純粋な疑問かな。わたしの悩みは今のところ彼のスキンシップに関してだから」


先日のことが脳裏を掠め、シュレンは軽く頭(かぶり)を振った。彼女としては、できればあまり思い出したくない記憶だ。リオセスリからされたことが嫌だった、不快だったというわけではない。たとえ何千年生きていようが未経験なことはある。シュレンにとって、意味深な意図や熱をもって触れられることは、未経験なことだった。そのためその時の行為に対してと、情けない己の姿への羞恥心が故である。

またあの時の熱がぶり返しそうな気がして、一旦この記憶は隅に追いやろうと、シュレンは話を戻した。


「目には目を、歯には歯を。では愛には愛を、恋には恋を返すのが道理だけど……わたしは恋は持っていない。どれだけ意識したって、それじゃああんまり意味がないよね」


ないものは渡せない。それは至極真っ当で、当然のこと。仮に持っていたなら渡していたかと言われるとすぐに頷くことはできないが、少なからず与えるという選択肢はシュレンの中に生まれてはいただろう。


「これはただ私の感じた疑問になるのだが、愛と恋の明確な違いとはなんだ?」


シュレンの話を聞いていたヌヴィレットは、ふとそんなことを尋ねた。その質問に、シュレンは楽しげに笑い声を上げた。そんなもの、こっちが知りたいと。


「きっとその疑問に、ハッキリとした正解はないんだよ。けれど、間違いもないんだと思う。人によってその答えは違うものになるだろうけど、どれも正しいものだ」


それらは隣り合わせにあるから、境界線が曖昧になるのかもしれない。もしくは、愛とは恋を、恋とは愛を、包含しているのかもしれない。恋の先に愛があるのか、愛の過程に恋があるのか。それさえわかりやしないが、愛と恋は似て非なるものだ。

愛の対象も恋の対象も複数あれど、同時にいくつもの数を抱えられる愛とは違い、恋は一つしか抱えられない。抱えた恋が消えてからでないと、新しいものに取り替えることはできない。とは言えあくまで一般的に、なので複数恋を抱えている者もいるかもしれないが。


「逆に聞くが、ヌヴィレット。君はそれらの違いをなんだと考える?」


シュレンの質問に、彼は黙り込んだ。自分なりに答えを導き出そうとしているのだろう。難しい顔を浮かべて長考していた。

その人の思想や価値観、考え方で答えがいくつも生まれてくる問いだ。ヌヴィレットもシュレン同様に、恋の全貌など知らない。否、恋や愛の全貌は、きっと誰にもわからないものだ。

何分が経過しただろうか。ヌヴィレットが考えはじめてから、時計の長針は僅かに動いていることは確かだ。一つ瞬きをした彼の顔が数センチ上がったことに気付いて、シュレンはそちらを向いた。


「答えは出た?」

「ああ」

「なら聞かせてもらおうかな」


彼女に促されたヌヴィレットは、一拍置いて口を開いた。


「あくまで私個人の意見だが、恋とは相手の長所を見るもので、愛とは相手の短所も見るものと考える」


これは存外深い答えが出てきた。シュレンは驚いたように目を丸くさせたが、すぐに微笑みを浮かべた。


「なるほど。君はそう考えたんだね」

「君はどうなんだ、シュレン。私は、君の意見も聞きたい」

「わたし?わたしは、そうだな……」


十秒ほど遠くを眺めたシュレンは、最初から答えを用意していたかのように、考え込むことはなくすんなりと言葉を並べた。


「隣人以上を望むのが恋で、隣人のままでもいいのが愛、かな」


隣人とは、線引きだ。お互い深く干渉はしないが、何か困り事があれば手を貸したりする。もちろん仲の良い隣人だっているだろうし、互いに関わろうともしない場合だってある。在り方は千差万別で、けれども他人に違いはない。

愛も恋も赤の他人に抱けるものだが、恋はそこから特別な関係性を求める。相手に自分を好きになってほしい、愛してほしい。そういった自分の気持ちや欲を相手に求めて満たしてもらおうとするが、それは隣人に望むには些か欲張りすぎだろう。

故に、シュレンは愛を持っていても、恋は持っていない。だって彼女は、誰かと隣人以上の関係を望んでいない。


「わたしの考えはこんなところ。さて、これ以上読書の邪魔をしてはいけないね。おまえも、キリがいいところで寝るんだよ」


切れ長で澄んだ瞳は一見冷ややかではあるが、これが中々美しい。けれどもあまりに純粋すぎて、見つめられすぎるとなんだかバツが悪くなってくる。心の内側を暴かれてしまいそうな感覚だ。

そんなヌヴィレットの瞳からそそくさ逃げるように立ち上がったシュレンは、片手をひらりと振ってリビングを出ていくと、彼女は何かを紡ぐように唇を動かしながら、自室へ戻った。

扉が閉まって、足音が遠ざかる。ヌヴィレットはしばし扉を眺め、シュレンの言葉を頭の中で反復すると、開いたままの本へと視線を落とした。