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本当の君を知りたいんだ


伊世が帰った後の病室の空気は、より一層の重さを増していた。呆然と閉まった扉を見ることしか、彼らにはできなかった。

彼らにとって、誘水世は大事な仲間である。しかし、だというのに、自分たちは彼女のことを何も知らなかった。その事実が、心に深々と突き刺さる。


「……水世ちゃんは……水世ちゃんは、私たちのことを、信頼してくれてなかったんでしょうか……」


八百万の言葉に、誰も何も言えなかった。

今思い返してみれば、水世は自分のことを話すことが少なかった。彼女はこちらが質問をしても答えを返してくれるだけで、そこから細部に話を広げることもしなかった。聞かれたことに忠実に、その答えのみをこちらへ与えてくれていただけだった。

クラスメイトの彼らから見た誘水世という人物像は、「強力な“個性”持ち」で、「謙虚で冷静」な「どこか大人びた雰囲気」を持った少女。喜怒哀楽の怒と哀を見せることはなく、いつも微笑みをその顔に浮かべていた。そこに対しての違和感や疑問を、誰も抱かなかったのだ。


「人には、感情があります。笑ったり、怒ったり、時に泣いたり。それは当たり前のことなのに……クラスメイトとして水世ちゃんと過ごしてきて、私、一回も、水世ちゃんが感情をあらわにしてるところ、見たことないんです」

「それは私もよ。水世ちゃんはいつも笑ってたわ。でも、それがおかしいことだって、私たち、誰も気付けなかったの」


常に笑みを浮かべていられる人間など、果たして本当に存在するのだろうか。表があるなら裏があるように、光があるなら闇があるように。正の感情があるのなら、当然負の感情だってある。水世も決して例外ではなく、彼女にも怒りや悲しみがあるはずなのに。少し考えれば誰だってわかることだったのだ。

「見せない」だけであって、「ない」ということとは違うのだと。


「見せなかったことに、教えてくれなかったことに、何かしらの理由はあるはずだ……俺たちへの信頼だって、関係している可能性はある」


複製されていない、障子自身の口から、重々しげに言葉が吐き出された。視線は彼へと集中し、部屋が一瞬静まり返った。


「いや、しかし、誘くんは俺たちに真摯に向き合ってくれていた。彼女の言葉はしっかりと心があった!」

「だが、信頼関係とそれらは、イコールで結ばれるわけじゃない」


いの一番に反論を示した飯田は、以前彼女の言葉に励みを貰ったことがあった。水世が自身にかけてくれた言葉で背中を押された彼だからこそ、障子の言葉は容易く信じることができなかった。


「以前、水世から幼馴染についての話を聞かせてもらったことがある」


それは、ほんの些細な日常の一片で、特に重要でもないやりとりでしかなかった。障子にとって、「クラスメイトの意外な一面を知った」瞬間でしかなかったのだ。今日、この時までは。

障子はその時の水世との会話を思い出すように、一度ゆっくりと瞬きをした。


「その時の水世は、雰囲気が、表情が、声が、普段とは違っていた。今思えば、きっとあちらの方が水世の本来の姿だったんだろう。俺たちへの言葉も彼女の本心ではあると思うが、だが、二つを比較してみれば、そこに確実に違いがあった」

「その違いって……?」

「恐らく、信頼度ではないかと俺は考えている。信頼していなくたって、慰めることも、励ますこともできる。それに、あの時、水世は確かに、その幼馴染を『好き』だと言っていた」


いつもなら、上鳴や芦戸辺りが、普段に比べて饒舌な障子を軽く茶化したりしていただろう。しかし今は、そんなことはできなかった。

慰めも励ましも、必ず信頼が必要なことではない。これらは赤の他人同士でも成り立つことができるのだから。泣いている知らない子どもを慰めることに、信頼は重要ではない。

障子の言葉に、誰も彼も、納得してしまった。自分たちにかけてくれた言葉は紛れもなく本心であっても、そこに親密な関係性はない。あくまで予想でしかないものの、しかし、妙な説得力がそこにはあった。数十分前に出ていった伊世に言われた言葉も、それをまた物語っているかのようで。

「嫌いじゃない」は「好き」ではない。本当にその通りであった。水世は「好き」と明確に言葉にはせず、「嫌いじゃない」という曖昧な言葉を口にした。だがその言葉を、誰も彼もが勘違いしていただけであった。第三者にいざ聞かれてみると、指摘されると、浮き彫りになっていく違和感と、明かされていく明確な線引き。彼女はその違和感も線引きも、決して悟らせることなく、見せることなく、気付かせることなく、彼らに勘違いを引き起こさせていた。

そんな彼女が唯一「好き」だと口にしたのは、彼女の幼馴染に対してだけ。


「なら、私たちが見てた水世って……全部、嘘だったの?」


信じられない。信じたくない。そんな思いが乗った声音に、誰も否定の声を上げなかった。上げることが、できなかった。彼女の今までの全てが嘘でないと言えるだけの自信が、今の彼らにはなかった。


「水世ちゃん、ボロボロだったんです。私を助けてくれたとき、いつ倒れてもおかしくない状態だったんです」


重い重い沈黙の中、ベッドに座っている八百万が強く拳を握り締めながら、震えた声で呟いた。


「私に傷を見せないようにお腹を隠して、私に言ったんです。水世ちゃんの方が酷い怪我を負ってたのに、『大丈夫』って、『これ以上、怪我をさせたりしないから』って……!」


ついに、八百万の瞳から涙がこぼれ落ちた。悲痛に、苦しげに、声を押し殺して泣きだした八百万の背中を、麗日が優しく撫でた。だがそんな彼女の表情も、今にも泣きだしてしまいそうなほど歪んでいた。

八百万以外、水世の怪我をしっかりと見た生徒はこの場にいない。相澤に抱きかかえられていた彼女を見はしたものの、ぐったりとした青白い肌の体に、顔を覆ったり、目をそらしたり、目の前が真っ暗になったり。皆重体を負った彼女の姿を、まっすぐには見れなかった。夜で明かりもなく、物理的に見えづらかったというものもあるだろう。しかし、皆、クラスメイトが死の淵にいる姿に、現実味を感じられなかったのだ。

あまりにも身近な存在から、死の匂いと空気を肌で感じとった。敵連合に襲撃された時以上の恐怖を、彼らは抱いた。何せあの時は、生徒には大きな怪我もなかったし、オールマイトという安心できる支柱がいたから。だが今回、多くの生徒が大なり小なり怪我を負い、意識不明だったり、拉致されたクラスメイトだって出た。

そんななかで、「生きている方が不思議」とまで言われたほどの重傷を負い、今にも消えかかっている命が、目の前にあった。担任の腕の中で、力なく腕を垂らし、元々白い肌はより一層白く血の気が引いており、ポタポタと地面に血が垂れて、相澤の服も彼女の血で真っ赤に汚れてしまっていた。

それほどの怪我を負っていた水世を、八百万は正面から目にしていた。もし自分が彼女と同じ状態で、果たして同じことができただろうか。同じほどの傷を負って、笑って立っていられただろうか。――きっと無理だ。

それなのに、自分は水世を置いて逃げてしまった。それが八百万の中では罪の意識として心に居座り、血を吐きながらも体を奮い立たせていた姿が、一種のトラウマのように脳に焼きついた。しかし――。


「私、信じません……全部嘘だったなんて、絶対に信じません!だって、だって……水世ちゃんは、あの時、笑ったんです!私を見て、安心させようと、傷だらけの体で、私に笑ってくれたんです……!私のことを、泡瀬さんを、みんなを守りたいって言ったあの言葉は、決して嘘じゃなかった……!」


あの時確かに、誘水世は、八百万にとってヒーローであった。痛みなんて放って、目の前で苦しんでいた自分を優先して、優しく笑った彼女はまさしく、ヒーローに見えた。そんな彼女の決死の行動が嘘だなんて、八百万は思ってほしくなかった。

苦しそうに呼吸をしながらも、切実な声で言われた「守りたい」という言葉。決して自分のことを話さない、自分の気持ちを話してくれなかった水世が、初めて思いを口にしてくれた瞬間であったのではないか。八百万は、泣きながらその時のことを思い返し、唇を噛みしめる。だがすぐに涙を拭って、顔を上げた。


「私は、水世ちゃんのこと、知りたいです。今度は、もっとしっかりと、彼女のことを知りたい。仮に水世ちゃんが嘘をついていたのだとしても……それでも、かまいません。きっと理由があるはずだから。水世ちゃんだって、ずっと笑っているわけじゃないはずだから」


目元を赤くしながら、八百万は強い意志と決意を込めた瞳をしていた。誰かが息を呑み、そして、空気が揺れた。


「――俺も、水世のこと、知りたい。本当の意味で、仲良くなりたい」

「俺もだ。関係を築くのは、まだ遅くはないはずだ。これから、少しずつでも歩み寄っていけばいい」


真っ先に賛同の意思を見せたのは、轟だった。常闇が後に続き、それを皮切りに、さっきまで落ち込みを見せていた他のクラスメイトたちも、大きく頷いて、自分たちもだと声を上げた。暗く淀んでいた空気が、徐々に徐々に、晴れ間を見せていく。

水世ちゃん。水世ちゃん。私、あなたのことが知りたいです。あなたと真の友人になるために。だから、どうか、目が覚めたら、また笑いかけてください。

今はまだ目を覚さぬ彼女に向けて、八百万は決意表明を心にかざした。