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舌に馴染んでしまえと込めて

メロピデ要塞は海中に建てられているが、一面硬い壁に覆われているため、あまり海を感じられることはない。当然ながら日光は届かず、地上とは異なる神秘的な青き世界を目にすることもできない。それが些か残念だと、シュレンは要塞に訪れるたび思っているが、流石に要塞内でわざわざそんなことを言うほど嫌味な性格はしていないと自負している。そのため、口にすることはしなかった。

フォンテーヌの最高審判官ヌヴィレットの補佐。それがシュレンの役職である。否、元々は共律庭の一職員であった。だが彼女は、働き詰めで自身のことを疎かにしがちなヌヴィレットに、臆することも控えめになることもなく、ハッキリ堂々と休息を促したり、苦言を呈することができる人物だ。また、己が関われる範囲でヌヴィレットの仕事を手伝ったりと、彼の補佐のようなことをしていたら、いつの間にかそんな役職となっていた。

当初は断ろうとしていたシュレンだが、職員たちやメリュジーヌたちに懇願されては無碍にもできず、承諾してしまったのである。そのため今の彼女は紛れもなく、最高審判官の補佐だ。仕事はヌヴィレットの職務のサポートが主だが、手が空いたりヌヴィレット一人で事足りるものであれば、一般職員時代の仕事もしている。基本、ヌヴィレットは一人で仕事を捌いてしまう。彼女の仕事はタイミングを見て彼の仕事量を少し請け負って、負担を減らすことである。

こうしてメロピデ要塞へと訪れているのも、仕事の一環のようなものであった。多忙なヌヴィレットに代わって外部との交渉や話し合いをするのも、シュレンの仕事の内の一つだ。中でもメロピデ要塞は、ヌヴィレット自身が余程の事情がなければ行きたがらない。

有罪判定を受けた囚人たちは、皆メロピデ要塞へ収容される。最高審判官という立場である自分が無闇矢鱈に足を踏み入れる場所ではないとヌヴィレットは考えているのだ。それはなるほど一理ある。シュレンは彼の見解に納得し、メロピデ要塞へ赴く必要がある際は、可能な限り彼女が行くようにしている。

メロピデ要塞は囚人を収容する場所でもあり、またフォンテーヌ最大のクロックワーク・マシナリーを生産している場所でもある。そのためマシナリーの取引を行ったり、メロピデ要塞風に言うなら「水の上」からの人員派遣に関することや、収容された罪人の情報に関しての話を行うことが主だ。

とは言え、基本的にはそう頻繁に足を運ぶような場所ではない。だがシュレンは、月に二回はこの場を訪れることとなっている。その理由は、メロピデ要塞の管理者であるリオセスリという男にある。

以前から、彼女はリオセスリと「お茶会」と称してこういった取引の話や情報交換を行っていた。そう頻回ではない。余程の緊急性がない限りは、精々半年に一回あるかないかだ。

だが、先日彼女は私用でフォンテーヌを離れ、故郷である璃月へ行っていた。行き帰り含めて約十日ほどフォンテーヌを空けていたのだが、その期間にリオセスリとの「お茶会」の約束が入っていたのだ。

ヌヴィレットが詫びの手紙を代わりに書いてくれたが、彼女が約束を反故にしてしまったことに違いはない。そのためお詫びをすると彼女は伝えた。それに対してのリオセスリの返答が「ひと月に二回、共にお茶会をする」ことだった。彼女はそれくらいならばとその条件に承諾し、今日はその約束の日であった。


「相変わらず、君は紅茶を淹れるのが上手いね」

「それはそれは、お褒め頂き光栄だ」


彼の淹れる紅茶は、何度飲んでもその味には舌鼓を打つものだ。リオセスリの用意する茶葉がどれも、品質、味共に上質なものであると同時、彼自身の技術も素晴らしいのだと彼女は理解していた。


「わたしは基本、水を好んでいるのもあって紅茶を嗜む方ではないけれど、こういったものは淹れ方も味に関わると聞くよ。わたしでは、君ほど美味しい紅茶が淹れられないだろう」


ティーカップを置いて笑みを浮かべながら、シュレンは彼の腕を褒めた。


「生憎、俺には水の味こそ違いがさっぱりなんだが、好んでるメーカーはあるのか?」

「そうだね……璃月産は故郷なこともあって舌に馴染むよ。でも、特にどこが好きというのは正直なくてね。どこの水も、それぞれ良さがある。残念ながら、今のところヌヴィレット様以外からの同意は得られていないけれど」


このお茶会は、以前から行っていたものとは異なり、本当にただのお茶会と呼んでも差し支えないだろう。元々頻繁に取引やら仕事やらの話をしていなかったのだ。何かしらあれば書類で届くし、半年に一回の定期報告で充分であったのだから。そのためか、仕事の話題が出てくる雰囲気はない。彼との世間話自体は仕事の話が終わった後に少しばかり交えていたため、さして珍しいものではないが、彼と顔を合わせる時は大抵何かしらのやりとりがメインであったのも事実だ。

果たしてこの「お茶会」にどんな意図があるのか、シュレンは掴みあぐねていた。


「ヌヴィレットさんとは、随分好みが合うんだな」

「そうだね。飲食の好みに関しては、わたしと彼は似ていると思うよ。だから食事については揉めなくていい」

「その言い方から察するに、よく食事に行くんだな」

「行く、というと少し異なるかな。彼の食事は主にわたしが用意しているからね」

「…………は?」


思いの外低い声が返ってきたことに、シュレンは一瞬だけ目を丸くした。リオセスリの方も己の声音に気付いたのだろう、すぐに取り繕うように紅茶を飲んだ。


「つかぬことを聞くが……あんたら、デキてんのか?」

「その質問にはハッキリと否定をさせてもらおう。わたしは彼を好んでいるけれど、そこに男女の情のような意味合いはないよ。向こうも同様だろうさ」

「……そうかい」


シュレンは、細められた瞳に臆することなく見つめ返した。何せ己の言葉に一つとて嘘はない。

彼女はヌヴィレットと同居している。それは単に、シュレンにはフォンテーヌに家がないからだ。今なら給料でどこかしらの部屋を借りることができるだろう。しかし真面目にドがつくヌヴィレットには、健康面に些かの不安があった。それは寝不足であったり、不摂生であったりだ。たとえ自分が居候でなくなったとしても、ヌヴィレットの家に何度も訪れることになるのは目に見えていた。ならばこのまま一緒に暮らしていた方が手間がかからない。だから、未だに共に暮らしている。

そんな事実もあるせいか、パレ・メルモニアで働く職員の間でも、やれ恋人なのでは、夫婦なのではと事実無根な噂が飛び交っていたわけだが、シュレンはそれを知ったとき、それはもう大層笑った。お腹を抱え、しゃがみ込んでしばらく動けなくなるほど大笑いした。

見定めるような視線に、緊張する理由も焦る理由も、彼女にはない。そのため堂々と微笑んでみれば、リオセスリは僅かに眉を動かしてから、視線をそらした。


「そういう君こそ、好い仲の相手はいないのかい?」

「こんな水の下で、果たして出会いがあると思うか?仮にいたとして、逢引きもできまいよ」

「まったくのゼロとは言い切れないと思うよ。出会いなんて、存外どこにでも転がっているものさ」


確かに。肯定したリオセスリは、何か含みを感じさせるような笑みを浮かべると、シュレンをじっと見つめた。

彼女には、向かいにある両の眼の奥に、何かが渦巻いているように見えている。それは何も初めてではなく、時々、リオセスリからそんな瞳を向けられることがあった。

そこに悪意的なものはないが、しかし何故だか背筋が冷んやりとするような。かつて故郷にいた頃に受けた瞳の中に似たようなものがあったけれど、それに比べると不純物が混ざっている気がした。その点をつつくのは危険な気がして、彼女はとりあえず知らないフリを続けている。


「あんたの言う通り、出会いってのは探さずとも向こうからやってきてくれるだろうな」

「ああ、そのとおり。君にも何れ巡ってくるだろう」

「へぇ。たとえば、そうだな……溺れたところを助けてもらう、とか?」


返ってきた言葉に少し驚いたように目を丸くさせたシュレンは、軽く笑い声をこぼした。


「これは中々ロマンチックだね。公爵殿は、意外にもそういう部分にこだわりがあるのかな?」


少しからかい混じりに言えば、一瞬リオセスリは不満そうに眉を寄せたが、シュレンは指摘しなかった。向こうも特に言い返すことはせずに、どうだろうなと肩を竦めてみせるので、やはり触れなくて良いのだろうとシュレンは再認識した。











向かい側に置かれた空っぽのティーカップを見下ろしたリオセスリは、それに紅茶を注いだ。

つい数分前まで、彼の正面にはヌヴィレットの補佐を務めている女が座っていた。今日は二人きりでのお茶会の日だった。帰り際見送りをしようかと持ちかけたが、必要ないと断られたため、執務室には彼一人だ。

リオセスリには、脳に焼きついて離れない記憶がある。それは幼い頃の出来事だ。

彼は昔、溺れたことがある。それはまだ、十にも満たない年齢の頃だった。彼がかつて暮らしていた夫婦の家は、地下水路区域にあった。その日は外が豪雨だったこともあり、地下水路の水位が上がっており、それに伴って流れも速くなっていた。うっかりと足を滑らせてしまった彼は水路に落ちて、そのまま流されてしまったのだ。

普段ならば泳いで水面へ上がれたが、流れの速さからろくに泳げないまま、彼は海の方へと流されていった。呼吸を止め続けるのにも限界はある。口からごぼりと空気が溢れ出て、脳に酸素が回らず意識が朦朧としはじめた時。


「おや、こんばんは坊や。迷子かな?」


視界が霞みはじめたなか、穏やかで楽しそうな声が彼の耳にするりと入り込んできた思うと、柔らかなものにぶつかり、そうして、そっと抱きしめられた。


「はい、これで息ができるかな」


何かがリオセスリの顔を包むと、途端に酸素が肺に吸い込まれていく。激しく咳をこぼす自身の背を優しくトントンと叩かれて、撫でられて。呼吸が落ち着いて、朧げだった意識も持ち直すことができ、ようやっと顔を上げた彼は、金色に輝く瞳と目が合った。

それは、人の形をしていた。けれど、決して人ではなかった。髪から覗く耳は自分とは異なりヒレの形をしていた。両頬には線があり、それは傷口ではなくエラだった。両腕は自分と同じ形をしていたが、下半身はには、上半身よりも長い尾鰭があった。金色の瞳は自身を見つめてゆったりと細くなり、唇で弧を描いている。

人間ではなく、けれどもメリュジーヌとも違う存在に、リオセスリは言葉を失った。彼は、目の前のような種族を目にしたことはなかったのだ。


「ああ、どうか怖がらないでほしい。わたしは君を取って食おうなんて考えてはいないからね。お肉は好きだけど、人を食べようとは思ってないよ。それに、こう見えて草食なんだ」


存外友好的に言葉をかけてきた彼女は、リオセスリの顔をじっと見つめると、坊や、と微笑んだ。


「溺れたのが、わたしが泳いでいるときでよかったね。人間は、水中では無力な生き物だもの。君は水路の方から来たみたいだし、そこまで送ってあげるよ。ちゃんと掴まっているんだよ」


そう言って、彼女はリオセスリを抱きかかえたまま、水路を優雅に泳いでいく。流れの速さなど彼女には関係ないようで、見上げた先の彼女の表情は、むしろそれさえ楽しんでいる風にリオセスリには映った。

地上――と言っても地下水路区域だが――が近付いてきた頃、彼女は思い出したように泳ぎを止めて、抱き上げたリオセスリの顔を覗き込んだ。


「ああ、そうだ、坊や。どうか、わたしのことは秘密にしてほしい。わたしにとってこれは楽しみの一つなんだ。人々にバレてしまっては、こうも悠々と泳げなくなってしまう。だから、坊や。わたしと会ったことは、内緒だよ」


自身とリオセスリとの間に人差し指を立てた彼女は、頼めるかな?と首を傾げた。シャボンの中まで香った海水が鼻をくすぐって、濡れきった長い睫毛の先までよく見えた。リオセスリはどうにかこうにか首を縦に動かすことで返事をした。頷いてくれたことに安心したのだろう、嬉しそうに笑った彼女は、お礼を伝えるとリオセスリを地下水路の通路へと下ろし、じゃあねと水中へ消えていった。

心臓が、外にまで聞こえるのではないかと思うほど、大きな音を立てていた。体はビショビショになって濡れきっているのに、血液が沸騰でもしたのかと錯覚してしまうくらい、熱が全身を張り巡っていた。

それはあまりにも強烈に、鮮烈に、リオセスリの脳にこびりついて、離れやしないものとなった。まさしく、恋と呼んでも差し支えないものであっただろう。

リオセスリは約束したとおり、決して彼女のことは他言しなかった。夫婦にはもちろん、兄妹たちにさえ言わずに過ごした。時々、彼女がいないかと水路を眺めたりしたが、以降会うことはなかった。もしや幻覚でも見ていたのかと考える時もあったが、だとすればとんでもない想像力である。

片時も忘れられぬままに成長していき、メロピデ要塞に収容され、そこから要塞の管理人となって少し経った頃。彼はとうとう、あの日の彼女と出会った。

それは、人の形をしていた。耳は己と同じ形で、頬にエラはない。下半身にも二本の足がしっかりと生えている。しかし、確かに、あの日海で出会った彼女に間違いはないと己の本能が告げていた。

何を話すべきなのか、アレについて触れてもいいものか。柄にもなく緊張していた彼をよそに、彼女――シュレンは特に動揺する素振りも見せず、平然としていた。だから触れない方がいいのだろうとこちらも平常心を保って接した。

仕事の話を終え、ではまたと帰る彼女を引き止めたのはリオセスリだ。不思議そうな金色の瞳が自身を射抜くと、心臓の音が速くなった。彼はかける言葉なんて用意していなかったから、頭を回転させて言葉を探している最中。ふと、気付いた。

シュレンの瞳が、本当に、心底、不思議そうなのだ。リオセスリ殿?とこちらを呼ぶ声は、さも初めて会った人間に対するそれで。そこでリオセスリは察した。彼女は、覚えていないのだと。


「あんた、よくああやって泳いでんのか?豪雨の中でも」


自分と彼女との二人しかいない部屋だった。そのため、リオセスリは単刀直入に聞いたのだ。彼の言葉に驚いた顔をしたシュレンは、少しだけ眉を寄せて考えるような素振りでリオセスリをじっと見つめると、ああ、と思い出したように笑った。


「そうか。君、あの坊やか」


彼女は、なんてことない風で天気は関係なくたまに泳いでるよと伝えると、腕を掴む手をそっと離して、改めてではまた、と告げて出ていった。

特に懐かしむこともなく、そんなこともあったと軽い調子で返されたリオセスリは、しばし呆然としてしまった。彼女にとってあの出会いは、さして特別でもなければ、しっかりと記憶に残しておくほどのものでもないらしい。その事実にショックを受けると同時、彼の胸には沸々と怒りが込み上げた。

リオセスリにとっては、あまりにも衝撃的な出来事だった。彼女との出会いが、彼女の存在が。流れる水を見るたびに思い出し、潮風の匂いが鼻腔を通るたびに心臓は音を立て、似たような女性を見かけるとつい目で追った。己の人生に、それなりの影響を及ぼされたのだ。

心底焦がれて、もう二度と会えないのかもしれないと覚悟だってして。そんなところにふと奇跡でも舞い降りてきたのかと思えば、向こうは自分のことなんて、大して気にもかけてはおらず、記憶にもとどめちゃいない。これは理不尽な怒りだとリオセスリも理解はしているが、しかし、やはり我慢ならなかった。

だから、刻みつけてやろうと思った。彼女に自分という存在を刻んで、焼きつけて、残してやろうと。向こうも自分と同じようになればいいと思ったのだ。

だが事を急いては仕損じる。何事も早急にやればいいというものではない。じわじわと、ゆっくりと、縛りつけていけばいい。気づいた時にはもう自分から逃げられなくなっていればいいのだ。

自身の身を置く場所や立場から、そう易々と会いにはいけないことがネックであったのだが、存外運は自分へ向いてくれたようで。私用で故郷に戻っていたシュレンは、その期間中にリオセスリと約束をしていたが、それをキャンセルした。仕方のないことだ、彼女とて悪気はない。それほど緊急性の高いことだったのだろう。だが、これを利用しない手などなかった。

自分にできる範囲で詫びをすると言質を取れたので、試しに要塞で働いてもらえないかと持ちかけた。それはできないと断られたが、リオセスリもこれに関してはダメ元だ。では譲歩して、定期的にお茶会をしてほしいと頼めば、断る素振りもなくオッケーをもらえた。

これでまず、定期的に会う約束が取り付けられた。シュレンは璃月出身だからなのか、約束には敏感だ。余程の事がない限り破ったりしない。もしまた何らかの形で約束が反故となった場合は、また詫びをしてくれるだろう。何にせよ、リオセスリにとってはメリットしかない約束だ。

会う約束さえ取り付けられれば、あとは彼女の生活に少しずつ入り込んでいけばいい。こういったものは時間をかけて確実にやっていくべきである。焦ったって良いことなどない。今日のお茶会は、ヌヴィレットとシュレンとの関係でついうっかり反応を間違えてしまったが。

そもそも、シュレンが自分を何かしら警戒していること自体、リオセスリは気付いている。何せわざと、二人きりの時にだけ、彼女に邪な視線を向けているのだから。好意、独占欲、執着心。そんな感情が入り混じった視線に、シュレンは勘づいている。果たして彼女がどこまで気付いているかは不明だが、知らないフリをしていることは彼も察していた。つつかれたら素直に好意を伝えればいい。知らないフリをするのなら、遠慮なく注げばいい。少なからずシュレンは、リオセスリを意識している。それは彼の望むものとは違うが、彼女の意識に自分が入り込んでいることが重要なのだ。

ティーカップに手を伸ばした彼は、ゆっくりとそれを飲み干していく。水が好きらしいシュレンのためにそれを用意するのも吝かではないのだが、しかしやはり、リオセスリは次のお茶会でも紅茶を出すだろう。