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君に呪いをかけたあの日


いい子にしていれば天国に、悪い子は地獄に行くと聞かされた。そう言っていたのは近所の人。天国にはたくさんの天使や神様がいて、そこは幸せな楽園で、地獄には悪魔がたくさんいて、酷い拷問に遭わされるらしい。それを教えてくれたのは、「声」だった。

きっと最初から、自分は地獄に行くことを決められていた。生まれたときから、果ては生まれる前から。「うんめい」ではなく「しゅくめい」だった。水世がそれに気付いたのは、小学生の頃だ。

夢なんてものは早々に捨ててしまった。そんな水世は、小学生の頃に図書室で出会った、童話というジャンルにのめり込んだ。初めて見たのは人魚姫だ。最後は王子と結ばれることなく人魚姫は泡となって消えてしまう、そんな哀しい話しだった。けれどある日彼女は、同じ図書室に置かれていた別の人魚姫を読んだ。それは子ども向けの絵本で、人魚姫は泡になどならず、最後に王子と結ばれるハッピーエンドで終わるものだった。

それは、他者によりオリジナルに手が加えられ、幸せを与えてもらった人魚姫の物語。実際の彼女はあのキラキラとした絵本の最後のページのように、王子様と笑い合うことなどなかった。それを、きっと後世の人は悲しんだのだろう。だから、ハッピーエンドを用意したのかもしれない。

水世は、原作の方を好きになった。子ども向けの絵本は本当に、夢物語だったのだ。ヒロインが不幸せな結末を送ることもなければ、残酷で残忍な描写もない、綺麗な物語。対する原作は、白雪姫なら王妃は最後真っ赤に焼けた鉄の靴を履かされ、死ぬまで踊らされる。シンデレラなら継母の娘たちは最後鳥によって目を抉りだされる。悪者は必ず報いを受ける、夢とはどこかかけ離れた、ある種現実を教えるような物語。

水世は夢を見ることができない。夢を見れないから、夢を詰め込んだ絵本も好んだが、原作の童話をより好んだ。見れないからこそ、夢物語が眩しすぎた。絵本よりも読みにくいそれにいつも苦戦していたが、読み聞かせて教えてもらったおかげで、次第に文字を覚えていった。

一週間という短い期間しか借りられない本を、毎日毎日読んだ。期限が訪れたら返却して別のを借りて、一週間毎日読んで、また返して借りて。それをずっと繰り返していた彼女は、内容を暗記してしまえるくらいには、童話を読み込んでいた。

本当はその本が欲しかった水世ではあるが、口にすることはなかった。欲しいと言って手に入るものなど、彼女にはなかった。欲しくないものばかりは手に残るのに、欲しいものはどんどんこぼれ落ちていくのだから。

だが幼馴染の両親が、水世にとプレゼントしてくれた。貰えないと何度も首を横に振った。欲しくないと言ったら嘘になるけれど、自分はこんな施しを与えられるような奴ではないのだと。それでも押されに押されて、彼女はその本を受け取った。家の者は、誰もそれに気付かなかった。当然だ、皆水世に近付こうとしないし、彼女に与えられた部屋に訪れようともしないから。

毎日、眠る前に一冊、布団の中に隠れるようにして、水世は本を読んだ。何度読んでも飽きることはなかった。どれだけ残忍な描写があれど、悲しい結末でも、どの話も彼女にとっては夢物語にも等しいものだった。周囲に虐げられてきたお姫様が最後は王子様と結ばれたり、王子様に焦がれて地上へ浮かんだお姫様が最後は王子様を祝福しながら泡になったり、中には少女が不思議な国へ迷い込む話だってあった。

水世はべつに、物語のヒロインを自分に重ね合わせたわけではなかった。自分はお姫様にはなれないとわかっていたから。ただ、不遇だった主人公が幸せになるその物語が、様々な未知の体験をするその物語が、彼女にとっては夢物語だった。


《綺麗事を言う気はねえが、他者にとっての自分は脇役、悪役、相手役、そもそも登場さえもしない存在だが、自分にとっちゃ自分は主役だぜ?何にだってなれるのさ。おまえだって、なりたいものの一つや二つ、あるだろう?》


そう言って笑った彼に、水世は曖昧に笑う。自分という物語の主役だとしても、自分はお姫様のような存在にはなれない。王子様も現れないのだ。自分はむしろ、シンデレラの継母や義姉、白雪姫の王妃、赤ずきんの狼のような、報いを受けて退治される側なのだと。

ヒーローになりたいと笑う双子の兄や幼馴染のように、他者に救いをもたらす存在にはなれない。他者に不幸を与える存在にしか、自分はなれない。浮き彫りになっていく周りとの違いは確実に彼女の精神を擦り減らし、切り崩した。


《おいおい、質問に対する答えとしてそれは不適切だ。なりたいものを聞いたってのに、なれないものを返されちゃ仕方がねえ。おまえは何になりたいんだ?》

《私は…………私が、なりたいのものは……》


そこから先を言えない水世に、まあいいさと軽い声音で告げたその「声」。

時に愉快に、時につまらなそうに、喜怒哀楽のハッキリとした自由気ままな声の正体の名を、水世は知らない。何故ならその声は、自分に名前はないと語るから。


《今やオレ様はある種の概念であり、集合体。個を指す名前は持っちゃいない》

《よくわかんない》

《何れわかる日がくるかもな。まあ、なくても困ることなんてないんだから、別段必要でもないだろう》

《……名前は、あった方がいいよ》


自分を表すものであり、この世で一番短い呪いであり、一番最初に貰う贈り物。それが名前。名前を呼んでくれる存在がいる喜びと安堵を、水世は知っている。だから名前がないと、なくても困らないと、必要ないというその声が、なんだか悲しかった。何より彼女自身が、名前を呼びたいと思っていたから。


《そんなことより、なあ水世。月が綺麗だぜ?今日は少し翳りはあるが、ああでも、毎日毎日、飽き飽きするくらいに綺麗なままだな》


彼に言われて窓から見上げた空には、丸い月が浮かんでいた。真っ暗な闇夜を照らすその光を見上げながら、水世は呟いた。


「満月…………満月に、しようよ」


夜を照らす、太陽ほどの明るさは持っていない。むしろ冷たさを感じさせるが、しかしその実静かで優しい光。それが彼に、とてもお似合いだと彼女は感じた。


《はあ?名前は必要ねえって言っただろ》

「私が、呼びたいの。あなたの名前を呼びたいの」

《知るか。オレ様に名前はねえ》

「じゃあ勝手に呼ぶ。勝手に、満月って呼ぶ」


空を見上げながら返す水世は、普段に比べて強引だった。いつも俯きがちでおとなしく、後ろ向きで弱虫で、馬鹿でネガティブな少女。我慢強くて諦めがちで、自分をまったく見れちゃいない、愚かな少女。嫌われ者でいじめられっ子で、スケープゴートと化している哀れな少女。そんな彼女が、今回は引かないとばかりに言って聞かない様子は珍しいものだった。


《……オレ様に名前はねえよ》












寝息が聞こえる。先程まで読み聞かせられていた童話は、雪の女王であった。行方不明になった少年カイを、少女ゲルダが探す物語。最後は雪の女王の宮殿に辿り着き、少女の涙が少年の元の性格を取り戻す、そんな物語。


《夢を見れないのは、思い込みと刷り込みなんだぜ。人間は夢を見ることができる生き物だ。おまえは自分の夢を知っているし、なりたいものも知っている。持っている。早く探し当ててみせろよ、なあ?》


ずっと鎮座しているというのに気付きもしない姿は、なんとも愉快で馬鹿らしい。誤った認識を覆そうともせず、大多数の声に殺されていく姿は不愉快で見るに耐えない。ないと思い込んでいるから見つからないというのに。


「なんで、泡になったの?」

《王子を殺さなかったからさ》

「どうして?」

《ひいさまは王子が好きだったから、殺せなかったんだろうさ。ひいさまの愛は、自分以外の女を選んだ王子への憎しみへ変わることはなかった。愛のまま、二人を祝福したのさ》

「えっと……王子が好きだから、泡になったの?」

《まあ、端的に言えばそういうことだな。王子の命を救い、自身の命より王子の命を取った、馬鹿な女の話さ》

「……私も……」

《ん?》

「私も、いつか――」


《〈……ふたりのご婚礼のあるあくる朝は、このひいさまが死んで、あわになって、海の上にうく日でしたものね〉》


もう何度も読んだ話は、見らずともスラスラ言える。「ひいさまは、うわの空で、いちずに、くらい死の影を追いました」「短刀は、人魚のひいさまの手の中でふるえました」「そのせつな、身をおどらせて、海のなかへととび込みました。そうしてみるみる、からだがあわになってとけていくようにおもいました」それらは終盤の、人魚姫が姉たちから短刀を貰ったが、結局王子を殺せず泡へと変わった描写の部分。


《〈どこへ、あたし、いくのでしょうね〉……》

「――私は、どこにいくんだろうね」


馬鹿な彼女。愚かな彼女。哀れな彼女。そんな彼女が――。


《なあ水世。今日も月が綺麗じゃねえか》