- ナノ -

ぎこちないエスコートもご愛嬌

どれだけ日々を仕事で忙殺されていたとしても、必ず休日というものは訪れる。それはフォンテーヌ内でも群を抜いて、人よりも頭一つ分どころか五つも六つも抜けて忙しいと言っても過言ではないだろうヌヴィレットにも訪れるものだ。


「さて、ヌヴィレット。珍しいことに、今日はわたしと君が揃って休みだね」

「ああ」

「いいかい、休日とは読んで字の如くだよ。多忙で死ぬこともあるのだから、心身を休めるというのは生きる上でも欠かせないことなわけだ」

「そうだな」


シュレンが用意した軽めの朝食を終え、食器も片付けたことでテーブルの上には何もない。お互いの定位置は決まっており、二人はいつも向かい合って食事をとる。当然ながら今日もそのようにして座っていたのだから、ヌヴィレットの正面にはシュレンが、シュレンの正面にはヌヴィレットがいる。

理屈じみた前置きに真面目に相槌を打つ彼を視界に捉えながら、シュレンは理解できているなら話は早い、と立ち上がった。


「今日は外に行こう。幸いにも空は晴天、いかにも散歩日和だしね」

「それはかまわないが、何故先程の話から外出に?」


不思議そうに尋ねる彼は、実際、シュレンの発言の関連性に対して本当に疑問に思っているのだが、それが周囲には伝わりづらい。何故そうなったのか、という疑問や謎を彼に問われると、どうにも他の者からすると、責められているのではと感じてしまう。それはヌヴィレットの顔の筋肉があまり働かないことや、淡々とした口調、そして最高審判官という肩書きも関係しているだろう。

それでも、昔に比べれば彼の声音は随分と感情を乗せることができるようになっているのだが、その「昔」が数十年単位ではなく数百年単位であるため、周囲が変化に気付けないのもしかたがないことだった。

その点シュレンは、今よりも声音が機械染みていた頃の彼を知っているし、その性格も多少人より理解している。今尋ねられたことがただ純粋な疑問であると、シュレンはしっかり察していた。


「フォンテーヌに住んでいる者なら、君がいかに多忙を極めているかを皆知っている。だからこそ、みんな君を心配しているんだよ」

「心配?何故皆が私を心配する必要がある」

「君が働きすぎだからさ。さっきも言ったけれど、多忙で死ぬというのは起こりうることだ。肉体的にも精神的にもね。わたしも君も、そりゃあ人より頑丈さ。強度が違う。だけど、だからと言って限界がない、なんてことはない」


ここまでは理解できたかい?そう尋ねればヌヴィレットは一つ頷いたので、シュレンは話を続けた。


「みんなはね、君が倒れたりしないか、身体を壊したりしないかって心配なんだよ。働き詰めで、睡眠や食事も疎かにしがちだからね。シグウィン殿にも、会う度君のことを聞かれるよ」


シュレンはリオセスリとのお茶会のために足を運んだ際、よくシグウィン――メロピデ要塞にて看護師長を務めているメリュジーヌだ――にも会いにいっている。そうして軽く話をするのだが、シグウィンは必ずヌヴィレットのことを尋ねた。彼女は要塞勤め故に早々地上へは行けないし、ヌヴィレットも滅多に要塞を訪れない。そのため、シュレンが彼の状態をシグウィンへと報告している。

他にも、メリュジーヌたちや職員たちのヌヴィレットを心配する声は、シュレンの耳にしっかりと入っていた。時には休みを返上したり、自宅で行える業務を行ったりしている姿を見るたびに、「休む」ということを知らないのかと叱った方がいいのかもしれない、なんて彼女が考えることもあった。


「彼らの心配や不安を払拭させるためにも、今日は仕事なんて一切関係なく、ただ休日を過ごしているだけの姿を見せる、というわけさ」


公務以外であまり外を出歩かない、基出歩く時間のない彼が散歩などしていれば、当然目を惹くだろう。ほとんどの者は公務なのではと考えるはずだ。しかしそうではなく、あくまでプライベートであるのだと見せてしまえば、彼にもしっかり「休日」というものは存在するのだと――そもそも働いているのであればそれは当然の権利であるのだが――思うのではないか。

これがシュレンの考えだった。話を聞き終えたヌヴィレットは顎に手を置いてしばし黙りこくったが、納得したように頷き返した。


「なるほど。私としても、皆に不必要な不安を抱いてほしくない。それで解消されるのであれば、君の言うとおりにしよう」

「理解してもらえたのならよかった。じゃあ、まずは着替えよう。ほら、おいでヌヴィレット。わたしが服を選んであげよう」


ヌヴィレットは、自身に手招きしてリビングを出ていったシュレンに素直についていった。了承を得ずに自身の私室に入っていくことを特に咎めはせず。タンスからあれこれ服を取り出して吟味しているシュレンの様子を、ヌヴィレットは黙って見ていた。

とは言え、ヌヴィレットの持つ服はほとんどが仕事用だ。似たようなものがタンスの中身を占めている。彼自身普段の格好には不便を感じているのだが、威厳を保つためとは本人談である。しかし今回はプライベートを主張するのだから、公務中のような服では意味がないと、シュレンは以前自分が選んでやった、ヌヴィレットにしてはラフめな服を引っ張り出して、彼に渡した。


「わたしはリビングで待っているから、着替えておいで」


そう伝えて、彼女は部屋を出ていった。

十分と少しもすれば、ヌヴィレットはリビングへ戻ってきた。深い青のシャツにグレーのベストと黒のシンプルなコートを重ね、下は普段も着ているトラウザーズ。首もとにはリボンタイをつけさせた。かっちりした印象はあるものの、普段仕事の際に着ているものに比べれば、比較的堅苦しくさはないだろう。

彼女は満足げに笑みを見せてまた手招きをすると、イスに座るよう促した。


「髪を結んであげるよ」


背もたれを軽く指先で叩かれ、ヌヴィレットは彼女の前に腰掛けた。彼が着替えている間に用意していた櫛で長い髪をといてやりながら引き寄せて、いつも彼が使用している黒のリボンでポニーテールに結んだ。


「はい、できあがり。うん、中々似合っているよ」

「そうか。感謝する」

「どういたしまして。さて、準備もできたことだし、そろそろ出ようか」


軽い足取りで玄関へ行った彼女の後ろに続いて、ヌヴィレットは履き慣れた靴に足を通す。ドアを開けようとするシュレンより先にドアノブへ手を伸ばした彼は、それを捻って扉を押して、彼女を先に通した。少しだけ瞳を瞬かせたシュレンだったが、おかしそうに笑ってお礼を伝え、玄関を出ていった。

街中を出歩けば、周囲からの視線が二人へ注がれる。特にヌヴィレットの姿に道行く人は振り返ったり、驚いたりとシュレンにとっては予想通りの反応を見せた。時には頬を染める貴婦人もいたが、当の本人は気にしていない、と言うよりも視線に気付いてはいるものの、それがどういった類いかを深く理解はしてないようだった。


「まずは服を見に行こう」

「わかった」


すれ違う人やメリュジーヌたちに挨拶も交わしたりなんてしながら、ヌヴィレットを連れて彼女が訪れたのは、リヨンエリアにあるアパレルショップ「千織屋」だった。

千織屋は店名にもなっているアパレルデザイナーの千織が運営しており、彼女の手掛ける数々のデザインは、フォンテーヌの流行の発信源にもなるほどだ。取り扱いもレディースからメンズ、果ては子ども用にオーダメイドも可能と幅広い。他の同性に比べて背が高く、また胸囲もあるシュレンは、時に服のサイズがないということがある。それもあって彼女は服を買う時には、まずここへと足を運んでいた。


「こんにちは、エローフェさん」

「シュレンさん、それにヌヴィレット様も……!」


目を丸くさせたエローフェは、少しだけ慌てながらも笑顔で挨拶を返した。


「本日は、お仕事がお休みで?」

「ご名答。せっかくお互いに休日だから、彼を連れ回してるんだ。それで、まずはここで服を見ようかと思ってね」

「そうでしたか。でしたら、ちょうど新しいデザインが出たばかりなんです。シュレンさんの好みにも合うかと」

「それは興味があるけれど……また後日にしようかな。今日は彼の服を見に来たんだ」


一歩ほど後ろに控えているヌヴィレットの方を手で示し、シュレンは店の中へ入っていった。ヌヴィレットはエローフェに会釈をして、シュレンの後ろをついていく。

中は当然のことながら、様々な色や異なるデザインの衣類や装飾品が並んでいる。どれもこだわりぬかれた一品であり、ファッションに興味がある者や、オシャレや流行に敏感な者ならば、ここで長い時間を潰せることだろう。普段アパレルショップにそこまで縁のないヌヴィレットにとっては、見慣れない、どこか未知にも似たこの空間は、少しばかり興味深さを感じさせた。

レディース用の衣服が立ち並ぶ中をすいすいと抜けていったシュレンは、メンズ用エリアで振り返り、マネキンをまじまじ眺めているヌヴィレットを呼ぶ。彼はすぐにそちらを向いて、彼女のもとへ歩み寄った。


「さて、どれにするかな……君、色の好みは?」

「強いて挙げるならば、寒色だろうか」

「確かに、君はそういう系統が似合う。ああ、これとかいいかも」


手に取った服を体にあてられながら、ヌヴィレットは少し顔を下げる。シンプルな黒のベストに、薄らとストライプの柄が入っているのが見えた。それを戻したシュレンは、今度は隣にあった青のベストを手に取り、また同じようにヌヴィレットの体にあてる。

どちらも色が異なるだけで、柄や大きさ、形は同じものだが、シュレンは青のベストはお気に召さなかったようで、少し眉を寄せてからもとの場所に戻した。


「これは黒の方がいいね、こっちにしよう。次は……ああ、アウターにしようか」


目当てのものを探しているのだろう視線をあちらこちらへと飛ばしていたシュレンだったが、思い出したようにヌヴィレットの方を見て、欲しいものがあれば言うんだよ、と伝えて今度はアウター類を見に行く。それについていきながら、彼は並んだ商品の方へと目を向けてみた。

欲しいもの、と言われてピンとくるものが、正直な話ヌヴィレットにはなかった。目を惹くデザインや色彩はあれど、ではそれが欲しいのかと聞かれると、頷くには少し違う。丹精の込められた素晴らしいものだとも思う。けれど自身が着るよりは、もっと似合う者がいるだろうと考えてしまうし、こうして見ているだけで充分とも感じてしまう。そもそも自身を着飾る、という考えが彼の中にはなかった。


「私は衣類や装飾品についての知識が人より疎いと自覚している。だから、君に任せよう」


ブラウンのトレンチコートを見ていたシュレンは、顔だけ振り返ってヌヴィレットを見つめると、元々そういった返答がくると察していたのだろう。すんなりわかったと返すと、そばにあるジャケットの方へ視線を移した。


「君はコートが似合うけど、ジャケットもいいかもしれないね。少し印象も変わりそうだ」

「そうだろうか」

「服装が与える印象は存外大きいものだと、君も多少は理解しているだろう?たとえば色であれば、赤やオレンジだと華やかに、黒なんかはシック、緑なんかは穏やかな印象を与えると思うよ。ただまあ、当人に似合う似合わないという部分もあるからね。君で言うなら、暖色よりも寒色の方が似合う」


ワンポイントで入れるのはアリだと思うけどね。そう付け加えて、彼女は紺色のジャケットの裏地を確認しはじめた。彼女の話になるほどと納得しながら、ヌヴィレットはシュレンが服を選ぶ姿を見つめる。

時々聞かれることに答えている間に、彼女が腕に持つ衣類が一着、また一着と増えていく。カラーパンツは一着くらいあった方がいい、などと言うシュレンによくわからないまま頷いて、彼女が白のパンツを手に取って、それでようやく会計へと向かった。

商品を一着一着確認してもらっているなか、シュレンが財布を取り出したのを見て、ヌヴィレットは待ったをかけた。


「これは私の服だろう。ならば、私が支払うべきなのでは?」

「確かにこれらは君の服だけど、わたしから君へ贈るものなんだ。だから支払うのはわたしで問題ないよ」


いや、しかし。そう渋るヌヴィレットを無視して、シュレンはおつりのないよう金額ピッタリを払うので、彼は腑に落ちないながらもおずおずと感謝の言葉をこぼした。


「ありがとうございました。またお越しください」

「こちらこそありがとう。今度はわたしの服を買いに来るよ」


差し出された紙袋は、ヌヴィレットがサッと受け取った。シュレンが行き場のない手をそのままに彼を見やれば、普段通りの真面目な顔でシュレンを見つめ返した。


「荷物くらいは、私に持たせてくれ」


伝えられた言葉に、彼女は小さく笑い声を漏らす。彼女には、ほんの少しだけ、ヌヴィレットが拗ねている風に見えた。先程のことにあまり納得していないのだろうが、シュレンの言葉も一理ある分、抗議するのも違う。大方そんなことを考えているのだろうと予想しながら、シュレンは素直に彼の厚意に甘えておいた。

千織屋を出た二人は、今度はその先にある雑貨屋を訪れた。シュレンがティーセットを見たいと言ったのだ。


「ほら、この間リオセスリ君から茶葉を貰っただろう?わたしも君も普段飲むのは水だから、紅茶用のティーセットなんて持っていないし、この機会に買おうと思ってね」

「なるほど。しかし、家にあるグラスでも問題ないと思うが」

「気分の問題さ。確かにどの食器を使っても味に大きな変化はないかもしれないけれど、食事において、食器というのは大事な要素の一つなんだよ」


つらつらと説明しながら、彼女は食器の置いてある棚まで向かう。食器の専門店ではないため種類はそう多くなく、需要があるのか可愛らしいデザインが高い割合を占めていた。

食器類へのこだわりは二人とも強くないが、シュレンの方が気を配っているだろう。もとよりヌヴィレットはその辺りへの関心は薄い、基あまりよくわかっていない。客人相手やレストラン等飲食を提供する店ならばともかく、自分で使う分には食器を変えても味に変化はないのだから、と言うのはそれはその通りであるが、視覚的な情報というのは大きなものだ。生命活動の一環も、義務的にやるよりは楽しい方がいい、というのがシュレンの意見である。


「君はどれがいいとかある?」

「いや、特にない」

「ならわたしが好きに選ぶよ」


並んでいるティーカップやティーポットを順にゆっくりと眺めるシュレンは、手に取って隅々まで確認すると、右から三番目に置かれていた、白い陶器に花の柄の入ったティーセットを選んだ。

会計時、シュレンが支払おうとするのを、ヌヴィレットはまたも待ったをかけて止めた。


「シュレン。これは私と君とが使用する、という認識で合っているだろうか」

「合ってるよ」

「ならば、私も支払うべきだと思うのだが」


ぱちくりと瞳を瞬かせたシュレンは、なるほどと笑みをこぼした。


「確かに、それは一理ある。では折半、というのでどうかな?」

「かまわない」


互いに納得して会計を終えると、今回も荷物はヌヴィレットが受け取った。シュレンはそれを一瞥したもののお礼だけ伝えて、雑貨屋を後にした。

千織屋でそれなりに時間を使ったこともあり、時刻は昼へと差し掛かっていた。そのため少し休憩しようと言うシュレンの提案で、ヴァザーリ回廊にあるカフェ・ルツェルンへと向かった。


「こんにちは店主さん」

「いらっしゃいませ。これはまた、お二方で来られるのは珍しいですね。お忍びですか?」

「そうしてもよかったんだけど、家を出てすぐに失敗に終わってしまうだろうからやめたよ」


軽い冗談も交えながらアルエと軽く話をしていたシュレンが空いたテーブルがあるかを尋ねれば、彼はすぐに頷いて、手の空いている店員に声をかけた。すぐにかわいらしい女性の店員が駆け寄って来て、二人を一番奥のテーブルへ案内してくれた。

お礼を伝えて座ろうとしたシュレンだったが、ヌヴィレットが彼女へとイスを引いてくれたのを見て、またおかしそうに笑った。

荷物をイスに置かせてもらい、ヌヴィレットはシュレンの向かいへと腰掛けた。それを見計らって、シュレンは彼へメニューを差し出す。


「何か気になる料理はある?一応先に伝えておくと、これとこれ、あとこっちもだね。それらは君の苦手な系統の料理だからやめておいた方がいい」

「そうか。教えてくれて感謝する」


少し身を乗り出して該当する料理を指差して教えてあげると、シュレンは座りなおしてもう一枚置かれていたメニューを開いた。

普段、ヌヴィレットとシュレンの休みが重なるというのはほとんどない。彼がいない時は補佐であるシュレンが、代わりに仕事を捌いている。もちろんヌヴィレットにしかできない業務もあるため、彼女でも行える範囲でだ。だが今日は本当に珍しく、二人の休みが重り、それもあってか朝食はいつもよりも遅かった。そのため空腹感はそうひどくはないのを踏まえて、シュレンはオニオンスープとバゲットに決めた。

メニューから視線を上げた彼女が向かいにいるヌヴィレットを見ていれば、ぱちりと視線が合ったので、彼女はメニューを閉じた。


「決まったかな?」

「ああ」


彼の返答を受けて、シュレンは軽く手を上げ、一番近くにいた店員を呼ぶ。すぐに駆けてきた青年が制服のポケットに入れているペンと注文伝票とを取り出したのを確認して、シュレンは自分の分を伝えた。ヌヴィレットがいることに些か緊張しているのか、文字を書く手がどこかぎこちない。それに気付いたシュレンが緊張しなくていいと伝えてやると、青年は少しだけ恥ずかしそうに笑った。


「君は?」

「私はコンソメスープを頼む」

「それだけ?」

「ああ」


そう。短く返したシュレンは以上だと伝え、確認のため繰り返された注文に間違いはないと頷いた。

青年が伝票を持っていってすぐ、二人をテーブルへと案内してくれた女性の店員が水を持ってきてくれた。シュレンがそれを一口飲めば、まろやかな味が舌に触れた。コーヒーを売りにしているというのもあって、水にもこだわっているのだろう。つい頬を緩めてしまいながら、シュレンはグラスを置いた。


「この後の予定は決めているのか?」

「リオセスリ君に茶葉のお礼をしたいから、何かお茶菓子でも買おうかと思ってるよ」

「彼は紅茶が好きだろう。茶葉の方が喜ばれると思うのだが」

「好きだからこそ、だよ。彼の好みは知らないし、下手なものを贈っては却って迷惑になりかねない。それなら紅茶に合いそうなお菓子の方が無難さ」

「なるほど。確かにその通りかもしれない」


カフェの通りにあるケーキ屋には、焼き菓子も置いており、中には紅茶味のクッキーもあると教えてくれたのは、フォンテーヌの水神であるフリーナだ。紅茶を飲むのに紅茶味のクッキーというのはくどくはないのかと考えないでもないが、それを買うと決めているわけでもない。ひとまず物を見て、リオセスリのところで飲んだ紅茶の味を思い出しながら、合いそうなものを選ぶつもりであった。

シグウィンから貰った化粧水が肌に合うので購入を考えている、マレショーセ・ファントムの新人がなんとも元気でやる気に溢れていた、最近歌劇場で行われた舞台が好評らしい。とりとめのない話をするシュレンに、ヌヴィレットは随一相槌を打った。周囲から見るとシュレンが一方的に話しているだけの図ではあるが、ヌヴィレットは決して聞き流しているわけではないと彼女は知っている。

そもそもこの二人は、いつもこうなのだ。主に話をするのはシュレンの方で、ヌヴィレットはそれを相槌を打ちながら聞いている。彼女がヌヴィレットに話を振ればそれに答えて、逆にヌヴィレットが疑問を尋ねれば彼女が教えてくれる。それが二人の会話で、コミュニケーションである。

ヌヴィレットは雑談や世間話というものが得意ではない。人との交流というものが、公務以外では滅多にないのだ。そのため、彼としてはシュレンが様々話をしてくれるのはありがたいことで、また雑談のやり方――雑談にそもそもやり方も何もないが――を学べる機会でもある。

舞台女優の熱愛報道で世間は賑わっている、という話をしていれば、注文していた料理が二人のもとへ届けられた。テーブルに置かれた品々を目にすると、一層お腹が減っていくようで、シュレンはスプーンを手に取った。できたてなことあり、スープには湯気がたっている。そのため熱を逃すように軽くかき混ぜてから、浸されているバゲットを掬う。

彼女はヌヴィレットほど、水分が飛んだ、または水分を吸ってしまうような食べ物が嫌いではない。頻繁に食べようとは思わないし、好んで選ぶこともあまりないが、バゲットはスープに浸して食べれるので存外好んでいる。

本来ならばカリッとした食感も、スープの中に入れられていたため、ふにゃふにゃどころかどろっと溶けているような状態だ。シュレンとしてはそちらの方が好みなので、一つ食べては新しいバゲットを沈め、を繰り返した。













充分にお腹も満たされた二人は、今回は自分が頼んだ分のみを支払って、ルツェルンを出た。そのままケーキ屋に直行しようとしていたが、ふとシュレンが足を止めたので、ヌヴィレットも合わせて立ち止まった。

じっと何かを見ている彼女の視線を追いかけた先。ガラスを隔てた向こうには、アクセサリーが並んでいた。


「シュレン、気になるのか?」

「うん?ああ……ちょっとだけね。そういえば、こっちに来てからはつけてないなと思って」


そう言いながら、彼女は耳たぶに触れた。そこは何も飾られていないし、傷だってない。


「……見てみたらどうだ」

「え?いいよ、べつに。今更またつけはじめてもね」

「今更、など深く気にすることでもないだろう。またつけてみようと思った。理由はそれで充分なはずだが」


瞳を丸くしてヌヴィレットを振り返ったシュレンは、確かにと眉を下げて笑った。これについては彼の方が正しいため、シュレンには言い返す言葉もない。


「もう一度聞くが、見てみたらどうだ」

「……そうだね。何か気にいるものがあるかもしれないし、寄っていい?」

「かまわない」


店内へ入れば、ネックレスやブレスレット、指輪といった類いのアクセサリー以外にも、ヘアリボンやカチューシャ、リボンタイにブローチなどの装飾品も置かれていた。少しそちらへ目移りしそうになりながらも、シュレンは目当てであるピアスが並ぶ棚へ向かった。

べつにシュレンは、アクセサリーを特別好んでいたわけではない。けれど手のひらサイズのそれらがキラキラと、チカチカと、微々たるものでありながらも輝く様は、綺麗だと素直に思っていた。ネックレスなんかは海の中ではふわりと浮いて靡くから、それがまるで踊っているかのようにも見え、海洋生物たちと楽しんだりもした。

中でもピアスは、アクセサリーの中では一番好きだっただろう。理由なんて単純だ。ただ、種類が多いから。形や大きさ、デザイン性が豊富で、つけずに眺めるだけでも楽しめた。揺れる飾りが気になってつつきに来る小魚たちもかわいかったものだと、シュレンは思い出してつい笑みをこぼした。

ピアスをやめた理由も、特に深い何かがあるわけではない。フォンテーヌに来る前につけていたものは壊れてしまったから、そのままにしていただけだ。今更また買っても、と思っていたけれど、ヌヴィレットの言う通り「今更」など深く気にすることではない。

あまり大きすぎては耳が重たいし、仕事中にもつけておくとするならば、派手すぎるものも控えた方がいいだろう。早々ないとは思うが、何かに引っかかったりしても困る。シンプルで、小さめがいい。

デザインをよく見ようと時々手に取りながら、どれにするかと吟味していたシュレンは、ふとヌヴィレットを振り返った。


「そうだ、君はどれがいいと思う?」

「君がつけるものなのだから、私の意見はあまり意味をなさないのではないかと思うのだが……」

「そんなことはないさ。どういうのが合いそう、とか教えてくれたらいいよ。それを踏まえて絞るから」

「ふむ……」


棚へと近付いたヌヴィレットは、吟味するように、それぞれをじっくりと眺める。彼が真面目に選んでいるその隣で、シュレンは魚の形をしたピアスを見つけて、こういうタイプもあるのかとひっそりと感嘆していた。つけるつけないは別として、買ってもいいかもしれない。わりと本気で悩んでいるところ、ヌヴィレットがシュレンの名前を呼んだ。


「私に合いそうなものは決まった?」

「いや、様々考えてみたが、選べなかった」

「そうなの?真面目に悩まなくても、直感でよかったんだけどね」


なら自分で決めるよ。シュレンはそう言おうとしたが、口を開けたものの言葉は出てこなかった。


「君は、きっとどれも似合うだろう。だが、それでは選択肢が絞られない。そのため一つ意見を言うとすれば、抽象的で申し訳ないのだが、このような、海の色をしたものは特に似合いそうだ」


言いかけた言葉がすっかり喉を下がって、シュレンはぽかんと口を開けた形になってしまった。至極真面目な顔で伝えられたことを頭の中で咀嚼し、理解するのに数秒ほど使用する、そうして彼が指し示したものを一瞥し、楽しそうに笑い声を上げた。


「ヌヴィレット、君はそんな気の利いたことが言えるようになったんだね……ああいや、わかってるよ。お世辞じゃなくて本心だと。けど、ふふっ、まさか君からそういう言葉が出てくるとは、正直思っていなかったよ。いや、むしろ真面目な君だからこそ言えるのかな」


今日一日の、ヌヴィレットのことを思い出す。先にドアを開ける、相手のイスを引いてあげる。それらは随分前にシュレンがヌヴィレットに話したことのある内容で、且つ、普段、仕事の時なんかは特に、彼女がヌヴィレットにしていることでもあった。

礼儀作法やマナーの一環として教えたわけではない。一種の気遣いであると。些細なことではあるが、良い印象を持ってもらう一つの理由にもなるだろうと。けれど必ずしなければならないものでもないので、するもしないも自由だと。そんな話をした記憶が、シュレンにはあった。

これをたとえるのなら、子の成長に感慨深さを覚える母親の気持ち、というのが一番しっくりくる。ヌヴィレットはシュレンにとって、少し世話の焼ける息子なのだ。


「では、君が選んでくれたそれにしよう」


彼女はヌヴィレットが「これ」と提案してくれたものを手に取った。もし何かの隙間にでも落としたら探すのが大変そうなサイズのそれには、深い深い青の鉱石がついている。海面ではなく、うなぞこの色をしていた。

シュレンは少しご機嫌な様子でピアスを手のひらの上で軽く転がしていた。するとヌヴィレットの手が伸びてきて、それを攫っていったので、彼女は不思議そうに隣を向いた。


「シュレン。それは私が支払おう」

「うん?これはわたしがつけるものだから、君がお金を出す必要はないだろう?」

「では言い方を変えよう。私から君への、贈り物とさせてくれ」


なるほど。そう言われてしまうと、シュレンは断りづらかった。


「君は何かと私に、服や菓子類、安眠用の道具などを様々くれるだろう。そのお返し、としては足りないかもしれないが、貰ってばかりでは私としても申し訳ない。だから、これは私から贈らせてほしい」

「……いいよ、わかった。君の言葉に甘えるとするよ」


彼女の返答に、ほんの少しだけ、ヌヴィレットの口角が上がった。とてもわかりづらい微々たる変化だが、長いこと共に過ごせば小さな変化もすぐに気がつく。表情に出るとは珍しい。そんなことを思いながら、嬉しそうにも見えるヌヴィレットの背についていき、小さく笑い声をこぼした。