そのメッセージの答えを
『――ような――ミノ――態となって――!』
ふるりと、水世の睫毛が揺れる。瞼が僅かに震えたと思うと、彼女がゆっくりと目を開けた。視界がまだぼやけるのか、瞬きを繰り返している。聞こえてきた音声はテレビからのものであると、まだ上手く働かない彼女の頭でも理解できた。
『信じられません!敵はたった一人!街を壊し!平和の象徴と互角以上に渡り合って――……』
ゆっくりとした動きで体を起こすと、水世の目にはテレビの画面が視界に入り込んだ。街中の一部分だけぽっかり穴が空いたかのように、更地になっている。そばのビルは無残にも崩れ去り、その光景だけで多くの犠牲者が出たことは見てとれた。
水世には状況は理解できなかった。だが目が覚めた時に聞こえてきたアナウンサーの中継で、敵一人がこれだけの状況を作り、その敵とオールマイトが交戦していることは把握できた。
ズームアップされたカメラには、オールマイトともう一人、男が相対していた。黒いスーツを身にまとっている。だが顔は大半が瘢痕で覆われており、ドクロを模した金属質のマスクを装着していて、不気味な雰囲気を有していた。
不意に、病室の扉が開いた。水世がそちらを向くと、ペットボトルの炭酸飲料を持った伊世が立っていた。彼と数秒目が合ったと思うと、伊世は手にしていたペットボトルを落とした。だがそれを気にすることはなく、見開いた瞳を水世から外さない。
「……水世?」
「うん。伊世くん、水世だよ」
蚊の鳴くような声で部屋に落ちた自身の名前に、水世は頷いた。伊世は泣きそうな表情を浮かべたと思うと、彼女に駆け寄り、優しく抱きしめた。彼の手や肩は、小刻みに震えていた。
「よかった……生きててくれて、よかった……」
「ごめんね、伊世くんに負担かけて……」
「負担なんかじゃない。そんなの、どうだっていいんだ。ただおまえが生きててくれただけで……それでいいんだ……」
体を離した伊世は、まるで自分が苦しんでいるみたいに顔を歪めながら、怪我や体調はどうかと聞こうとした。だがテレビから聞こえてきた爆音に、二人は視線をそちらへ向ける。
画面いっぱいに大きな土埃が立ち込めており、様子が見えない。だが数分もすればその煙も薄まっていき、消えていく。徐々に土埃の中から一つの人影が現れたと思うと、そこには、見知らぬ男が立っていた。
痩せこけた頬に、窪んだ瞳。髪型やコスチュームはオールマイトのそれだが、しかし、あの屈強で逞しい肉体は穴の空いた風船のように萎み、骸骨のような姿になっている。
「……オール、マイト……?」
伊世が呟いた。確かに、恐らく、オールマイトなのだろう。しかし容姿の変化が著しくて、誰もがすぐには彼を認識できなかった。敵の“個性”なのか、それともこれが彼本来の姿であるのか。真偽は何にせよ、この痩せこけた男が、平和の象徴その人であることに、間違いはなかった。
呆然とする伊世のそばで、水世は以前オールマイトと話した時のことを思い出した。
「……自分自身を、全て曝け出すこと。それは、恐怖が伴うものだろう。しかしそれでも、君は君だ」
あの時のあの言葉は、もしかすると自分に告げると同時に、オールマイト自身にも言い聞かせていたのかもしれない。水世はそう考えながら、どんな姿になろうとも強い光を放つヒーローの瞳を、画面越しに見つめた。
いったい二人がどんな話をしているのかは定かでない。だが、オールマイトの瞳に灯っていた光が、一瞬で揺らいだ。敵が何を言ったのか、どんな弱みを突いたのか、その場にいない水世には到底わからなかった。だが笑顔を絶やさないオールマイトの顔から、笑みが消えた。
人々を安心させてきた笑顔。それだけのことに掛かる重圧と責務をたった一人が背負うのはあまりにも酷だ。ヒーローは、ヒーローという種族ではない。それは肩書きに過ぎず、彼らもまた、人間であるのだから。
水世にとってオールマイトという存在は、何よりも理解が難しい存在であった。ヒーローをしていることではない。驚異的なパワーを持っていることではない。どんな時でも笑顔を絶やさず、ヒーローとして人々の前に立つその姿が、理解しがたいものだったのだ。誰か一人でもそこにいるのなら、自分を見ている者がいるのなら、彼はヒーローになる。ではいつ、彼はヒーローでなくなるのか。ヒーローという服を脱いで、休むのか。心底不思議であったのだ。そんな彼の笑顔が崩れたこと。それは、不謹慎ながらにも、水世は少し安堵してしまった。
彼はやはり、ちゃんと、人間であるのだと。
「……先生。あなたはどんな姿でも、きっと、平和の象徴なんですね」
オールマイトの片腕だけが、膨張する。盛り上がった筋肉は、彼の右腕のみにしか現れていない。その格好はひどく不恰好なものであったが、水世にはかっこよく映った。
彼のその折れない姿に、ふわりと、敵の男は軽々宙へ浮かんだ。ブクッ、と敵の右腕が膨れ上がっていく。相手が何かを仕掛けようとした、その時。
強烈な炎が、敵へ向かっていた。現れたのは、エンデヴァーだ。そばにはエッジショットも立っており、オールマイトの窮地に駆けつけたのだとわかる。
『なんだそのっ、情けない背中は!!』
エンデヴァーはオールマイトの姿を見ると、大声で怒声にも似た叱咤を飛ばした。それは応援とは言いがたいものではあるが、しかし、彼を超えようと必死に研鑽を重ねた彼だからこそ言える言葉でもあった。
駆けつけたヒーローは、その場にいた要救助者を救けたり、敵に向かっていったりと、それぞれが出来得る最善を尽くそうと動いている。ヒーローとして、その場に立っている。
激しい轟音が鳴り響いた。衝撃波のようなものを体から放出した敵の右腕から、バキ、ゴリ、と音が鳴りだした。そして、禍々しい、歪で巨大な腕を模した。
数本の腕が重なり合い、金属のようなものが肌にのめり込んで、食い込んでいる。不気味で気味の悪いその姿は、一種の絶望感を彷彿とさせる。
腕を振りかぶった敵は、地上に立つオールマイトへと向かっていく。オールマイトはその拳に、真正面から自身の拳を突き合わせた。二つの巨大な力がぶつかり合い、先程の比ではない規模の衝撃波が辺り一帯を包んだ。土煙は高く舞い、地面やビルは崩れ、瓦礫が宙を飛ぶ。
恐らくヘリコプターが爆風で揺れているのだろ。カメラが不安定になっており、アナウンサーの叫び声が聞こえる。土煙で地上の様子はまったく見えず、今戦闘がどうなっているかもわからない。
『――おおおお!!!』
獰猛で、しかし力溢れる雄叫びが聞こえたと思うと、土煙が一瞬で割れて、晴れていく。更地の一部が凹んでおり、そこには敵が地面に沈められていた。
ボロボロで、少しよろけながらもオールマイトが立ち上がった。彼は血だらけな左腕を天空へ掲げたと思うと、見慣れた筋骨隆々な体で、しっかりと仁王立ちで、静かに勝利を告げた。
『敵は――……動かず!勝利!オールマイト!勝利の!!スタンディングです!!!』
アナウンサーの声は涙にまみれていた。アナウンサーだけではなく、この放送を見ていた人々は皆、涙していたことだろう。それだけの恐怖、不安、絶望がそこには存在し、それを全てオールマイトは晴らして、照らしたのだ。
「……やっぱり、眩しいです。先生は、眩しい」
けれどその眩しさを、今は羨ましいとは、水世は思わなかった。
オールマイトの交戦中にも、ヒーローたちによる救助活動は続けられていた。その中にはグラヴィタシオンの姿もあり、彼はウワバミの指示のもと、瓦礫を“個性”で軽くして退かしていた。
『元凶となった敵は今……あっ、今!
カメラに気付いたオールマイトは、顔はそちらへ向けることはなく、ただ指を差した。
『――次は君だ』
それは短く発信されたメッセージ。まだ見ぬ犯罪者への警鐘、平和の象徴の折れない姿がそこにはあった。しかし水世は、違う意味でそのメッセージを受け取った。
「伊世くん……私、私……」
オールマイトの姿から視線を外した水世は、伊世を見上げた。
「誰かを救けられる存在に、なりたいの。手を差し伸べられるような存在に。だから、私――誰かのヒーローになりたい」
そのためにも、ちゃんと向き合っていきたい。水世がそう告げた途端、伊世の顔は泣きそうに歪んだ。
:
:
:
「もしもし?」
水世が意識不明となっている間に、幼馴染からの着信の量は大変なことになっていた。林間合宿の件はメディアも大きく取り上げており、水世は知らないが校長と一年の担任である相澤、ブラドキングによる記者会見も行われたのだ。当然全国放送なのだから、幼馴染の耳にも情報はすぐさま入っていた。
伊世が帰った後に水世が折り返し電話をすれば、ものの数秒でコール音は途切れて、大きな音がスマホのスピーカーから聞こえた。
「ごめんね、電話出れなくて。今病院で……」
「"怪我は?大丈夫なんスか?"」
「うん。もう大丈夫、そんな大した怪我でもなかったから」
口からでまかせを吐きながら、水世はイナサを落ち着かせようと電話越しに笑った。だが彼女の言葉を、すぐに彼は否定した。水世は笑顔を浮かべたまま、表情を固まらせる。
「"本当は?"」
たった一言。その一言だけで、張り詰めていた糸が切れたかのように、水世は言葉をこぼした。
「…………お腹、抉れて……足も深く切ってて…。あと、肋骨も、折れちゃって……」
「"うん"」
「痛くて……でも、守らなきゃって……そばに、私なんかと仲良くしてくれる、女の子がいたから……だから、それで……」
真っ白な布団が濡れて滲む。水世はポタポタと涙を落としていきながら、途切れ途切れな言葉になりながらも、イナサに言葉を伝えていった。
「イナサくん…………私も、誰かの救けになりたい……みんなみたいに、ただ困っている人に手を差し伸べられるような……誰かに、少しでも光を与えられるような……そんな、存在に、なりたいって……そう、思ったの……」
「"なれるよ。水世ちゃんは昔から、優しい子っス。誰かの痛みがわかる、優しくて、温かい子なんスから!"」
病室には、水世の静かな泣き声が響いていた。