- ナノ -

あまりにも単純な感情で


今の水世の脳内には、伊世の安否しかなかった。自分がどの位置にいるのかもわかっていないために、ひたすらに走る。どれだけの時間をこうして走り続けたかさえ、水世にはわからなかった。忙しなく動く視線で、見知った黒髪を探し続けた。

パキリと、彼女の足が木の枝を踏みつけた。それに反応したかのように、彼女の目の前に何かが現れる。


「ガッ、ァ……?!」


勢いよく振りかぶられたそれは、彼女の体を思いきり吹き飛ばした。巨大な何かに殴りつけられた水世の体は、木々に打ち付けられ、その威力と勢いに、木々がなぎ倒される。

突然の出来事に混乱している脳だが、背中と腹部の尋常じゃない痛みに悶えた。内臓が破裂したんじゃないか、骨がいくつも折れたのではないか。そんなことさえ思うくらいだ。

咳をした途端、口からボタボタと血が吐き出された。半袖なために晒されていた腕には、擦り傷と切り傷がいくつもできている。どこまで飛ばされたのかもわからなければ、現在地さえ把握できていない。

獰猛な雄叫びのような声が辺りには響いており、恐らく水世を攻撃した何者かの声だろう。避けて通っていくしかないか。そう考えながら、グラグラする頭や痛みを訴える体に鞭打って水世が立ち上がれば、満月が柄にもなく焦った風に彼女の名前を呼んだ。


《水世、ここでおとなしくしてろ!アイツだって弱かねえし頭も回る。上手く避難してるはずだ!》

《何かあってからじゃ遅い……もし、もし、伊世くんが危険に晒されでもしたら……》


体を引きずりながら進みだした水世に、満月は舌打ちを落とした。

ただでさえ契約による能力制限がかかっている状態で、この様子では自発的に自己治癒を行う気もないと見た。契約がある以上は”顕現“もできない。当の本人は聞く耳さえ持っておらず、満月はどうやって水世を止めるかと思考を回転させていく。そんな彼の考えなんて微塵も知らない水世は、ヒューヒューと息を漏らしながら、地の利もない森の中を進んだ。

不意に彼女の耳に、機械音が掠った。近付いてくるその音に、顔をそちらへ向けていれば、木々で見えない暗がりから、怪物が飛び出した。

見上げるような巨体のそれは、彼女を視認した途端に、間髪入れずに腕を振りかぶった。しかしその腕の先にあるのは手のひらや指ではなく、けたたましい音を鳴らすチェンソーであった。

間一髪チェンソーを避けた彼女だったが、相手の腕は何も二本ではなかった。背中から複数も、ドリルやハンマーなどがついた腕が生えている。避けた拍子に地面に尻もちをついた彼女に向けて、ハンマーのついた腕が水世の頭目掛けて振り下ろされる。地面を転がるようにして避けた彼女は、素早く立ち上がって謎の敵と距離を取った。

それは、脳無と呼ばれる例の敵であった。実際に脳無と会敵したことが初めてな彼女は、その言い表せない不気味さに顔を歪める。「ネホヒャンッ」という謎の言葉を発するソレは、水世を敵と認識したようで、休む暇を与えないかのように彼女に武器を向けた。

動くたびに、呼吸をするたびに肺が痛む。そんな状態では攻撃に移るのも難しく、また苦手な接近戦、視界も暗くて見えにくく、水世には不利な状況であった。唯一相手の音で場所や距離を把握できるくらいで、しかしそう素早く動けるような状態でもなく、相手の攻撃を避けるので手一杯だった。


《水世、バリアを張れ!今のおまえの状態でコレをまともに相手してたら死ぬぞ……!上手く相手を撒け!》

《でも、もし伊世くんとアレが会敵したら?》

《そんなもしもを考えてる暇はねえだろうが!》


怒声を浴びせる満月の言葉に、水世は「でも」と渋り続ける。だがそれが、大きな隙を生んでしまった。

ぐちゅり。いやに生々しい音がその場に響いた。満月の息を呑んだ音が水世の脳内に聞こえる。ヴィイイイイイという機械音は相変わらず鳴り止まないまま、ビシャビシャと血飛沫がその場に飛び散った。

水世の右の横腹が、脳無の腕の一本であるドリルに抉られた。幸いなのは背中まで到達していないことか。しかし口内を覆う鉄の味のせいで喉には違和感が張り付いて、肉や内臓に与えられた強烈な痛みは、彼女に叫ぶことさえ忘れさせた。


《水世?水世!おい、水世!》


必死に自分を呼ぶ満月の声に、水世は返事をする力もなかった。乱暴な仕草で放り捨てられら体は、受け身も取れぬまま地面に叩きつけられた。地面に血溜まりを作るだけの彼女に興味をなくしたのか、脳無は水世に見向きもしなくなって、歩きだした。

喧騒も、満月の声も、どこか遠ざかっていくような感覚。死んだかもしれないとさえ思えて、水世は虚ろな瞳のまま、去っていく巨体を見つめる。

早く起き上がらないと。早く、早く。伊世くんが危険な目に遭う前に。私が伊世くんを守らないと。

彼女が必死になって自分に訴え続けていた最中。不意に、草木の揺れる音がした。話し声のようなものも微かに聞こえる。果たして敵なのか、それとも助けなのか。もしくは――そこまで考えて、鈍い音が彼女の耳に薄っすらと聞こえた。


「八百万!?大丈夫か!!」


八百万?ほぼ落ちかけていた意識が僅かに戻った。重たい瞼を開けて、震える腕で体を支えながら状態を起こす。なんとか四つん這いの状態にまでなりはしたものの、腹部だけじゃなく、口からも涎のように血が垂れ流れた。

朦朧とする意識を引き戻しながら顔を上げれば、少し離れた場所に脳無らしきシルエットがあった。そのそばで、声が聞こえる。ガクガクする膝を叱咤して立ち上がり、覚束ない足取りでそちらに向かっていけば、声は大きくなった。

ようやっと、脳無の前に人影が見えた。二人の子どもだった。ぐったりした様子の少女を支えるように、少年が脳無から後退りしている。ぱちり、彼女の視界が僅かに晴れる。頭部から血を流している少女は、見覚えがあった。それは、普段彼女の目の前の席に座っている女子生徒、八百万百だ。

B組の泡瀬洋雪が、必死に八百万に呼びかけている。泡瀬に支えられている八百万の姿が、水世の瞳にぼんやりと映っていた。生理的な涙が浮かんでいる八百万だが、その涙を決してこぼすまいと、必死に痛みに耐えているようだった。


「ですので、つい誘さんに話しかけてしまい……あなたは、普段は他の方と昼食をとったり、談笑をしておりますが、この時間帯なら色々お話できるのではと……」

「あ、あの……水世ちゃんと、お呼びしても?」

「私が、水世ちゃんに何かしてあげたいんです。こうして一緒にお昼を食べたり、色々お話したり、そのお礼も兼ねて」

「水世ちゃん、グラヴィタシオンに憧れて雄英を受けたと言っていたでしょう?憧れのヒーローに見初めてもらえるなんて……」

「水世ちゃんは、幼馴染さんのことが、本当にお好きなんですね」



走馬灯みたいに、八百万との思い出が水世の脳内に駆け巡った。苦しんでいる彼女を見て、今まで彼女の頭の中を埋め尽くして伊世の存在が僅かに消えたと思うと、八百万の安否がその空間を埋めるように浮かぶ。

勇気を出して自分なんかに声をかけてくれた彼女。自分なんかにお礼だと言って、何かをしてあげたいのだと笑った彼女。嘘を信じて、まるで自分のことのように喜んでくれた彼女。何故だか少しだけ、寂しそうに笑った彼女。

――救けたい。彼女を守りたい。

水世は使命感に駆られたかのように、本能に従うかのように、その考えを浮かべた。

水世の手のひらから魔法陣が展開されてコンマ数秒。エネルギー弾が脳無の体を襲う。脳無の体が軽く吹き飛ばされ、木々をなぎ倒して数メートル先で止まる。だが分厚い皮膚に覆われているのか、傷一つどころか、擦り傷さえついてやしない。しかし脳無の意識が水世へズレた。瞬間、即座に瞬間移動を使って、泡瀬たちの前へ移動した彼女は、手で口もとの血を拭った。


「誘……?おまえ、その怪我……!」

「私が、相手してる間に……遠くに、逃げて。大丈夫……私の怪我なら、治るから」

「治るっておまえ、腹抉られてんだぞ!?」

「……水世、ちゃん……?」


頭部を強く打ち付けられたことで、八百万の意識は朦朧としている様子だった。泡瀬の怒鳴るような声でようやっと水世がそばにいることを理解したくらいだ。焦点の定まらない瞳で水世を見た彼女を振り返ると、水世は痛みを我慢しながら抉られた腹部が見えないように立ち、笑みを浮かべた。


「八百万さん、そんな顔しないで。大丈夫。これ以上、怪我をさせたりしないから」


“個性”を発動させた途端、水世の腕の擦り傷や切り傷が塞がっていく。再生されていく皮膚に、泡瀬は目を瞬かせた。小さな傷が治った彼女はすぐに“個性”を解くと、またすぐに“個性”を発動する。


《水世、相手をすることは考えるな!制限がある以上、全快は時間がかかりすぎる!そもそも体抉られてんだ、そこの二人と逃げろ!!》

《逃げない。もし逃げたとして、コイツが標的を私たち以外に変えたとしたら?》

《あのクソガキなら上手く――》

《違うの……!》


満月の言葉を遮るように、水世は否定した。じっと脳無から視線を外さないまま、彼女は魔法陣を展開すると、黒槍を脳無のそばの木々から出現させていく。それは脳無の腕を貫く前に、収納するみたく背中に六本の腕をしまった。多少知性があるようで、水世は眉を寄せながら“個性”を解いた。


「八百万さんを……泡瀬くんを……他の、みんなのことも……!少しは、守りたいの……!」


激しく咳を落とした彼女の口から、またも血が垂れていく。それでも気にした様子のない水世は、泡瀬に八百万を引っ張って逃げるように告げた。


「逃げるって、そんな状態のおまえを置いて逃げれるかよ!!」

「大丈夫、治るから」

「っ、待ってください……!ここは、協力しましょう……!」


痛みに顔を歪めながら、八百万が声を上げた。水世は荒い呼吸のまま彼女を見つめて、数秒黙った。その間にも脳無は距離を詰めてきており、彼女はフッと息を吐くと、小さく笑って頷いた。


「今の私たちじゃ、倒せないのは目に見えてる……だから、私が相手の動きを止めるから、その間に、逃げよう。そうだ、八百万さん、発信器とか作れる?」

「は、はい」

「なら発信器、敵に、つけておこう」

「それは俺に任せろ」


泡瀬の“個性”は「溶接」。触れたモノ同士を分子レベルで結合でき、それは生き物から無機物まで溶接可能となる。しかし結合したいモノとモノとを触れていなければ不可能なため、水世が動きを止めている間に発信器を結合する、という作戦を三人は立てた。

向かってくる脳無を見据えた水世は、地面を軽く爪先で叩いた。瞬間、脳無の足元に小さな地割れが起こる。足場を崩されたことで立位が困難になったところを、水世は一度“個性”を解いてから魔法陣を展開させた。その中から勢いよく飛び出てきたのは、真っ黒な鎖だ。その鎖は脳無の体に巻きついて、一瞬で動きを封じ込めた。


「二人とも、今のうちに……!」


じわじわと紋様が伸びていく。制限時間は迫っており、八百万は持ちうる知識を活用して、小型の発信器を手のひらから創り出した。それを受け取った泡瀬は、鎖を引きちぎろうともがく脳無に駆け寄り、脳無の背中に小型の発信器を結合させると、すぐに距離を取って八百万の隣に戻った。

それを見届けた水世は、にっこりと微笑んで二人を見た。


「八百万さん、泡瀬くん、あとは任せて。……絶対、立ち止まっちゃダメだよ」


背後を振り返った彼女は、八百万に肩を回した状態の泡瀬に突風を浴びせた。それと同時、ピキッとヒビの入ったような音がする。


「え?」


二人の体を乗せたその風は、みるみるうちに水世から遠ざかった。人の体さえ飛んでいくような勢いの風は、水世と脳無が辛うじて目視はできる距離までくると、ふわりと消えた。

二人の体が地面についた時、脳無を縛っていた鎖が、思いきり弾け飛んだ。ようやく自由になった脳無は、狙いをそばにいた水世一人に定める。

サッと青ざめた八百万が、彼女のもとに戻ろうと駆け出そうとした。


「二人とも行って!!」


だがその行動を予測していたのか、脳無から目を離さないまま、水世は叫んだ。その拍子に肺が痛みを訴え、咳と同時に血が吐き出たが、彼女は気にしなかった。

水世の気迫のようなものに押されて、泡瀬は八百万を引っ張りながら走った。八百万の止める声が聞こえるが、泡瀬は足を止めなかった。その表情は悔しげに染まり、今にも唇が切れてしまいそうなくらいに噛み締められていた。

彼だって、本当は逃げたくなんかない。自分と同い年の少女を、しかも自分たちよりも酷い怪我を抱えた状態で置いていくなんて、ヒーローにはあるまじきだと。しかし今の彼にはこうする他なく、自分の弱さを痛感させられていた。自分にできることは、ただ一刻も早く、助けを呼びに行くことしかなかった。

水世は脳無と対峙しながら、ともかく相手の武器を一つでも減らさなくては、と思考を巡らせる。気を抜けば落ちてしまいそうな思考回路を必死に繋ぎ止めながら、彼女は辺りの状況を見回した。

下手に炎を使えば火災が起こる。風も弱い。エネルギー弾は威力が弱すぎた。水だと火力が心ともない。土も先程以上の規模のものを行えば、自身の足もとにも影響が起きてしまう。相手はパワーに加えて物理的な攻撃の手数が多く、且つ水世の苦手な近接タイプ。様々な点から見ても、圧倒的に彼女が不利な状態。

それでも水世は、背を向けることはしなかった。自分が逃げて、相手が別の標的を見つけたとしたら。もし他の誰かが自分のような大怪我を負ってしまったら。八百万のように、怪我を負わされてしまったら。

ただ、守りたいという一心だった。あの日、職場体験の時。小さな命を救った。救うことができたのだ。自分の力でも、“個性”でも、他者を救けることができると知った。自分みたいな者でも誰かを守ることができるのならば。手を差し伸べられるのならば。損得だとかそんなことは関係なく、そんな純粋で、まっすぐな気持ちは、水世の胸に強く熱く灯った。

怪我の具合もよくない。“個性”は一度解除して再び発動させなければ、自我を保てない。だが今はそんなことを言っている場合ではなくて、そこに頭を回す余裕はない。水世は肘辺りまでが紋様で覆われている左腕を一瞥し、一つ覚悟を決めて、周囲に自分と脳無以外がいないかを確認した。


《満月、ごめんなさい。もしもの時は、私を、お願いね》

《!水世、おまえまさか……》


伊世くん、ごめんなさい。囁いた水世は、ドーム型バリアで自分と脳無を包むと、それを継続させた。そのまま瞬間移動、エネルギー弾、黒槍、と能力を次々に使っていく。左腕の紋様を消すこともしないために、肘から肩へと広がりを見せていく。

大きな拍動が聞こえた。水世は僅かに顔を歪めたものの、強い意志を宿した瞳は、翳りが見えない。彼女は紋様が肩を覆った状態のまま、脳無に向かって走り出した。自身より大きな巨体は六本の腕を思うがままに振り回して襲いかかる。

真正面から攻撃を仕掛けると見せかけ、水世は軽く跳んだ。流石に六本の腕全てを避けることはできず、チェンソーの一つが彼女のふくらはぎを抉る。痛みに顔を歪めた水世だったが、それを無視して、足を切り落とそうとしているそのチェンソーのついた腕を、地面から出した細い黒槍で貫いた。

そこで、水世の意識はフェードアウトした。