- ナノ -

首枷代わりに赤い糸

集中力が欠けている。今の自分の状態を、シュレンはそう評価した。書類に目を通すがどうにも目が滑ってしまい、内容は七割程度しか頭に入らない。そのため仕事効率が著しく低下しており、シュレンは思わず眉間にしわを寄せながら、半ば睨むように書類の内容を確認していた。

普段不機嫌な様子などこれっぽっちも見せやしないシュレンのそんな表情に、周囲もなんと声をかけるべきかと戸惑っている。そんな不安が彼女の肌を恐る恐る刺してきて、シュレンはハッと眉間をほぐす。

このままではいけない。シュレンのもとにはただでさえ多くの書類が届く。それは彼女の役職も理由の一つであるし、ヌヴィレットに渡す前の確認として見てほしい、という確認の確認、と言ったことも多いからだ。ひとまず最後の申請書を読み終えたシュレンは、そちらを不備無しの束に加えた。

それらの書類を手にしたまま席を立った彼女は、すぐそばの扉をノックして、名前を告げた。中からどうぞと促す返事が聞こえたのを確認して入室すれば、広々とした部屋で一人、ヌヴィレットが机に向かっていた。後ろ手に扉を閉めたシュレンは彼の前まで来ると、いつもより時間を食ってチェックし終えた書類の数々を差し出した。


「五日前の裁判記録と、昨夜逮捕された連続窃盗犯に関する一連の犯行に関する記録、それと備品発注の申請書です。全て特に不備はありませんでしたが、一度ご確認を」

「ああ。そちらに置いておいてくれ」


彼が視線を向けた位置に書類を重ねた――それぞれクリップでとめているため混ざってしまう心配はない――シュレンは、一つ小さく息を吐き出して、おずおずと彼を呼んだ。顔を上げたヌヴィレットはシュレンの言葉を待つが、彼女は言いづらそうに口を眉を寄せて視線を彷徨わせるばかりで、中々言葉は落ちてこない。そんな見慣れない彼女の姿に、ヌヴィレットは瞳をぱちくりと瞬かせながら、僅かに首を傾げた。


「どうかしたのか?」

「いや……その……今から少しの間、ここを空けても?」

「理由と、行き先を尋ねてもいいだろうか」

「場所はメロピデ要塞。理由は……リオセスリくんに、確認したいことがありまして」


メロピデ要塞から何かしらの書類提出があったのだろうか。しかしリオセスリが不備をするとは珍しい。彼はいつも、なんの訂正もいらないきっちりとした文書を提出してくれている。しかし、時には何かしらの間違いもあるだろう。

と、ヌヴィレットは考えているだろうことがシュレンには容易く理解ができて、仕事に関することではないのだと付け加えた。


「プライベートのことでね……できれば、早急に確認しておきたい。この件が原因で集中力も途切れてしまって、正直今のわたしはあまり使い物にならない」

「……なるほど。集中力が欠けている、というのは仕事に支障をきたしかねないが、果たしてその確認が取れたら、君の中でその問題は解決するのか?」

「そうだね。完全に、とは言えずとも、ひとまずは落ち着くと思うよ」


シュレンの返答にしばし黙り込んだヌヴィレットだったが、わかったと頷いて、彼女に有休申請を出すよう伝えた。彼女は頷いて執務室を出ると、デスクにある有休の申請書を取り出した。

申請理由については「私用のため」と書き記し、他職員にも午後から帰らせてもらうことを伝えれば、特に渋られることも嫌な顔をされることもなく、半休を取得できた。今日の彼女の様子が普段とは違っていたこともあり、体調が良くないのではないか、と心配されていたのだ。


「シュレンさんは働き過ぎなんですよ。今日はゆっくり休まれてくださいね」


少しばかりの罪悪感を抱えながら労りの言葉を受け取り、確認書類はデスクの上に置いておくよう頼むと、シュレンは申請書をヌヴィレットに提出し、パレ・メルモニアを出た。













メロピデ要塞の中央に位置する扉の前で、シュレンは小さく深呼吸をしてから、扉をノックした。数秒して聞こえた声につい身構えてしまいつつ、頑丈そうな扉を開ける。

リオセスリの執務室は、入ってすぐにデスクがあるのではなく、階段を上った先にある。そのため扉とは距離があるのだが、中から外へ声を伝えるために、それなりに声を張って返事をしているのだろうかと、などとどうでもいいことを考えながら、シュレンは重たい足取りで階段を踏み締めた。

コツン、コツン、と鳴る足音が徐々に近付いてきて止まったので、階段を上りきったのだと察したリオセスリがぶっきらぼうに顔を上げた。


「なにか問題でも――……は?」

「やあ、こんにちは。突然訪ねてすまないね」


ややぎこちない笑みを浮かべるシュレンの姿に、リオセスリはぽかんと固まった。当然だ、今日は彼女とのお茶会の予定はないし、まずそもそも来客の予定自体入っていなのだから。

自身を凝視したまま動かないリオセスリに、流石に心配になってきたシュレンが何か声をかけた方がいいかと考えはじめた頃。ガタッ!とまあまあ大きめな音と共にリオセスリが立ち上がって、ズカズカとシュレンのもとへ歩み寄ってきた。反射的に右足が半歩下がってしまったからなのか、彼はシュレンの手をしっかりと握った。


「まさか二日連続でシュレンさんに会えるとは思ってもなかった。来るとわかってたなら、お茶の準備をして待ってたんだがな」


心なし嬉しそうな彼の表情や声音に疑問を感じたシュレンだが、すぐさま思い当たる理由に気付いて、それ以上考えることはやめた。


「お気遣いなく。今日は少しばかり確認したいことがあって、足を運ばせてもらっただけだから、用が終わればすぐに帰るよ」

「確認?」

「うん。その、昨日の件について、少しね」


昨日の件。その言葉でピンときたらしいリオセスリは、へえ、と一言漏らす。口もとは弧を描いたままだが、瞳の方はスーッと色を落としていく。なるほど、これが所謂「目が笑っていない」状態かと、シュレンは頭の片隅でこぼした。


「でも、アポも取らずに訪ねてしまったから、仕事を片してくれた後でいい。今日はこのために半休をとったから、いくらでも待つ時間があるんだ」


ピクリとリオセスリの眉が動いたと思うと、どこか張り詰めていたはずの雰囲気が、僅かに緩んだ気配がした。いったいどこに反応したのかは知らないが、彼の機嫌がたった数センチでも浮上するのはいいことだと、シュレンは一人こっそりと安堵した。

座って待つよう促されたシュレンは、いつもお茶会の時に座っているソファーに腰掛けた。わざわざ紅茶を用意してくれたリオセスリにお礼を伝え、ついでに暇潰しのため本を借りる許可も貰うと、テーブルに積まれている中の一冊を手に取って、読書をはじめた。

とは言え、集中力は欠けたままだ。相変わらず文字はいつもより頭に入ってこない。シュレンは無駄に足を組み直しながら、二秒前に読んだ箇所をもう一度頭から読み、スローペースに活字を追った。時々リオセスリの方から聞こえてくる、ペンを走らせる音や紙を捲る音などをつい耳が拾ってしまうのは、自分がそちらに意識を向けてしまっているからだということをシュレンも理解はしている。けれど、素知らぬフリをした。

組んだ足の爪先が、無意識のうちに上下に動く。そのせいでたまにテーブルに当たり軽い音を響かせてしまい、その度シュレンは一瞬だけ動きを止めて、おずおずと爪先を下へ向けた。

七回目の軽い音がした時には、既に四十分は経っていた。シュレンの読書はほとんど進んでおらず、盗み見るように本の向こうへと目を向ければ、それはもうばっちりと、リオセスリと目が合った。


「……すまないね。何度もうるさかっただろう?」

「囚人同士の諍いや生産エリアの機械音に比べたら、気にもならなかったよ。むしろ俺の方こそ、退屈させたようで申し訳ない」


実のところ、今リオセスリには急ぎの業務はない。すぐにシュレンとの話に入ってもよかった。けれど彼女が自分のためにわざわざ時間をつくってくれて、その上待ってくれると言うのだから、これ幸いと自分を待つ彼女の様子を見たくなった。

そのため彼は、看守たちからの報告書や、マシナリーの生産量のデータ表、物品の在庫表などに目を通しながら、シュレンへも視線を向けていた。コン、と彼女の靴とテーブルとがぶつかる度、気まずそうに眉を下げるシュレンの一連の動作だって、しっかりと見させてもらっていたのだが、彼の方を見ないようにと意識していたシュレンは、それに気付いていない。


「読書のおかげで退屈はしなかったよ。それより、仕事はいいのかい?」


一つ頷いたリオセスリは書類を置いて立ち上がり、シュレンのいるテーブルへと歩み寄ると、彼女の隣に腰を下ろした。大して読めもしなかった本を閉じたシュレンは、それをもとあった場所へと戻して、一旦冷めきってしまった紅茶に口をつけた。


「それで、早速だが確認したいことってのを聞いてもいいか?」

「そうだね、本題に入らせてもらおうか。そう複雑なことじゃない。ただ、いくつか質問に答えてもらいたいんだけど、いいかな」

「かまわないが……その確認を終えて、たとえば俺の返答があんたにとって不都合であったり、望まないものであった場合、どうなるんだ。関係の解消、なんて言わないよな?」


リオセスリの瞳が、薄らと冷たさを帯びる。関係の解消とは、昨日のお茶会にて新たに加わった、二人の間を結ぶ肩書きの一つである「恋人」という名称を指している。彼女はすぐにそれを察して、否定するように首を横に振った。


「言わないよ、約束しよう」


ほとんど脅しも良いところではあったが、シュレンがリオセスリの要求を、告白を受け入れたことは事実だ。今から行う確認の結果がどうであれ、それを覆そうとはしないと、彼女はハッキリと告げた。シュレンが約束と口にしたのだ。その部分に影響がないのであれば、リオセスリも渋る必要はなく、それならよかったと笑みを浮かべた。


「まずは……わたしのこと……種族については、君も理解しているはず、だよね?」

「詳しいことは知らないがあの姿からするに、人間じゃないのは確かってことくらいは。なんだ、教えてもらえるのか?」

「かまわないよ。見られてるんだ、隠す必要がない」


シュレンがしたい確認においても、自身の正体というのは重要な部分でもあった。そのためあっさりと、彼女は己がどんな存在であるかを明かした。


「――魔神だよ。ある日、璃月付近の海の中で目が覚めてね」


彼女が己を認識したのは、海中でのことだ。小さなあぶくと共に生まれ落ちて、シュレンは長く海中で暮らし続けていた。

今や魔神はそのほとんどは死に絶え、生き残っている者を数えた方が早いのではと思うくらい、その数は減ってしまった。シュレンはその、数少ない生き残りである。

彼女本来の姿から、海洋生物であることはリオセスリも予想していた。璃月には仙人が住んでいるとも聞き及んでいたこともあり、てっきり、海に棲む仙人なのだろうと、そう思っていた。しかしまさか、七神と同種であったとは。これには流石のリオセスリも驚きを隠せなかった。


「正確な年齢は正直覚えていないけれど、低く見積もっても五千かな」


時間というものは、シュレンからしてみれば、ひどく穏やかな歩みを見せるものだ。最初の頃は数えもしたが、それが五百を過ぎれば飽きもする。璃月が建国するだいぶ前から存在していたことは確かなため、璃月という国の歴史よりは遥かに上、という自己認識をしている。


「わたしと君は違う生物だ。それを理解した上で、君は……」

「あんたを好きだと宣ったのか、ってか?」

「……まあ、うん」


ふうん。つまらなそうな相槌を打ったリオセスリは、不満げな顔をあらわにしたまま、シュレンの名前を呼ぶ。その声音は少しばかり苛立ちが含まれているように、彼女には聞こえた。

実際、リオセスリは怒りを覚えていた。この魔神は、こちらが向ける想いの熱量を微塵もわかっていないと。種族や寿命の違い、あまりにも大きすぎる年の差。それがいったいなんだと言うのか。それで諦めることができていたなら、リオセスリはあれこれ策など講じなかった。

どうやら目の前の愛しいヒトに、己の育ちに育った感情を教えてやる必要があるらしいと、リオセスリは笑みを深めた。


「シュレンさん。あんたが俺とは異なる種族だってことは、もうずっと前からわかってたことだ。でも、それがあんたを諦める理由にも、好きになってはいけない理由にもならないだろ」

「だとしても、生きる時間が違う。それって、すごく大きなことだろう?君は、わたしより先に死んでしまう」

「そうだな。あんたの言う通り、先に死ぬのは俺だ。俺が死んだあと、果たしてあんたがどれだけの時を生きるか、俺には想像がつかない。それほどまでに、あんたの寿命は長いんだろう。その長い命が終わりゆくまでの道中を、俺は知ることはできない」


既に何千という年月を過ごしたシュレンからしてみれば、リオセスリとのこの関係は、ほんの一瞬の出来事だろう。それはテーブルに積まれた本の一冊と同じくらいの価値だ。本一冊分もあれば人生の始まりから終わりまでを語れるだろうが、シュレンにとっては長い長い人生、基神生の一部分に過ぎない。それこそ、初対面の記憶同様に、時を経るにつれて記憶の隅の隅へと追いやられ、時折本棚から取り出して、そういえばそんなこともあったかと思われる程度のものへとなっていくことだろう。

――そんなこと、許せるわけがない。


「だから俺はな、シュレンさん。あんたに俺を刻みつけたい。あんたが今後生きていく日々の中でも、死を迎える瞬間でも、片時も俺のことを忘れられないように。未来永劫、それが人間であれ別の種族であれ、誰かと添い遂げることなんかできないように」


膝に置いていた左手を掬い取ったリオセスリが、殊更に優しく触れるものだから、シュレンは僅かに体を強張らせた。そんな反応に喉から笑いを漏らしながら、彼はしっかりとシュレンの目を見つめ、指先に口づける。それに驚いて思わず手を引っ込めようとするも、リオセスリが離してくれないので失敗に終わった。


「そのために、まずは恋人って肩書きが欲しかった。そうすれば、少なからずあんたは俺のことを、自分に惚れている男だと意識もしてくれるだろ」


今自分は、とんでもないことを、言われてはいないか。リオセスリの唇から紡がれた言葉の一つ一つを頭の中で何度も繰り返し、シュレンはその意味を理解すると同時に、頭を抱えそうになった。

彼女はべつに、リオセスリが自身へ向けた感情を軽んじたつもりはない。しかし人間同士でさえ、好みや価値観などの相違点が浮かび上がっては、それがもつれて拗れて別れを告げるのだ。同族でさえ上手く続かない関係を、果たして種族の異なる相手と続けられることができるのか。しかも、シュレンが彼に懸想などしていない状態で。

本来恋人とは互いの感情あってのもの、というのがシュレンの認識だ。そこが噛み合ってこそ成り立つ関係である。もちろん全てが全てそうというわけではない。けれど今回の場合はその少数に含まれるパターンであり、リオセスリが無理矢理繋げているだけの、言ってしまえば名ばかりの関係に過ぎないものだ。

人間の一生は短い。その短いが故に貴重な時間を、果たして自身に費やす意味や価値はあるのか。もっとべつの、同種族で同年代の相手の方が取り巻く問題は少なくて済む。リオセスリは見目は良いし、元囚人と言えど今は立場的にも立派な存在だ。引く手数多だろう。

自分の話を聞いて考えなおしてくれたりはしないだろうかと思っていたのだが、これはもしかして、とんでもない子に捕まってしまったのでは?とシュレンの背筋に冷や汗が流れた。


「熱烈な、口説き文句だね……流石に、そこまでのことを言われるのは初めてだよ」

「その言い草だと、口説かれた経験はあるらしい。参考までにどんなことを言われたのか聞いてみたいところだな」

「……黙秘しても?」

「かまわない。何れ教えてもらおうとは思うが」


シュレンは喉から漏れそうになった悲鳴を寸前で飲み込んだが、代わりに乾いた笑みがこぼれた。


「先に言っておくが、俺はどうやら、自分が思っていたよりも相当に嫉妬深い。浮気や目移りは御法度。まあこれは嫉妬云々に関係なく当然のことだが……たとえ俺が死んだ後でも適用するからな」


途端にリオセスリの顔から笑みが抜け落ちたのを見て、シュレンの喉は堪えきれずに、か細い息を漏らした。冗談でもなんでもなく本気で言っていることは火を見るより明らかである。死んだ後なら浮気も何もなくないか?なんて彼女の中の冷静な部分が呟いたが、とてもそれを口に出せる空気ではない。

感情はそれがどんなものであれ、時として暴走するものだが、どうやらこういう方向にも向かうらしい。一つ勉強になったとしても、できれば身をもって経験はしたくなかったかもしれない。どうにかこうにか笑顔を浮かべて見せたが、シュレンの表情は固いものだった。

果たして自分は、彼の想いを前にどうしてやればいいのかと途方に暮れそうになる。とは言え承諾してしまったのは自分なのだから、後には引けない。昔弟子から言われた「お師匠は人間に甘いのです」なんて言葉が、シュレンの中でふと蘇った。べつに甘いわけではないのだけれど、と想像上の弟子に言い返しておく。

先程から撫でられたり握られたりしている左手がくすぐったくて、シュレンの瞳はそちらに向いたり、テーブルの方へいってみたりと忙しない。動揺なんて表に出さない彼女の貴重な姿に、リオセスリの口もとはご満悦気味に弧を描いた。


「それで、確認はそれだけか?他にもあるなら答えるが」

「ああ……そうだね、なら、あと三つだけ。素直に思ったことを言ってくれたらいいよ」


気を取り直すように軽く咳払いをしたシュレンは、弄られている左手はそのままに、どこか真剣な面持ちでリオセスリを見据えた。


「君は、不老不死には興味があるかい?」


次はどんな質問が飛び出してくるのかと待ち構えていたリオセスリは、突拍子もないその発言に眉を寄せた。

不老不死、とはこれまた大層なものだ。読んで字の如く、老いもしなければ死にもしないことを指す。それに興味はあるかどうかで果たして何が確認できるのかてんで予想がつかないが、リオセスリはとりあえず真剣に考えて、首を横に振った。


「なりたいとは思わない、と?不老不死になれば、わたしと同じく何百年、何千年と生きていけるのに?」

「あんたと同じ時を過ごせる、ってのは嬉しいが……その前に、退屈過ぎて精神が死ぬんじゃないかと思ってね。元々短命な存在が、有り余るほどの命の長さに耐えられると思うほど、俺は自惚れちゃあいない」


自分一人だけが変わらないままと言うのは、言い換えれば取り残されているだけだ。成長し、老いていくことは悪ではなく、人間としての本来の在り方でしかない。何より、終わりがあるから、人は日々を過ごせるのだ。


「それに、シュレンさんだって死なないわけじゃないだろ」

「……その通り。魔神にも死はある。それがあまりにも、遠方にあるだけのことさ。でなければ、初代水神や現水神なんて言い方はしなくていいんだからね」


リオセスリの返答に少し考え込むように黙ったシュレンは、十数秒ほど経ってから、次の質問をしようか、と顔を上げた。


「万病に効く薬には、興味があるかな?」

「これはまた、夢のような代物が出てきたな」


茶化すようにこぼすと、リオセスリは少しだけ考える素振りを見せてから、首を横に振った。シュレンが理由を尋ねると、なんてことないように、怪しすぎると返す。


「そんなものがあれば、救われる命は多くあるだろう。だが、材料は?作り方は?果たしてそれは全ての病人のもとに行き届くのか甚だ疑問だな。大方暴動が起きて、ヌヴィレットさんや俺の仕事が増えるだけなのが目に見えてる」

「現実的だね。もしも、で考えてもいいだろうに」

「甘い話にはつい疑ってかかっちまう性分でね」


なるほど。小さく笑いをこぼした彼女は、一瞬だけ視線を下げてから、リオセスリに最後の質問を投げかけた。


「君は、魔神と同等の力を得られるとしたら、それを欲する?」

「必要ない」


前二つの質問の時とは違い、リオセスリは考える素振りも見せずに即答した。シュレンは目をまん丸にしたが、すぐにその理由を尋ねた。


「それは、人の身には余るものだろう」


至極当然のように、当たり前のように、彼は返した。シュレンはしばし呆然としていたが、眉を八の字にして、困ったように笑った。それが果たして喜んでいるのか、悲しんでいるのか、リオセスリには読み取れなかった。


「時間を取ってくれてありがとう。わたしが確認したかったことは以上だよ」

「そうかい。俺はあんたの望む答えを返せたか?」

「とても素晴らしい答えだった。それだけ言っておくよ」


再度お礼を告げたシュレンは、恐る恐る左手を離そうとする。それは存外あっさりとリオセスリの手から抜けることができたので、彼女が拍子抜けしつつ安堵したのも束の間。肩を引き寄せられたと思うと、伸びてきた指がブラウスの一番上のボタンを外し、襟を引っかけた。

突然のこととあまりの手慣れた動作に、シュレンは一瞬理解が遅れた。だが、鎖骨をなぞる指先の感触に、無意識に掠れた声を漏らしてしまい、すぐさまリオセスリの手を掴んだ。これは流石に、たとえ恋人という間柄であっても、文句の一つや二つは言っても良いのでは。そう思って顔を上げたシュレンだが、いざ口を開くと、果たして何を言えばいいのかがわからなくて、結局「なに……?」というどうにも威勢のない言葉しか出てこなかった。


「今日はつけてくれてないんだな」


何のことを言っているのかと言おうとしたが、すぐにリオセスリが指しているものを理解したシュレンは、ああ、と気の抜けたような返事をする。


「わたしにも、恥じらいはある……あんなことを言われた手前、君から貰ったものを、素知らぬ顔で身につけられるほどの図太さ、わたしは持ち合わせてないよ……」


あのネックレスは、シュレンを捕まえるためにリオセスリが仕掛けた罠でもあったが、それと同時に彼からのアプローチの一つでもあった。それを知ってしまった以上、何でもないようなフリをして己の首につけれようものか。掴んでいた手を弱々しく離し、薄らと頬を染めたシュレンは、恥ずかしさを隠すように眉を寄せてボソボソと言い返した。

このヒトは、たかがこれくらいのことでこうも初心な反応をするのか。リオセスリは少し呆気に取られたが、同時に確信もした。彼女はこういった、甘やかな熱を帯びたふれあいに慣れていないのだと。ゾクゾクと体中を駆け巡った高揚感に、リオセスリは堪らず喉を鳴らしそうになった。それをどうにかとどめて、シュレンの髪をはらいながら頬を撫でれば、身を強張らせて無防備にも目を瞑るものだから、我慢の糸がつい緩んでしまった。

頬へ添えていた手を顎に移動させて、ほんの少し力を込めれば、シュレンの顔は簡単に上を向いた。キュッと結ばれた唇に己のそれで躊躇いなく触れると、んんっ、と驚いた声が隙間からこぼれ落ちる。僅かに感じた紅茶の風味は、リオセスリが好むものよりは甘さが控えめだった。

押し返そうと肩に置かれた手は、とても弱々しい。このまま体重をかけて押し倒すことも、きっと難しいことではない。けれどあんまりやりすぎてしまうと流石のシュレンも怒りそうなので、リオセスリは大人しく押し返されてやった。

ぱちりと瞼を上げた瞳は、いつもよりもずっと大きく見開いてリオセスリを見ている。ワナワナと震えて見えるのは、彼の錯覚ではない。熱でも出ているのではと思うくらい肌を真っ赤に染め上げて口をぱくぱくとさせる姿は、なんだか金魚のようだ。


「……か、帰る」


混乱する頭で彼女が捻り出した言葉は、そんな短いものだった。まだたっぷりと残っている紅茶を、些か品がないとは思いつつも、シュレンは一気に飲み干した。リオセスリはそれを横で見つめながら、おかしそうに笑っている。

ティーカップを置いて再度お礼を伝えた彼女は、早くこの部屋から出たかったので、早々に立ち上がった。だが一緒に立ち上がったリオセスリが送っていくと言いだすので、シュレンはいつものように必要ないと遠慮を示した。普段ならば彼は素直に身を引いてくれるのだが、しかし今回は頑なに送っていくと聞かない。


「君にも仕事があるんだし、わたしも今日はシグウィン殿のところには寄らずに、そのまま帰るつもりなんだ。だからわざわざ、見送りなんてしてもらわなくても……」

「こんな可愛い顔した恋人を一人で帰らせるのが嫌なだけさ。せめて牽制くらいはさせてほしいんだが」


シュレンは、絶句してしまった。自分は今どんな顔をしているのかと鏡で確認したくなったが、残念ながらこの場に鏡はない。情けない姿を見せてしまったという自覚もある分、居た堪れなかった。


「それと、前は閉めておいてくれ。他の奴らにもあんたの肌を見られたらなんて、考えただけでも嫉妬でおかしくなりそうだ」

「これは、そもそも君が……それに、なんかもう、だいぶ……」

「ん?」

「いや、なんでもない……」


これまでの神生の中で体験したことのない恐怖感に、シュレンは身を震わせた。手を出してはいけないものに触れたような感覚だ。決して、シュレンが自ら触れにいったわけではなく、向こうが彼女を引きずり込んだのだけど。

人間の求愛行動は、果たしてこういうものだっただろうか。いいや、単にリオセスリが些か異質なのだ。ここまでのモノを向けられた記憶、シュレンにはないのだから。


「……せめて、少し離れて歩いてもらっても?なんと言うか、わざわざ逢引きしに来たと思われたら、わたしは今後、どんな顔でここに来たらいいのか……」

「その認識に何の誤解もないと思うんだがねえ」


とりあえず、家での紅茶はしばらく控えようとシュレンは決意した。せめて他の場所でくらい、リオセスリの痕跡に悩まされたくはないのだ。