- ナノ -

深淵よ、君は何をのぞいた

差し出されたミルクセーキを笑顔でかわしながら、リオセスリは紅茶に口をつけた。隣ではむくれた顔を浮かべたシグウィンが、持っていたミルクセーキをテーブルに置いている。これをどう処理するかを考える必要があるが、それは一旦後にして、彼はシグウィンの方へ視線を向けて、で?と声をかけた。


「話ってのはなんだ?何か困り事でも起きたか?」

「いいえ。今日は、シュレンさんのことで話があるの」

「シュレンさんの?」


意外な内容に目を丸くしたリオセスリは、まずは話を聞こうとティーカップを置き、耳を傾けた。


「この間、シュレンさんが仕事でこっちに来たでしょ?その時、ウチに会いに来てくれて、ちょっとお話をしたことはもう知ってるでしょうけど……話題は公爵のこと。あなたとはどんな感じなのか、どう思ってるのか。そういうのを聞いたの」


リオセスリはそれがいつのことであるのかをすぐに察した。シュレンが仕事で下に来た日だ。用事を終えた彼女がシグウィンのもとへ顔を見せに行ったというのは報告に来た看守から聞いて知っていたが、どうやらそんな話をしていたようで。へえ、とリオセスリは興味を示すように相槌を打った。


「公爵ってば、恋人にはなったのに、まだ片想いなんですってね」

「……今はな」


一瞬顔をしかめながらも、リオセスリは余裕ありげに軽く受け流した。シグウィンはそれをおかしそうに、微笑ましげにクスクスと笑うと、思い出すわ、と懐かしむような口振りで瞳を伏せた。


「公爵がここに来てすぐの頃、あなたがふとした時に壁の方ばかりを見つめるのが、とっても不思議だった」


リオセスリがメロピデ要塞に来たのは、彼がまだ十代の頃だ。殺人罪で収監された青年は、仕事の傍ら地下格闘場に通い詰め、怪我をする度に医務室でシグウィンの世話になっていた。シグウィンはいつだって彼を親切に迎え入れ、小言をこぼしながらも優しく手当てをした。

医務室で手当てをしている時、リオセスリがふと思い出したかのように壁へ瞳を向けていることに、シグウィンは早い段階で気付いていた。

瞳の中で小さな小さな光を散らつかせながら、彼は壁を見つめるのだ。まるで、何かに焦がれているかのように。大事な大事な何かを愛おしむように。その時のリオセスリはいつも、心臓が大きく速く、脈を打ち、目尻がほんの少し緩むのだ。

情報を統合した結果、シグウィンは一つの感情を弾き出した。


「あなたは、もしかして恋をしてるの?」


彼女がそれを指摘したのは、リオセスリの手当ての回数が両手の指以上になってからのことだった。ぱちりを驚いたように瞳を瞬かせたリオセスリは、気まずげに視線をそらすので、やっぱりと確信した。


「良ければ、あなたの好きな人のことを聞かせてもらえないかしら?この場所じゃそういう話は中々聞けないから、興味があるの。ああ、もちろん、嫌ならいいのよ」


なるべく当たり障りのないように。気を悪くしないように。言葉を選んで彼女は頼んでみた。断られても気にはしない。人によってはデリケートな部類でもある感情の話なのだから、聞かせてもらえたらラッキー程度の気持ちだった。

傷だらけの手を綺麗に拭いて、消毒液をつけてあげながら、シグウィンは返事を待ったが、リオセスリは何も言わない。言わないということは、話したくないのだろう。そう結論付けて、シグウィンは不躾なことを聞いたと謝るたけに顔を上げた。


「……小さい頃に、溺れたところを、助けてもらった」


今度は、シグウィンが瞳を瞬かせる番だった。彼女は数秒ほど固まったが、彼が何の話をしているのかをすぐに察して、傾聴する姿勢を見せた。


「楽しそうに泳いでる姿は綺麗で……俺の背中を撫でる手も、すごく優しかった。言葉も声もずっと穏やかだった。でも、別れる前に見せてくれた笑顔は、少し幼く見えて、可愛かった」


ポツポツとこぼされる内容に、シグウィンは瞳を輝かせる。興味や好奇心がまったくないとは言えないが、彼の言葉から滲み出る拙い恋のカケラが、あんまりにもいじらしかったのだ。


「ここは海中にある。だから彼女が、この冷たい鉄の壁の向こうに広がる世界を自由に泳いでいるのなら……それを見れやしないが、少しは、近くに感じられる気がしたんだ」


どこか切なくて、細やかで、胸がほんのりと締めつけられるような、そうであったなら、という願い。彼は自分の大事な思い出をしまっていた箱の中身を、シグウィンにそっと見せてくれたのだ。それが、彼女にはとても嬉しかった。それ以来、リオセスリから好きな相手の話を聞くことはなかったが、彼が公爵になって少しした頃。メロピデ要塞の管理人が交代した、という件を受けてパレ・メルモニアからシュレンが来た日。リオセスリはシグウィンのところに来て、好きな女に会ったと言うのだから、それはもう驚いた。しかもそれが、シュレンであったことにもだ。


「シュレンさんと再会した後の公爵は、ショックとか怒りとか、いろんな感情がごちゃ混ぜでちょっと心配だったけど、吹っ切れたと思ったら絶対口説き落とす!ってやる気に満ち溢れて……」


おかしそうに小さく笑い声をこぼしたシグウィンは、大きな瞳をそっと閉じながら、ウチはあなたを応援してるのよ、と穏やかに呟いた。


「それに、シュレンさんにも悲しい思いはしてほしくないわ」


そう続けた彼女は真っ赤な瞳でリオセスリを見上げると、最初の話題へと戻すように、シュレンと話した内容を再度持ち出した。

公爵との関係は良好なのか。公爵をどう思っているのか。シグウィンは確かにそれらを彼女に聞いたが、それ以外にも尋ねたことがあった。リオセスリに話したいことは、そちらの方についてであると説明した。


「シュレンさんは、恋をしたことも、したいと思ったこともないと言ったの。誰かに執着することもしない、隣人で満足だって」


その言葉に、リオセスリは目に見えてわかるように顔をしかめた。未だ感情の一方通行である彼からしてみれば、望み薄だから諦めろと言われているともとれるような内容だ。どうやらいまだに彼女の心へ深く入り込めていないようで、リオセスリは眉間のしわを濃くさせた。シグウィンはその様子を横目で確認しながら、話を続けた。


「彼女なりの、永く生きるコツだそうよ」


楽しめることを見つけ、隣人を得て、執着をしない。シュレンがしていたように指折り数えながらその三つを挙げたシグウィンは、彼女にとっては人間社会へ混ざっているのも退屈しのぎの一つであるのだと告げた。

自分との関係もその一環なのだろうか。浮かんできた思考にリオセスリは舌打ちをしそうになったが、なんとか堪えた。そんな、簡単に終わらせることができるような、明日にでも忘れてしまえるようなものに括られる気など、リオセスリには微塵もない。たった一瞬で過ぎ去るつまらない余白を埋めるためだけの存在ではなく、一生埋められない、代わりなどない空白になりたいのだから。


「公爵、大事なのはここからなのよ」


存外真剣な声音で隣からつつかれ、リオセスリは一度瞳を瞬かせると、意識を己の思考からシグウィンへ戻した。


「シュレンさんは、こうして人間社会にいることを、暇潰しだけが目的ではなくて、元々はせっかく出会えた隣人と仲良くなりたかったとも言ったの」

「……それで?」

「まあ、わからないの?」


そう言われたところで、リオセスリはその時のシュレンの様子を知らない。どういう表情で、声音で、仕草でその言葉を言ったのかがわかれば多少なりとも心情を汲むことができたかもしれないが、人伝では額面通りに受け取るしかない。

出会えた隣人、とは人間のことだろう。シュレンは彼ら彼女らと仲良くなりたかった。だから同じ場所で、人間が作り上げた社会のルールや価値観、道徳を指針にして過ごしている。彼が察してやれるのは、今のところこの程度だ。お手上げだと言いたげに肩を竦めたリオセスリは、シグウィンに続きを促した。


「シュレンさんは、先に陸に上がったんじゃないの。先に暇を潰す目的があったでもない。人間と仲良くなりたかったから、二本の足を選んだのよ」


前提が何であるのか。それは重要で、大きなことだ。この場合シュレンの前提は「人間と仲良くなる」というものになる。


「おかしいと思わない?」

「……シュレンさんは、どうしてそうまでして人間と仲良くなりたかったんだ?」

「それもだけど、仲良くなりたいから陸に上がったのに、今では誰とも特別な関係は結ばずに、隣人で満足しているか、についてよ」


その指摘に、リオセスリは目を見開いた。

シュレンが陸に上がった理由は、人間と仲良くなるというものであるのなら、それは一方通行では成り立たない。互いに相手への友好的姿勢を示す必要がある。

だが隣人とは、友人ではない。恋人でも、家族でもない。どこにでもある、ありふれた、特別性などない他人だ。いたら少し嬉しいかもしれないが、鬱陶しさもある。いないなら寂しいかもしれないが、気楽でもある。わざわざ友好的姿勢を示す必要性などない。少しの関心と、たまに手を取り合う程度の、いつ切れてもおかしくない、そんな関係。

もちろん全ての隣人がそうではないが、「仲良くなりたい」のであれば、隣人に留まり続けるのではなく、そこから友人という関係性を結ぶ努力がいる。だが、シュレンはそれをしない。


「シュレンさんは、最初は何を望んで陸に上がったのかしらね」


キラキラと、無垢に光る大きな瞳が、訴えかけるようにリオセスリを見上げていた。