- ナノ -

ないものねだりはおやめになって

好き?わたしのことが?本当に?人間にそう思ってもらえるだなんて、とても嬉しいことだ。わたしにとっても君たち人間は好ましいからね。


「あ、あの、そういうことではなく……えっと……あなたに、恋をしてるんです……!恋人になりたいんです!」


こい。鯉?いや、魚、ではなさそうだね。コイビト……ああ、番関係の派生のようなものか。番、とまではいかないけれど特別な仲なんだろう?お互い想いあって愛しあって。その過程に番があるのかな。人間は子孫を残すという生物の本能とはまた別の意図をもって関係を結ぶんだから不思議だね。ん?つまりはわたしとそういう仲になりたいってことか。


「はい。だから、その……ずっと、僕のそばにいてほしいんです!」

ずっと?

「はい!」


…………。












「公爵とは、どんな感じなの?」


丸くて大きくて、キラキラと輝く瞳は、ルビーを彷彿とさせる。シュレンは自身を見上げる愛らしい二つの宝石に、苦笑いを返した。

シュレンがメロピデ要塞を訪れたのは、仕事のためだった。と言っても、内容はただの物品配達だ。本来ならば彼女が請け負う仕事ではないのだが、普段メロピデ要塞へと物品を届けている職員が、一昨日から産休に入っていた。産休前に業務の分担は行っていたのだが、配達業務を振り分けていた職員が子どもの風邪がうつってしまい、休んでいるのだ。

ちょうどメロピデ要塞にて生産されているマシナリーの引き取り業務もあり、また休暇をとっている職員の分の仕事もある。そのためかいつもよりも忙しないオフィスを見て、自分が行こうとシュレンが手を挙げた。彼女にも他の仕事はあるが、幸い急を要するものはない。多少遅れても、どうせ今日もヌヴィレットは残業するだろうから、一緒に残って片付けてしまえばいい。

そういうわけで、シュレンはメロピデ要塞に赴いた。比較的高い頻度で要塞に降りているせいか、看守たちとも顔見知りになってきており、何人かは軽い雑談をする仲になっている。また彼女が来るのは基本リオセスリとの用事なために、会うなり「公爵とのご予定で?」なんて言われてしまった。

物品確認は滞りなく終わり、生産エリアにてマシナリーの確認も行えた。そのまますぐに地上へ戻っても良かったのだが、せっかく来たついでにと、彼女はシグウィンのもとへ顔を出したのだ。

シュレンはいつもリオセスリとのお茶会終わり、医務室に寄ってから帰る。しかし寄ると言っても顔を見せて、軽く言葉を交わし、ヌヴィレットが元気であることを伝える程度で、あまりゆっくりと話をする機会はない。今日も仕事で来ただけなので長居はできないが、軽く話すくらいはできるだろうと、居房エリアにある医務室へ向かった。

予定にない訪問なため、患者がいるのであれば帰ろうと思ったが、医務室にはシグウィン以外の姿はなかったので、シュレンは軽い挨拶だけして地上へ戻ろうと思っていた。けれど嬉々として座るように言ってくれる彼女に水を刺すのも悪く、少しだけならいいかと無人のベッドに腰掛けた。

そうして、初手でリオセスリのことを聞かれたのである。

「どう」と言われても、果たしてなんと返すべきか。彼との関係も気付けば三ヶ月が経過しようとしているが、その間喧嘩などなく仲良くはしているだろう。しかしシグウィンが求めているのはそういった当たり障りのない回答ではなさそうなので、シュレンは言葉を続けられなくて、笑って誤魔化した。


「シュレンさんが来る日はね、公爵ってばとっても機嫌が良いのよ。前からそうなんだから。あの人はね、シュレンさんのことが大好きなの」

「それはまた、嬉しいことだね」

「シュレンさんは、公爵のことをどう思ってるの?」


こてんと傾げられた首に、シュレンは口もとを隠しながら視線を下げた。


「……好ましいと思っているよ」

「ふふ、でしょうね。でもきっとそれは、彼と交わっていない好意だわ」


その言葉にバツが悪そうに眉を下げたシュレンを顔を見て、シグウィンは慌てて責めているのではないと言葉を足した。シュレンもそれはわかっているが、しかし実際、自分がしている行為はあまり褒められたことではないだろうとも感じている。

シュレンとしては、彼の想いを無駄にしてしまっている自覚があった。恋も愛も所詮は独りよがりだ。リオセスリは自分がしたいようにして、シュレンに己の感情を渡し続けている。だが、シュレンにとっては短く、そして彼らにとっては長い人間の一生を自分に消費するのは、どうにももったいなく思う。

しかも彼は、シュレンの一生消えない傷になりたいとまで言うのだ。それはもう、自身の人生をシュレンにつぎ込もうとしていると言っても過言ではないだろう。


「君から見ても、彼はわたしに本気だと思う?いや、もう流石に疑ってはいないよ。色々言われたしね。ただ、一応客観的意見は聞いておきたくて」

「そうね。公爵は、あなたに本気だわ。本気であなたのことが好きで、本気で、あなたをずっと自分に繋ぎとめておきたいのよ」


大方予想通りの返答に、シュレンは困ったように肩を落とした。

もったいない。とても、とてももったいない。元囚人とは言え、彼の行動は善性に基づいてのことだった。正義とは如何なる時も免罪符になりはせず、感情面の要因は、行為に対する罪の有無を覆すには至らない。そこでブレてしまっては、秩序とは成り立たないものだ。故に彼も審判により罰せられはしたが、民衆の反応は彼に同情的であった。

そのため、リオセスリは罪人ではあったが、世間から大きくバッシングを受けるほどの悪人ではなかった。それに今はヌヴィレットから「公爵」の名を授けられ、要塞の管理人としての実績と信頼もある。

容姿だって良い。鍛え上げられた体は逞しく、背の高さもあって威圧感を感じさせるところはあれど、その立ち姿は彫刻品のような精悍さがある。目鼻立ちもくっきりとして、男らしい顔つきをしている。一見寡黙そうに見えるが、あれでいて存外気さくな男だ。話術にも長けており、紅茶やコーヒーは少し甘めを好む意外性も持っている。そして何より、優しい男だ。手段を選ばない強引さはあるものの、そういう性格が好みの女性などごまんといるはずで。

自分からいかずとも、向こうから女性は寄ってきてくれるだろうに。何をどうして、自分よりも五千近くは上の非人間に惚れ込んでしまったのか。幼少期という多感な時期に、とんでもないものと出会ってしまったのが、却って彼の感覚に悪い作用を引き起こしたのかもしれない。そう考えると罪悪感を刺激されていくようで、シュレンはついため息を落とした。


「公爵から好かれるのは迷惑?」

「そういうわけじゃないよ。ただ、リオセスリくんの時間をわたしに消費させてしまうのが申し訳ないだけ。わたしは彼宛の恋を持っていないから」

「じゃあ、まだ公爵は片想いなのね」


おかしそうに笑ったシグウィンは、好奇心いっぱいで尋ねた。


「シュレンさんは、恋をしたことがある?」

「ないよ」

「したいとは思ったことは?」

「それもない」


軽い調子の答えに、シグウィンが少しだけ残念そうな顔を浮かべるので、シュレンは苦笑い気味に言葉を続けた。


「わたしは誰にも執着をしない。隣人で満足してるんだ。なに、ちょっとしたコツの一つだよ」

「コツ?」

「そう。何か楽しめることを見つける、隣人をつくる、そして執着をしない。これが、果てが中々見えない旅路を歩いていくための、わたしなりのコツ」


指折り数えながら、シュレンは明るい声音で話した。五千という年月を生きている彼女が言うと、これが中々説得力はあるもので、シグウィンはなるほどと頷いた。


「永い命の道すがら、退屈しのぎはあればあるほどいい」


たとえば料理であったり、読書や映画、舞台鑑賞。どれも海にはない文化だからこそシュレンにとっては新鮮なもので、楽しくてしかたがないことだ。

かと言って海中がつまらないということは決してない。沈没船の探索や、人間が誤って落っことした道具を蒐集したり、時には海中旅行をしてみたり。時には海洋生物たちと歌を歌った。人間のように仕事に追われることはなく自由に過ごせるため、好きな時に好きなことができた。

どちらの生活も、シュレンには楽しく、飽きのないものであることに違いはない。

話を聞いていたシグウィンは、納得した素振りを見せながらも、こてんと首を傾げた。


「なら、今シュレンさんがこうして人間社会に混ざっているのも、暇潰しの一つ?」


その言葉に数秒ほど黙ったシュレンは、素直に今はそれもあると認めて微笑んだ。


「そういう言い方をするってことは、他にも理由があるのね」

「大したことじゃないさ。せっかく出会えた隣人と、仲良くなりたかっただけなんだ。そのためには、わたしが彼らに寄せてあげる必要があった」


だって人間は、弱くて臆病だから。それなら自分が、彼らの尺度に合わせてやればいい。幸いなことに、シュレンにはそれが可能だったから。姿形を変えることも、陸で呼吸をすることも、難しいことではなかったから。

それだけ。そう言って笑ったシュレンに、シグウィンは僅かに目を丸くして、何かを言いかけた。けれどシュレンがハッとした顔で腕時計を確認して立ち上がったので、口を閉ざした。


「すまないね、そろそろ戻らないと。今日は君と色々話せて楽しかったよ」

「ウチもよ。忙しいのに付き合ってくれてありがとう」


笑顔で頷いたシュレンは、名残惜しさを感じつつもシグウィンに手を振って医務室を出ると、早足になりながら階段を駆け降りていく。そうしてリフトの方へと向かっていた最中、囚人の青年とぶつかってしまった。


「すまない、大丈夫かな?」

「は、はい……」


少しよろけてしまった青年に慌てて声をかけた彼女は、パッと振り返った。自身を見上げる青年に怪我がないかを尋ねれば、彼は自身より背の高いシュレンに驚いているのか、ギョッとしながらも頷くので、よかったと微笑んだ。


「ん?君、顔が汚れているね」

「あ……これは、さっき躓いて……」

「転けてしまったの?ここの床はさぞかし痛かっただろうに」


よく見ようと少し腰を屈めたシュレンは、それがかすり傷であることに気付いた。彼は恐らく医務室へ向かっていたのだろう。その前に汚れを拭った方がいいと、彼女はハンカチを取り出した。


「これで――」

「こんにちは、シュレンさん。おっと、取り込み中だったか?」


拭いてあげる。そう言いかけて、シュレンは振り返った。そこにはにっこりと微笑んでいるリオセスリが立っており、彼はゆっくりとした足取りで彼女らに歩み寄った。できればシュレンの気のせいでありたいのだが、その表情に嫌な予感のような、ちょっとした寒気を感じた。


「公爵様……!こ、こんにちは、おつかれさまです……!」


彼の登場に緊張気味に姿勢を正す青年を見ると、彼は軽くにこやかな調子で挨拶を返した。そうして彼の顔を見て、わざとらしく眉を上げた。


「おや、怪我をしてるじゃないか。小さな怪我でも放っておいたら、うちの看護師長はさぞお怒りになるだろう。早く診せに行くといい」

「はいっ!では、失礼します……!」


二人に頭を下げた青年は、駆け出すように医務室の方へと向かっていった。ポケットから取り出したハンカチは使われることなく、シュレンはおずおずとそれを戻した。


「やあ、リオセスリくん。今日は巡回でもしてるのかな?」

「いいや。執務室で作業をしてたんだが、うちの看守が水の上から届いた物品確認と、マシナリーの引き取り手続きを終えたって報告に来てな。まあそれはべつに大したことじゃあないんだが、なんでも今日はシュレンさんが運んできてくれたって言うじゃないか。ご多忙な最高審判官補佐さんが来てくれたっていうのに、俺が挨拶に行かないのは失礼だろ?」

「そんなこと気にしなくていいのに」


軽く笑って返しながらシュレンは彼の横を通り抜けようとしたが、それを読んでいたようにリオセスリは一歩ズレて、彼女の前に立ち塞がった。

これは、多分、怒っているのかも。何に対してかは、まだ予想がついていないけど。嫉妬深さを本人から告白されてはいるが、そのラインがどれくらいのものであるのかに関しては一向に判明していない。シュレンが嫉妬というものをしないタチなことも、それに拍車をかけている。そのため、彼の不機嫌が嫉妬からなのか、単に別のことからなのかをまず判別できないのである。


「さっきの奴とは、知り合いか?」

「え?いや……ぶつかってしまっただけだよ。顔を汚しているようだったから、ハンカチを貸そうかと思ってたんだけど……」

「なるほど、だからか」


一人納得しているものの、その機嫌はなおっている様子がない。理由がわかっていないまま謝るのも良くないが、何故怒っているのか聞くのもそれはそれで神経を逆撫でする行為に思える。とは言えここにとどまっておくわけにもいかないので、シュレンはとりあえず、リフトに向かわないかと提案した。

リオセスリが提案を受け入れてくれたので、シュレンは彼と共にリフトへ向かう。時々見かける囚人は、リオセスリの姿に驚いて、佇まいを正していたり、挨拶をするように軽く頭を下げたり。シュレンは彼ら彼女らと目が合うときには、笑顔を返しておいた。


「あー……さっき君は挨拶にって言っていたけど、むしろこちらから伺うべきだっただろう。手間をとらせて申し訳ない。今日は仕事で来たとは言え、配達作業のようなもので、君が対応しないといけないことでもなかったから、わざわざ行くのも悪いかなって」

「いやなに。普段なら一般職員が担当していたはずの業務内容を、あんたが降りてきたって聞いたもんだから、何かあったのかと思ってな」

「普段の担当職員は、実は先日から産休に入っていてね。本当は今日も別の子が来る予定だったんだけど、子どもさんの風邪がうつってしまったそうだ。他の子たちもバタバタしていたから、急ぎの仕事もないわたしが代わりに請け負ったんだよ」

「なるほど」


リオセスリが納得したと同時、二人はリフトの前に辿り着いた。レディファーストだと促されるがままシュレンが中に乗り込めば、それを追うようにリオセスリも中に入った。扉が閉まっていくなか、シュレンは背後を取られたな、ということに気付いた。

メロピデ要塞のリフトはあまり大きくはない。一度に十人前後も乗れるかどうかだ。とは言え経費の問題もあるし、メロピデ要塞は海中に建てられているのもあって、工事をするのも簡単なことではない。そのため些か狭さを感じれど、一人で乗る分には窮屈しないので、シュレンは特に不便は感じていない。

だが、流石に近過ぎないかとは思っている。確かにリフト内は狭いが、それでも二人くらいなら間隔を空けて立つくらいはできる。それがリオセスリはシュレンの真後ろに立っているのが気配でわかった。その上に後頭部にヒシヒシと視線が刺さっているが、振り向くのは躊躇してしまう。

これって何か話題とか振ったほうがいいのだろうか。最近歌劇場近くにいる野良犬が人懐こくて、来る人来る人を魅了してるって話とか、リオセスリくんって興味あるかな。そもそも彼って小動物好きだっけ。

シュレンがグルグルと考えていると、伸びてきた片腕が前に回されて、僅かな隙間を埋めるようにピタリと背中にくっつかれた。


「俺のところには挨拶にすら来てくれないが、看護師長のところには顔を見せに行くんだな。その上、恋人以外の男にああも不用意に距離を詰めて……あんたは、俺を妬かせる才能がある」


そう囁かれたと思うと、すぐに体が離れていった。目の前の橙色をした不透明ガラスのドアが回転するように開いたのを見て、シュレンは目的の階に着いたことに気付いた。どこかぎこちない動きでシュレンが振り返れば、リオセスリは人の良さげな笑みを浮かべて、ん?と首を傾げた。


「降りないのか、シュレンさん」

「……降りるよ」


リフトを降りたシュレンは、先程の出来事を頭の中で思い返して、盗み見るように隣へ視線をやった。

多分、そういうことだ。彼の発言が全てだろう。シグウィンも嫉妬の対象なのか、単に自分以外を優先された、基自分のことを放っておかれたのが嫌だったのか。恋人以外の男、というのはぶつかった青年についてで、距離の近さは恐らく彼の顔をよく見ようとしたときのこと、という認識で合っているはず。そういった詳細部分の解明はこの際いいとして、理由がわかっただけまだマシだろう。シュレンはその辺りの察し能力は高くないのだ。弟子が幼い頃にヤキモチを妬いた時にも、「え、わたしに相手してもらえなかったから拗ねてたの?」なんて心底不思議そうに言うのだから。


「せっかくだ、送っていこう」


執務室はすぐそこにあるが、彼はそちらへは行こうとせず、シュレンと共に受付方面へと進んでいく。いつもは彼を気遣って断るシュレンだが、少しだけ考えて、頷いた。


「うん。よろしく頼むよ」


てっきり遠慮されるものと思っていたこともあって、リオセスリはぱちくりと瞳を瞬かながらシュレンを見た。けれど驚いたような顔をしていたのは一瞬で、彼はすぐに口角を上げる。どことなく嬉しそうな横顔が、なんだか少し、可愛らしく見えた。

受付を通り過ぎると、囚人の姿もだんだんと少なくなっていった。二人分の足音だけが響いており、リオセスリの方が体重があるからなのか、音も少し重たげだった。

リフトの前に着いたが、どうやら上に止まっているようで、シュレンは機械を操作してリフト作動させた。そうして、周囲を警戒するように視線を散らしはじめた。少し離れた場所に看守はいるものの、機械のそばは、向こうからもこちらからも相手の視覚には入らない。それが確認できると、シュレンはリオセスリにそっと手招きをした。

不思議そうな顔で歩み寄ってきた彼と共に壁の陰に隠れると、彼女は躊躇うようにして、リオセスリを抱きしめた。

遠慮がちに背中に手を回し、片手は彼の髪を優しく撫でる。そんな突然の行動に、リオセスリは反応が遅れた。ここは彼の執務室ではなく、要塞内の通路だ。あまり人が来る場所ではないし、位置的にも隠れているとは言え、誰かに見られる可能性がないわけではない。

以前逢引きしに来たなんて思われたら、などと言っていたのに。そもそも何故急に。流石のリオセスリも些か混乱しながら、抱きしめ返しても問題ないかと考えていれば、シュレンが穏やかな声音で呟いた。


「これで、ご機嫌取りにならないかなって」


それを聞いて、リオセスリはグッと眉間にしわを寄せながら、出そうになったため息をごくりと飲み込んだ。

嫉妬を表に出すのは余裕がないように見えるので、本当のところ避けたいという本音もあるが、シュレンには態度にも言葉にも出さないと伝わらない。その結果こうして彼女からのアクションが起こされたのは嬉しい誤算ではあるが、子ども扱いされている感も否めない。シュレンからすれば、成人しているリオセスリだって、子どもどころか最早赤子感覚かもしれないが。

素直に喜びづらいな、と思いながら、リオセスリはリフトの方を一瞥する。

管理エリアから居房エリア、生産エリアなどを行き来する分にはそう時間はかからない。だがエピクレシス歌劇場にある要塞の入口や、そこから管理エリアへと降りるまでは、まあまあの深さがある分、リフトの待ち時間はもちろん、乗ってからも存外長い。リフトがここまで降りてくるのに、まだ時間はあるだろう。

とりあえず中途半端に止めていた腕でシュレンを抱きしめ返してみると、頭を撫でる手が止まったが、それは一瞬だけだった。

拗ねた子どもを相手にしている、なんて思われたくはない。目の前にいるのは、こうして抱きしめている相手は、自分に惚れ込んでいるただの男だと、シュレンとて理解はしているだろうに。いまいちその辺りが抜けていると言うか、迂闊と言うか。きっと彼女の言うところの「人への愛」の一環だ。それで満足してもらおうと、そう思っているのだろうか。だとすればそれは無意味な行為なのだと知らしめたくて、リオセスリは近くにあった彼女の耳に、痛みがない程度に歯を立てた。

途端、シュレンは手を離してものすごい勢いでリオセスリから距離を取ろうとしたが、筋肉質な腕がしっかりと彼女を捕まえているので、上半身をのけ反らせるくらいしかできなかった。耳を押さえて何をされたのかと目を白黒させているシュレンの反応に気分を良くしながら、彼はそっと彼女を壁に押しつけた。

後頭部をぴったりと壁にくっつかせ、逃げられないよう片手は壁に突いて。言葉を紡げないでいるシュレンの唇を奪う。時々柔く喰んでみたり、舐めてみたりすると、シュレンの体は小さく震えた。力無く垂れ下がった眉とくぐもった吐息がリオセスリの心臓を甘く刺激するようで、彼は喉を鳴らした。

離れてはまたくっつけて。それを繰り返しながら、このまま彼女の体内に自分の感情が流れ込んで、それが重しになればいいのにと不穏にも考える。

不意に、ふるりと揺れた睫毛の下から金色が覗いた。視線が絡むと、それは潤んでゆらゆらと揺れる。はくとこぼれた吐息に混じって、小さく、小さく、キュウと音が聞こえた気がした。その姿に瞳を細めながら、リオセスリはもう一度唇を寄せた。けれど顔をそらされたので代わりにこめかみや頬、耳にキスを落としていれば、伸びてきた両手に口を塞がれた。


「これ、以上は……だめ……」


辿々しく拒否を示したシュレンは、リオセスリを睨めつけるように見ていたが、真っ赤な顔では怖さなど半減だ。その表情に悪戯心のようなものが働いて、リオセスリが彼女の手のひらを舐めた途端、信じられないような表情で手を離した。舐められたところを隠すように胸の前で緩く握る姿が、どうにもいじらしい。

もっと堪能したかったが、背後からリフトの到着を知らせる音がしたので、名残惜しげに思いながら、リオセスリは最後にもう一度だけ彼女にキスをした。わざとらしくリップ音を立てて離れた彼は、シュレンの前から一歩退く。


「ありがとうシュレンさん。おかげで、俺は今すこぶる機嫌がいい」


言い返そうと口を開くも言葉は出なくて、代わりに深々ため息を落としながら目もとを覆った彼女は、「それはなにより……」と小さな声でこぼし、逃げるようにリフトに駆け込んだ。

リオセスリが軽く手を振っていたが、シュレンは視線をそらした。扉が閉まってリフトが動き出すと、すぐに彼の姿は見えなくなって、シュレンは再度深く息を吐きだした。


「……困ったなあ……」


細々と呟きながら、シュレンはリフトの壁に背を預けると、何かを口遊む。しかしそこからは、何の言葉も、音も、出てきはしなかった。