- ナノ -

**から全ては始まった


林間合宿は、早くも三日目となった。“個性”を伸ばす訓練は当然続けられており、水世は相澤の近くで訓練をしていた。彼女のそばには補習組もいるため、今回は一次拘束の持続時間を伸ばすことを目的とした訓練だ。

今にも倒れてしまいそうな切島たちは、通常の就寝時間よりも遅く就寝するため、睡眠時間が他とは違う。そのため眠気に襲われているのである。

相澤は五人の課題点を正確に挙げながら、どの部分を伸ばすべきかを告げると、何故他より疲れているかの意味をしっかり考えて動け、と鋭い視線を向けた。彼の矛先は麗日と青山の方へも向かう。曰く、二人も赤点は逃れたもののギリギリのラインで合格だったそうだ。


「何をするにも、原点を常に意識しとけ。向上ってのはそういうもんだ。何のために汗掻いて、何のためにこうしてグチグチ言われるか、常に頭に置いておけ」


原点。その単語は、水世の頭に居座った。自分の原点とは、果たしていったい、なんであるのか。それがどうにも浮かばないでいる。

緑谷がふらつきながらも、相澤に他の先生方は合宿に来ないのかを尋ねている間も、彼女の脳内は「原点」という言葉に支配されているかのようだった。


《皆、〈原点〉を持っている。それに気付くか、気付けないかで大きく変わってくるだろう。物事には始まりがある。人間の夢、意志も同じさ》

《私の原点……始まり……》

《難解ではあるが、答えは存外単純さ。ただ、素直になればいい。難しく考えすぎるのはおまえの悪い癖だぜ?》


自分の原点なんて、そもそも考えることなんて滅多にない。探してみようにもどこを探せばいいのかさっぱりだ。加えて自分自身をしっかりと理解できてもいないのだから、余計にわからなくて頭をひねってしまう。

満月からこぼれる楽しそうな笑い声を聞きながら、妙に盛り上がってやる気に溢れている周りを尻目に、水世は「原点」という単語が回っている脳内に、頭痛を覚えそうだった。











原点。物事の始まり、出発地点。人は誰しも原点を手にしており、心に持って生きている。自分の原点に気付かない者も少なくない。

まったくもって検討もつかないらしい体の主にケラケラと笑い声を上げる。拗れて、捻れて、曲がりに曲がった道を辿っている彼女。それも他人が好き勝手弄くり回した道なのだから、歩く本人は理解できていない。まさに生まれた瞬間ハードモード。生きているだけで溢れる絶望、劣等感、疎外感のオンパレードな道だ。当然スタートがどこだったのか丸っきりわかっちゃいやしないのだ。

嘘と本音で塗り固めた皮は意外にも分厚く、且つ本人さえ気付かないほどに塗りたくられている。無知で純粋であった頃に教え込まれた思い込みや刷り込み意識というのは根深く、周囲の環境や関係という要因は大きい。

故に、ここ最近の自身の変化についていけていない。いや、彼女は何も変化などしていない。変化していると思っているだけ。思い込んでいるだけで、実のところ、根本は昔のままだというのに。

押し込まれ、制圧され、押し潰されてしまった“誘水世”という存在は誰に知られることもなく、誰も見てくれることもなく、誰も気付いてくれやしない。隠すことが上手すぎたというのもありはするだろう。繕うことが、欺くことが上手かったこともあるだろう。

だがしかし、しかし。敢えて言おう。表面だけ見て知った気になっている周囲が悪いのだと。彼女に非があったとしても、それでも半数以上の非は彼女の周囲にあるのだと。水世という人間は、被害者であるただの少女なのだと。


《考えろ。しかし考えすぎるな。至って簡単なことだ。鍵を開ける、紐を解く、電気を点ける。それくらいに簡単なことなんだぜ》


固定観念の壁は頑丈だ。だがヒビさえ入ればあとは割れるのを待つだけである。小さなヒビでも複数入れば壊れるのも時間の問題なのだから、そのヒビを少しずつ、少しずつ増やしていくだけ。この「原点」というヒビが入りさえすれば、この少女の泣き顔を、拝むことができるのだろう。


《……満月にも、原点ってあるの?》


待ち望んでいるその時に思いを馳せていれば、彼女の声に意識が引き戻された。

名前はないと再三言っているが、この件については妙に頑固で聞きやしない。今やお約束みたくなっている言葉を返しながら、自身の「原点」を振り返った。

「原点」は誰にでも、何にでもある。人間以外にも、事象や物など様々に。当然自身もそれを持っているし、自覚もしている。しかしそれをこの少女に素直に伝えることはない。もしかすると今後話す日が訪れるのやもしれないが、それが今ではないことは確かであった。


《さっきも言ったが、皆それを持っている。当然オレ様にもあるが、おまえは知らなくてもいいことだ》

《満月は私の〈原点〉を知ってるのに?それって、なんか、不公平》

《好きなだけ言え、褒め言葉だ》


不貞腐れたような声音に笑い声を上げる。高々オレ様のことを知らないからと拗ねるなど、相変わらずガキっぽく、存外寂しがりでやきもち妬きなお子様。最初はいったい何で拗ねたか。ああそうだ、オレ様の好きなものを知らないと言って拗ねていた。誕生日を知らないと拗ねていたこともあった。昨日のことのように思い出せる過去に笑っていれば、そんなに笑わないでとまた拗ねた。

本当に、知る必要のないことだ。一生知らなくてもいいことだろう。彼女にとって重要な事柄ではあるが、過ぎたことであり、後悔も何もできることはない。何せ水世の意思などそこにはなかった。ただ己が感情と自己満足の結果であり、彼女は巻き込まれただけ。やはりここでも水世は被害者ではないかと考えたが、今思えば、彼女を真っ先に被害者へ変えたのは自分じゃないかと、柄にもなく自嘲した。


《気が向いたら教えてやるよ。気が向いたら、な》

《……一生こなさそう》

《いつかくるかもしれねえだろ?わからねえぜ、未来のことは。些細なことで数秒後の出来事は変化するんだからな。気が向いたら教える。これは約束としようじゃねえか》

《……うん》


右へ行くか左へ行くか。たったそれだけで変わる先のことなのだから、ほんの些細な気まぐれが起きる可能性だってゼロではない。何十年後かもしれないが、もしかすると数日後、数時間後かもしれない。未来とはそうして不確定であるべきだろう。先のわかる人生ほどつまらないものはない。


「罪には罰が必要だ。彼奴は禁忌を犯した。ならば相応の罰を与えねば、帳尻が合わん」


禁忌?何が禁忌だと言うのだ。“それ”を禁忌と呼ぶのなら、何故そんなものを作ったのだ。罪だとするのなら最初から作らなければよかったのだ。それを作っておいて、断罪するなんざおかしな話ではないか。そんな偉そうなクソ野郎の鼻をへし折って、いや、粉々にするくらいにしてやらねえと気が済まない。


「アレは、なんですか?何故あのような……もう彼女は罰を与えられたというのに……」

「これは貴様の愚かさを知るために必要なことだ」



愚か?そんなこと知っている。とっくに思い知っている。しかしそれならば、彼女を巻き込まず、“ワタシ”に直接罰を与えればよかっただけの話であったのだ。

舌打ちを落としそうになるのを、あの焦りに歪んだ表情を思い出すことで耐えた。あの時の奴の顔と言ったら、間抜けすぎて腹を抱えて笑ってしまいそうになるほど清々したものだ。

“オレ”は悪くない。オレはただ、自分のしたいようにしたのだ。自己満足と身勝手と、オレの感情のままに行った無理矢理な軌道の変更だとしても、オレは悪くないと言い張ろう。たとえ水世に責められたとしても、謝ることはない。「ああそうかい、悪いことをした」と笑ってやろう。償いも謝罪も行うことはない。

生まれた瞬間ハードモードも、生きているだけで溢れる絶望、劣等感、疎外感も結局は変わることはなかったのだとしても。それでも“オレ”は、自分が悪いことをしただなんて、一切思っていやしないのだから。

たとえ水世が全てを知って、「“無個性”なままでよかった」と言ったとしても。