- ナノ -

君の「おはよう」を頂戴


早朝四時半。目を覚ました水世は、部屋を出て洗面室のある一階へ行こうとした。だが不意に家とは内装が違うことに気付き、目をぱちくりとさせる。

そうだ、ここは家ではなかった。それに気付いた水世は、そそくさと部屋に戻ってベッドに座り、テレビをつけた。


《おはよう水世。おまえは絶対やらかすと思ってたんだ》


ケラケラとおかしそうに笑っている満月にムッとしつつも、水世は反論できず、挨拶だけ返した。

普段なら、この時間に目を覚ました彼女は朝食を作り、洗濯物を回し、時間になったら伊世を起こして、と中々に忙しい朝を過ごす。それが体に染みついていることもあって、つい目が覚めてしまうのだ。


《今は電車の心配をする必要だってない。何せ徒歩五分圏内だからな。二度寝でもしてみりゃいいじゃねえか、二度寝》

《眠くないからできないよ》

《難儀な慣れだな》


早朝からやっているニュース番組を見ながら、水世はそういえば、とスマホに目を落とした。

伊世は朝に弱い。そのためいつも、六時前になったら水世が起こしに行っていた。しかし今は互いに寮に入っているし、棟だって違う。伊世を起こしに行くためだけにB組の寮にお邪魔するわけにはいかないだろう。別に互いの寮を行き来するなとは言われていないが、毎朝起こしに行く姿を同級生に見られるのは、伊世にとって良いとも思えない。

そうなると、モーニングコールをするべきか。しかしそれは、あまりにも世話を焼きすぎているだろうか。迷惑にはならないだろうか。悶々と考えていれば、満月のわざとらしいため息が落ちた。


《べつに、しなくてもいいんじゃねえか?一人立ちにはいい機会じゃねえか。おまえも、あのガキも》


満月はそう言うが、しかし、水世はどうにも伊世が心配だった。そんな彼女の様子に、多少前向きになっても根付いたものは変わらないか、と満月はひとりごちた。

結局答えを出せないまま時間は経ち、時計の針は六時半を過ぎていた。この時間帯ならば誰かしら起きているだろう。そう思った水世は部屋を出ると、エレベーターで一階へ降りた。まずは洗面室で洗顔や歯磨きを行い、その後食堂スペースに行けば、やはり既に起きている生徒が何名かいた。

挨拶を交わしてランチラッシュが用意してくれたのだろう朝食に手をつける。どうやら毎日、それも朝夕で和食と洋食が選べるという厚待遇で、水世はランチラッシュの業務量が少し心配になった。

洋食の方を選んだ水世が、トレイを持って適当に空いた席へ腰を下ろすと、タタタッ、と駆けてくる音が聞こえてきた。誰かが起きてきたのだろうと、彼女はクロワッサンに手をつけようとした。


「水世いた!おはよ!」


近付いてきた足音が自分の前で止まったと思うと、元気で明るい声が彼女にかけられた。顔を上げれば、笑顔の芦戸の顔があった。少し驚きつつも挨拶を返せば、彼女の後ろから他の女子たちが見えた。


「水世の部屋に迎えに行ったけど、いないからさあ」

「そうだったの?ごめんね」

「いーよ!その代わり、一緒にご飯食べようよ!」


葉隠の提案に二つ返事で水世が了承すると、女子たちは嬉しそうに朝食を選びにいった。戻ってきた面々が席についたところで、水世はようやくクロワッサンに手を伸ばした。


「水世ちゃん早起きやね」

「そうかな?でも早く起きないと、ご飯作ったり洗濯物干す時間がなくなっちゃうから」

「水世の家は、いつも水世が家事してんの?」

「うん」

「ご両親はお仕事がお忙しいんですか?」

「ううん。どっちももういないから、私がしてるの。伊世くんは朝弱いし、重世兄さんは忙しいから」


何故だかやけに質問される。そう思いつつ、水世はサラダに和風ドレッシングをかけながら、なんてことないように返した。だがそんな彼女の言葉に、何故か食堂スペースは静まり返る。サラダを混ぜていた水世は不思議に思って顔を上げれば、質問してきた八百万や一緒に朝食をとっていた女子たちだけでなく、何故か周囲にいた同級生たちまで水世を見ていた。


「私、すみません、不躾なことを……」


途端に表情を青ざめさせた八百万が、オロオロとしながら、何故か悲しそうな表情を浮かべた。水世は益々意味がわからないと首を傾げると、満月が《おまえが親いないって言ったから、気ィ遣ってんだよ》と教えてくれた。そういうことかと心の中で頷いた彼女は、慌てて首を横に振った。


「気にしなくていいよ。そんな聞かれたくないことでもないし、私も気にしてないから。それより麗日さん、頬にごはん粒ついてるよ」

「え?うわ、ほんとや!恥ずかしー!」


両頬を押さえて照れる麗日の様子を見て、水世はクスクス笑いながらコンソメスープを飲んだ。重苦しい空気を回避したことに一安心しながら、芦戸は話題を変えた。


「そういえば、前話してた水世の幼馴染くんもヒーロー志望なの?」

「うん。ずっとヒーローに憧れてたから、よく話聞かせてくれたの。学校の帰り道に、公園で」

「どこの学校なの?」

「西の方にある学校。結構色々厳しいとこみたい」


幼馴染の話を振った途端、水世の雰囲気がパッと変わった。先程よりもどこか楽しそうな声音や表情を浮かべながら、たまに連絡を取るのだと話している途中で、不意に言葉を止めた。


「水世ちゃん、どうしたの?」

「あ、いや……電話。電話、やっぱりしなきゃって……」


そう呟くと、彼女は断りを入れてスマホを取り出し、軽く操作をすると、少し緊張した面持ちで画面を耳にあてた。











「どうした伊世、朝から機嫌悪いな!」

「誰のせいだと思ってんだ。身体中の鉄分が消失しろ」


見るからに怒っていますという顔を浮かべている伊世に、鉄哲は気にすることなく笑っている。しかしそれは彼だけで、他のクラスメイトはハラハラとしていた。それというのも、伊世の機嫌の悪さが原因である。

皆、伊世が低血圧で、寝起きは不機嫌だということを知らなかったのだ。鉄哲が伊世を起こして一階に連れてきたのだが、見るからに不機嫌オーラをまとっている彼と朝から元気な鉄哲のツーショットは、合成を疑うレベルでミスマッチであった。

普段から無愛想で仏頂面な伊世ではあるが、コミュニケーションに問題があるようなレベルではない。自分から積極的に関わってこようとはしないし、こちらからの深い関わりにも空気で拒否を示しはするが、ある程度の浅い会話であれば成り立つのだ。そのためクラスでは、一定の距離感を保ちつつも上手くやっている。

中には鉄哲や物間のように、ズケズケと踏み入るタイプもいるのでその度に顔をしかめるが、今日はその比でない。流石の物間も今の伊世には触れずにいる辺り、よっぽどである。そんな彼の様子を気にもとめない鉄哲はある意味すごいと、拳藤は思わず尊敬の念を抱きそうだった。

普段よりも眉間にしわがより、声も低く、瞳も鋭いこの男の機嫌は、寝起きからどれくらい経てばなおるのか。拳藤が頭を抱えかけた、そんな時。どこからかピアノの旋律と、男性の歌声が流れだした。外国語で歌われている、恐らくクラシックだろうその曲に周りが不思議そうにしていると、伊世が素早くスマホを取り出して、画面をタップした。


「おはよう、どうした?」


拳藤は、いや、拳藤だけじゃない。食堂でハラハラしていたクラスメイトたちみんなが、目を剥いて伊世の方を見た。数秒前まで不機嫌丸出しの低い声だったというのに、電話に出た時の声は一変して、普段よりも幾分か穏やかなものだった。ぽかんとしている周囲を放って、伊世は電話相手と軽く話している。


「……いや、迷惑じゃない。本当だよ」


僅かに、伊世の口もとに笑みが浮かんだ。ぱちりと目を瞬いた拳藤は、その表情だけで電話相手が誰なのかを理解した。彼が笑みを浮かべる相手なんて、一人しかいない。


「そうだな。その方が、俺も、助かる」


地獄のような空気感が、嘘みたいに溶けていく。電話を切った伊世は相変わらず仏頂面ではあったが、寝起きの不機嫌さはすっかり消え去っていた。


「おまえ、水世の電話には着信音設定してんだな」

「は?」

「いやだって、水世以外の電話は全部バイブじゃん。メールとか通知音さえ鳴らねえし」


さっきのなんて曲?呑気に聞いてる鉄哲に伊世は不快そうな顔をしながら、「おまえは到底知らない曲」とクロワッサンをちぎって食べている。どうやら教える気はないようだった。


「伊世、クラシックとか聴くんだ」

「意外……」

「ん」

「グリーグの『Ich liebe dich』さ」


背後から聞こえた声に拳藤たちが振り返れば、後ろの席に座っていた物間が、さっきの曲の曲名だと、伊世を見ながら呟いた。クラシック曲なんて知ってるのか、と物間の意外な知識に驚きつつも、取蔭がどんな曲なのかと尋ねた。


「和訳は『君を愛す』……その名の通りの曲だよ」


それだけ言うと、物間は視線を伊世から外し、魚の身をほぐそうと箸で焼き魚をつつきだした。拳藤は伊世にもう一度視線を向けて、物間の教えてくれた曲名を脳内で呟いた。

相変わらず、妹が大好きなのか。そんな微笑ましい感情を生むと同時に、違和感が芽生えた。仲が良すぎるような兄妹は、きっとたくさんいるだろう。あの二人は双子だから、他に比べてより一層に。

しかし、だとしても、妹以外を寄せつけず、妹以外に心さえ許さないそのスタンスを、果たして「仲が良い」だけで片付けてもいいのか。拳藤には、彼らの関係を純粋な兄妹仲と見るにはどうにも異質に思えてしまった。


「伊世って本当、妹が好きだよね」

「ん」

「……そうだね」


「好き」なんてものじゃない。まさしく、彼のそれは「愛」であるのだろう。けれどそれは重たくて、大きすぎる。まるで、自分が持っている「愛」を全て妹へと捧げて、注ぎ込んでいるかのようだ。それは果たして、世間一般でいう普通に該当するのか。

妙な危機感と、危険性。それらを覚えながらも、拳藤は考えすぎかと頭を振って、朝食の続きをとった。