- ナノ -

隙間見る覚悟はなかった


終業式を終えた水世たちは、明日からは夏休みに突入することになる。だが丸々期間全部が休みになるわけもない。何せ一週間の林間合宿があるのだから。

教室に戻ると、夏休みの注意事項だとか、林間合宿についての最終確認だとか、そんな話が続く。合理的虚偽ということで赤点を取った者たちも林間合宿に行けるという事実で、A組は全員参加。当然ながらB組も全員参加である。


「夏休みだからって気を抜くなよ。解散」


相澤の言葉を合図に、教室は一気にざわめいた。林間合宿も夏休みも、みんな楽しみにしている。空いている日をどう過ごすかや、夏休み中に遊べないか。そんな話で盛り上がっているわけだ。


「あ、水世ちゃん!水世ちゃんもさ、一緒に学校のプールに集まろうよ!」

「プール……?」

「うん!」


駆け寄ってきた葉隠たちに、水世は首を傾げた。なんでも期末試験が終わった後、女子たちで学校のプールに集まって遊ぼう、という話をしていたそうだ。水世は期末試験後は気を失って保健室だったため、その場にいなかった。通りで芦戸たちが水着を買おうと話していたのかと、彼女は一人納得した。

夏休みの間は長期の外出は控えろという指示も出ており、どこかに泊まりで出掛けるというのは難しい。だが学校のプールであれば、申請さえ通れば貸し出してもらえるため、そういう話になったそうだ。既に八百万が日光浴で申請を出して許可を貰っているとのことだ。


「べつにいいけど……」

「やったー!」

「バレーしようよ、バレー!夏といえばビーチバレー!私好きなんだー!」

「いいわね。私、ボールを持ってるから、当日持っていくわ」

「やったー!水世もバレーいい?」

「うん、いいよ。嫌いじゃないし」


盛り上がっている面々に苦笑いを浮かべていれば、水世は廊下を歩いていく伊世の姿を見かけた。立ち上がった彼女はバッグを持つと、葉隠たちに軽く手を振って、扉の方へ。


「伊世くん、今から帰――」

「おやおや〜?君はA組の誘じゃないか。確か、妹の方だったかな?」


どこか嫌味ったらしい声が、水世の声を遮った。そちらを見れば、物間が貼り付けたような、しかし見下すような瞳で水世を捉えて、歩み寄った。瞬間、伊世の表情が思いきり歪む。


「しかし双子でも、こうも違うものなんだねえ。片や問題児の集まりときた。うちの誘まで君たちのトラブルに巻き込まれたら、どうしてくれるんだい?」


突然登場した物間に、水世は困惑を表情に表す他ない。どう返すべきなのだろうかと言葉を探している間に、物間はへらへらとした、人の良さげな笑みを深めていく。


「トラブルに巻き込まれにいっているわけでは……」

「でも君たちがトラブルの中心にいるのは確かじゃないか。僕たちB組にまで飛び火しそうで恐ろしいよ」

「えっと……ごめんなさい……」


懐かしい態度なような、逆に新しい態度なような。嫌悪というよりは敵視。しかし今までほど強いわけではなく、たとえるなら兄に張り合う弟のような。今まで向けられてきたソレに比べると、だいぶ幼いしかわいいものだ。体育祭の時点で彼がA組を敵視していることは水世も理解していたため、そういう人なのだろうと、彼女は一人勝手に納得しておいた。

伊世の機嫌が下がっていくのを感じつつ、水世はどう切り抜けるべきかと考える。伊世のクラスメイト相手に失礼な態度は取れないし、彼の機嫌の悪化も避けたい。急いでいると嘘ついて、先に玄関へ行ってしまおうか。そんなことを考えていると、「ねえ、人の話聞いてる?A組は人の話も聞けないのかい?」と物間が水世の肩を掴んだ。

瞬間。物間の瞳が大きく見開いたと思うと、固まった。そして数秒、彼女の肩を思いきり掴んできて、水世は思わず痛みに眉を寄せた。


「あの、痛い……」

「誰だ」

「え?」

「君、誰だ?君はなんだ?何者だ?」


ギリギリと、爪を立てられるほどに掴まれている肩。困惑と痛みが重なってきて、水世はこのまま怪我でも負わされるのだろうかとさえ思えてきた。

物間の瞳には、戸惑いが映っている。しかしそれだけではなくて、その中に恐怖と、気味悪さと、そして不快感のような色も含んでいた。急にどうしてそんな色が付け足されたのだと不思議がっていれば、バシッ!と大きな音が響いた。

肩の痛みは残っているが、掴んでいた手は外れた。物間は左手を押さえながら痛みに顔を歪めて、伊世の方を見た。そして何をするんだとでも言おうとしたのだろう、口を開こうとした。


「勝手に触んな……そんな目で、水世を見るな……!!」


怒りに震えるような声で、キッと物間を睨みつけた伊世。彼は水世の腕を掴むと無理矢理引っ張りながらその場を去っていく。普段よりも足早に、大きな歩幅に、水世は足がもつれそうになりながらもなんとかついていった。


「伊世くん……伊世くんっ!」


玄関へ向かっているわけではないようだった。どんどん人が少なくなっていく方へ歩いた伊世は、突然立ち止まった。水世は彼にぶつかりそうになるのを寸で踏ん張って、なんとか鼻を彼の背にぶつけないで済んだ。


「……伊世くん……?」


勢いよく振り返った伊世は、力強く水世を抱きしめた。まるでそこにいることを確かめるみたいに、どこかに消えてしまわないように。彼女は困惑したまま、自分を抱きしめる伊世に眉を下げた。自身の手の置き場に困ったものの、スカートを握りしめることに落ち着く。


「水世……おまえは、俺が……守ってやるから……」


水世には、伊世の声が泣きそうなものに聞こえた。











触れた時、良いことを思いついたと、“個性”を発動させた。相手の“個性”をコピーしてやろうと。少し脅かす程度の、そんな軽い気持ち。

だがその瞬間、全身を駆け巡った寒気。皮膚の下や血液、内臓を這いずり、そして何かが溢れ出るような感覚に、自分の体で何が起こっているのだという恐怖が襲う。


《コレをコピーしようとは、勇気があるじゃねえか。いや、単に無知が起こした無謀か?やめとけ、死ぬぞ》


ぞわりと、鳥肌が立った。その愉快そうな男の声は脳内を反響していく。そして、目の前で困惑気味に眉を下げていた誘水世の表情が一変する。

結膜が黒に、金色の瞳が赤へと染まったと思うと、二つの瞳の真下にぎょろりとした目玉が浮かぶ。耳や歯が鋭く尖り、口もとはにんまりと上がる。彼女の頭からは、黒く大きな羊のような角が生えている。その姿に得体の知れない恐怖を覚えていれば、瞬きの間に彼女の表情は元に戻った。

コイツは誰だ。あの一瞬の姿と表情はなんだ。あの声は何者だ。この体内で暴れているような感覚はなんだ。コイツは、本当に今の姿が真実なのか。そんな疑問がどんどん浮かんでいく。

焦りや不快感、気味悪さと嫌悪感。そんな感情に支配されながら彼女の肩を掴んで問い詰めれば、伊世に思いきり手を叩き落とされた。何をするんだと文句を飛ばそうと彼を見たが、開いた口から言葉は出なかった。


「勝手に触んな……そんな目で、水世を見るな……!!」


怒りに染まった表情と声。一瞬彼の瞳が青く光ったと思うと、伊世は誘水世の手を取って、彼女を引っ張りながら僕に背を向けていった。


「物間、あんたまたA組に喧嘩売ったの?大概にしなよ」

「A組嫌いも程々にしなって」

「てかさっきの、伊世の妹だろ?今度謝っとけよ?」


クラスメイトの声が右から左へ流れていく。彼らの声よりも、友人たちの声よりも、あの知らぬ男の声が耳に張り付いて離れない。


「ねえ……誘水世の表情と姿。一瞬、変わらなかったかい?それに男の声も……」

「表情?おまえに絡まれてずっと困ってたじゃねえか」

「男の声って……周りの誰かの声?」

「違う、子どもの声じゃない。大人の男だ。それに顔だって、一瞬笑ってただろ?目の色も、それだけじゃない。姿も変わってた。あれは、まるで……そうだ、まるで――」


僕が吐き出した単語に対して、物間!と拳藤が怒鳴る。いい加減にしろと。まったく信じてくれようとしないまま、誘水世に対して失礼だと。鉄哲の方も、彼女はいい奴だと憤慨している様子を見せた。


「伊世にも謝っておきなよ。妹にあんな風に絡まれたら、そりゃ怒るよ」


そういえば。ふと自身の感覚に首を傾げた。伊世に手を叩かれ、彼に睨まれた瞬間。自身を襲っていた不快感が突然消えた。どういうことだと眉を寄せて、自身の手を見つめる。

伊世の“個性”は「魔法」だと思っている。彼もそれを否定していない。誘水世の方も同じものらしい。双子だからそういうこともあるのだろうと納得していた。だがアレは、あの“個性”は、「魔法」なんてものじゃないはずだ。もっと別の何かだ。あの女は、内に恐ろしい何かを潜めていると確信を持って言える。


《やめとけ、死ぬぞ》


嘲りと、見下しと、そして警告。あの声が、あの女が隠し持っている存在であり、あの不快感の正体か。自身の表情が歪むことを自覚しながら、二人が去っていった方向を見つめた。