- ナノ -

こぼれたあぶくは涙の形をしている

「君の弟子が、フォンテーヌに?」

「うん。わたしに会いにくるんだってさ」


働き詰めなヌヴィレットの休憩も兼ねて、シュレンは彼の執務室でお茶――飲んでいるのは水だが――をしながら、その話題を持ち出した。

シュレンには、璃月に滸という弟子がいる。所謂半仙である彼女は、璃月を去ったシュレンの代わりに、璃月港付近の海で暮らす者たちや、その場所の平穏を守ってくれている。彼女とは定期的に手紙でやりとりをしているのだが、今朝届いた手紙の中に、近々フォンテーヌへ来る旨が書かれていた。

弟子が会いに来てくれるのは嬉しいが、フォンテーヌは法に厳しい上に、おかしな法律もある。他国から来た者が知らない間に法律違反を犯していた、という話は決して珍しいことではない。そのため、万が一滸が何らかの法に触れないとも限らないのだ。


「だから弟子がいる間は、休暇を貰おうと思ってね。あの子も長く滞在する気はないみたいだから、そんなに長期間休むつもりはないよ」

「そうか、承知した」

「時間があれば、君にも紹介するよ。向こうに戻った時に君の話をしたら、会ってみたいって言ってたから」


ぱちぱちと瞬きを二つほどこぼしたヌヴィレットは、自分もぜひ会いたいと返すと、そういえばと、思い出したように口を開いた。


「リオセスリ殿とのことは、その弟子には既に話はしているのか?」

「いいや、まったく」


シュレンはリオセスリとの関係については一切触れず、差し障りのない内容を認めて手紙を送っている。フォンテーヌに来るとの一文が目に入った時には、もしや何か察したりしたのだろうか。シュレンは少し心配になったが、どうやらシュレンのこちらでの暮らしが気になるだけなようなので、ひっそりと安堵した。

璃月を離れてからと言うもの、シュレンは長くそちらへ足を運んでいなかった。岩神が亡くなったという話を聞いて一度戻ったきりなので、弟子と会うのもそれ以来のことになる。まさか自作自演とは思わず、自称凡人をしている人間一年生な旧友は多方面に迷惑をかけたようで、流石にシュレンも文句をこぼした。なんでもその際色々とお世話になった旅人の少女がいるそうだが、もしどこかで会った時はお礼とお詫びをしたいとシュレンは考えている。


「交際関係とは、ともすれば番を結ぶ前段階のようなものと聞く。当人にはもちろん、周囲にとっても重要な事柄だと思うのだが」

「それは人それぞれだよ。恋人が必ずしも番うわけじゃないし、わたしはこれを弟子に言う必要はないと判断した。それだけさ」

「君がそう言うのであれば、その件に私が口出すことは何もないな」


納得したように頷いたヌヴィレットは、では、と言葉を続けた。


「以前話していたリオセスリ殿に関する悩みだが、それは解決したのだろうか」

「あんまり。むしろ、より悩みの種が増えるばかりだよ」


軽く笑いながら答えたシュレンだったが、その顔は思い詰めたようなものへと変わった。彼女にしては随分と、珍しい部類の表情だ。ヌヴィレットがそれに瞠目していれば、シュレンは困り顔のまま口角だけを上げた。


「どうしてわたしなのかな……彼なら、もっといい相手がいるだろうに」


自嘲染みた声色でこぼし、シュレンは水を呷った。今日用意したのは、モンドにあるシールド湖にて汲まれたもの。ヌヴィレット曰く「暖かみ」のある口当たりをした水だ。


「リオセスリ殿にとって、君以上の相手がいないのだろう」

「出会いがないだけさ。それに、初対面が初対面だ。印象が強すぎたんだよ」

「では、彼の好意は単に興味や好奇心を錯覚しているだけだと、君は考えているのか。話を聞く限りでは、彼は心の底から、君を特別視しているように私には感じられたが」

「恋って興味心の一部みたいなものだろう。それと、錯覚はしてないと思うよ。わたしは彼から差し出される愛そのものは疑ってはいない。会う度にいろんな方法で渡されるんだから」


それは言葉だけでなく、仕草や表情、そして瞳から、彼は惜しみなくシュレンへ己の愛を差し出している。なんとも献身的なことだと、シュレンは笑ってしまう。


「愛そのもの、と言うことは、君はそれ以外の要素に疑いを持っているとも聞こえるな」


ヌヴィレットからの指摘に、笑みを崩すことなく、シュレンは言葉を続けた。


「そうだね。わたしは彼の感情は疑っていない。けれど、その持続性については別だ。今の彼がそうだからと言って、これから先も同じという保証はどこにもない」


彼女は、リオセスリから差し出される己への愛そのものを疑ってはいない。今自分へ向けられている恋は嘘ではないと理解している。ただ、それは今だけという話だ。一年後、十年後、それ以上先まで続く確証はない。

シュレンの話を聞いていたヌヴィレットは、なるほどと深く頷いた。彼女の言うことは一理ある。人は時に永遠を口にするが、そこに信憑性はなく、言葉の割にチープなものへと成り下がってしまう。人にとっての永遠は、一過性のものにすぎないという矛盾を持っていた。


「片想いは楽しい、なんて言う子もいるけどさ、返ってもこないのにずっと想い続けるだけというのは辛いし、味気ないだろう?」


しみじみとこぼされた言葉を聞きながら、ヌヴィレットはしばし疑問を覚えた。

確証がないのは、果たしてリオセスリにだけ適応されるものなのか。シュレンが彼に好意を抱く可能性は、本当にゼロなのか。何故シュレンは、一刻も早くリオセスリの愛を自分から遠ざけたいのか。

時間の経過を待つのは一つの手だ。シュレンとリオセスリとでは時間の感覚が違う。たとえリオセスリが死ぬまでシュレンに愛を渡し続けたとしても、彼の年齢を考えれば七十年前後くらいなものだろう。そんなのシュレンからすればあっという間の、一瞬のことである。

彼女がそれを待てない、というのが、ヌヴィレットにはどうも引っかかった。同じ想いを返せないことは、これまでもあったことだ。ヌヴィレットが知る限りでも、リオセスリ以外にシュレンへ特別な情を抱く者は現れたことがある。中には断られても諦めなかった者もいた。シュレンはそんな彼らに対して、「早く諦めればいいのにね」とは言っていたが、ここまで焦っている様子は一つも見せたことはない。

何故リオセスリにだけ、こうも急いているのか。


「わたしは、愛は持っているけれど、恋は持っていないのに」


ふと、ヌヴィレットはシュレンの言葉を思い出した。彼女は恋を「持てない」のではなく、「持っていない」と言った。屁理屈になるかもしれないが、それはつまり、持てないわけではない、ともとれないか。

シュレンにとっての恋とは、隣人以上を求めることだ。隣人へ向けるにはわがままで欲張りな己の欲求を相手に望むことを、彼女は恋とした。シュレンは他者に愛を求めないし、受け取らない。己に恋という感情を向ける者からの贈り物は全て断り、恋文だって読んだ後に燃やしてしまうほどだ。


「……シュレン。君は、リオセスリ殿からネックレスを貰ったと話していたが、それはどうしているんだ」


いつぞやに、リオセスリくんから贈られた、と言ってシュレンが見せてくれたネックレス。その当時は彼から向けられている感情を知らなかったため、服の下に隠すような形ではあるがつけていたもの。恐らく恋仲になっただろう日以来、ヌヴィレットはそれを見ていない。

尋ねられたシュレンは、ああ、と思い出したように足を組み直した。


「アレなら、ドレッサーの引き出しにしまってるよ」

「……君は、そういったものを手元に残すことを厭うていたと記憶しているが」


僅かに、シュレンが目を見開いた。だがすぐになんてことないように肩を竦めてみせた。


「一応、まだ恋人だからね。つけはしないけど、その間は手元に置いておくよ。わたしだって、本当は早めに処分したいさ」


言い分に納得はしたが、やはり、ヌヴィレットは引っかかりを感じてやまなかった。


「どう処分するかはもう決まっているのか?」

「海にでも流そうかなって思ってるよ」


悩む様子も迷う素振りも見せぬまま、シュレンは笑ってそう言った。ヌヴィレットは返ってきた言葉に瞠目しながらも、点と点とが繋がっていくようだった。


「自分宛の愛を、己が最も愛する場所へ沈めることを、果たして処分と言えるのだろうか」

「……は?」


その指摘に、シュレンの笑みが固まった。暗い深海でも光を放つ彼女の金色は、みるみるうちに大きく見開かれていく。

シュレンにとって、海とは一等特別だ。彼女はそこで生まれ落ち、長く過ごしてきたのだから。親というものが存在しないシュレンからしてみれば、あの青き世界は母の胎と大差なく、そこは彼女が愛してやまない場所だ。

そんな場所に、自分への愛を伝える男からの贈り物を投げ込むなど、今までのシュレンならばしようはずがない。ならば、きっとそういうことだろう。

ヌヴィレットはシュレンとのやりとりを思い返す。「感情は疑っていないが、持続性は別」、「返ってもこないのにずっと想い続けるのは辛く味気ない」。彼女は確かにそう言った。

――ああ、つまり。


「君は恐れているのか。他者からの愛を得ることを。それを、求めることを。感情が持つ永続性の儚さを知っているが故に。人の一生は、君よりも遥かに短いが故に」


笑みはいつしか崩れ、そこに残っているのは不安を落とし込んだ色。瞳がグラグラと不安定に揺れ、唇は引き結ばれたまま、彼女は何も言わない。そんな表情に、ヌヴィレットはそっと目を伏せた。


「すまない。君を傷つける意図はなかった」

「……わかってるよ。大丈夫、少し驚いただけさ。おまえに悟られるとは思ってもいなかったから」


力無く額に手をあてたシュレンは、深々とソファーに座りなおして、背もたれに体を預けた。そうして諦めたように天井を仰いだと思うと、カラカラと笑った。


「ただでさえ、人の心は移ろいやすく、揺らぎやすい。嫌だよ、わたし。ひとり惨めに愛を乞うなんてさ」


だから隣人でいいのだと、シュレンはこぼした。


「それに、素敵な言葉と思わない?見た目を寄せたところで本質はそれから外れているわたしも、名前の上では人の輪の中に在れる。何より、恋人よりはよっぽど先もある。隣人は何人いたっていいんだから」


ぼんやりと天井を見つめながら呟いたシュレンは、目を瞑って何かを紡ぐ。恐らく、それは無意識にしていることだろう。そんな彼女の様子に、ヌヴィレットは僅かに眉尻を下げた。

今のように、ふとしたときにシュレンが何かを発していることにヌヴィレットが気づいたのは、もう何百年も前のこと。しかし何を言っているのかを聞き取れたことは一度とてない。何故ならシュレンの口からは、言葉はおろか声そのものが出ていないのだ。ヌヴィレットが気付けたのも、シュレンがそれを水中で行っていたからにすぎない。ただ、その度にシュレンの感情が悲しみに満ちていたことだけは確かであった。

それが何故なのか。シュレンは誰に、何を伝えようとしているのか。ヌヴィレットにはそれがまったくわからなかった。

彼が水から感じ取れるのはそこに含まれた感情であり、言葉が聞こえてくるわけではない。シュレンは戻ってくる時には既にいつも通りの様子であったため、下手に触れることも憚られた。雨を通して過去を視てみたこともあったが、その「何か」を発しているときだけシュレンの声は消えてしまうため、結局何もわからずじまいだ。

だが、先のシュレンの言葉で、彼女が何をしていたのか、何のためにそれをしていたのか、たった今気付いた。


「……シュレン。君は――」


ヌヴィレットの言葉に口を止めたシュレンは、深く息を吐き出して、正面を向いていつも通りの笑みを見せた。


「そろそろ仕事に戻ろうか。有給申請は後で出すよ」


それだけ伝え、水を飲み干した彼女は、空のコップを持ったまま執務室を出ていった。













フォンテーヌ廷も、歌劇場だって静まり返る夜更け。細長い月が薄い雲の向こうから海や地面を見下ろすなか、シュレンは一人浜辺に来ていた。彼女がつま先で水を撫でれば、ちゃぷりちゃぷりと音を鳴らした。寄せては返す波の音が響くばかりの砂浜では、そんな水音も随分と大きく聞こえるようだった。

シュレンは小さく鼻唄を口遊みながら、海の中へと歩を進めていく。足首からふくらはぎ、膝まで水が到達すると、スカートの裾も濡れはじめた。それも気にせず、シュレンは進み続ける。腰まで沈んだ頃には、足は浮いていた。

ゆっくりと上体を水に沈めた彼女は軽く泳いで深い場所まで行くと、そのまま水中へと潜った。冷たい水が体を包み、服がぴったりと肌に張りつくが、その感触はシュレンには心地良く思えるものだ。

揺れる髪から覗いた耳が伸びていき、ヒレの形へ変わった。頬に切り目ができて、エラとなった。スカートの下から伸びていた長い両足には鱗が浮かび上がり、尾鰭へとなった。

妖しげに光る金色の眼は、遠くまで続く夜色の世界を映すと、緩やかにその目尻を和らげた。

こぽり、こぽり。唇の隙間から空気が漏れる。岩陰にて眠る魚たちを横目に、シュレンは長い尾鰭を優雅に揺らしながら、深くまで潜っていき、くるりと体を反転させた。

仰向けになって水中から空を見上げながら、彼女は小さく口を開く。こぽりと、また空気が漏れていった。何かを紡ぐように動く唇からは、あぶくばかりがこぼれ出て、音など何も聞こえやしない。だから当然、返事だってありはしない。

けれど、それにはもう慣れたことだった。昔も今も、そしてこの先も、返事などきやしないのだと、シュレンはとっくのとうに悟っていた。嫌というほど理解していた。それでもこうして諦め悪く、誰にも聞こえぬ音を発するのは、最早癖のようなもの。それとほんの少しの、僅かな、爪の先程度の希望。

もしかしたら、いつか返事がくるのではないかと。みっともなく縋っているだけの、どうしようもない未練。