- ナノ -

愛情と庇護欲を向ける先


制服姿でない轟の姿は、どこか新鮮だった。歩幅を合わせて歩いてくれる隣のクラスメイトを横目に、水世は緊張で胃が痛みそうだった。

轟の母親が入院しているという病院が視界に映っている。その距離僅か十数メートルといったところだろう。一応病院で、それに人様の親に会うのだからと、変な格好で行くわけにもいかない。そんな考えから、水世は着ていく服はなるべく色味が薄く、控えめな服を選んだ。

涼しげな印象を与える空色の花柄ワンピースは、腰元がキュッと絞られたマキシワンピースと呼ばれるもの。足元はヒールのそう高くない、アンクルストラップのついた黒いサンダル。どれも重世が彼女に買い与えたものだ。そもそも水世は服を買う行為をほとんどしないし、頓着もしない。なのでタンスの中身は重世が選んだもので溢れている。閑話休題。

お見舞いに行くというのは初めてなため、昨晩服に悩んだが、水世は多分大丈夫だろうと言い聞かせた。お見舞いに持っていくものも、バタバタ用意したものだ。

病院の自動ドアが開き、水世が入口に置いてあったアルコールで手指消毒をしている間に轟が受付を済ませた。受付の女性が二人を見て目をぱちくりとさせており、水世はその反応に不思議がりつつ会釈をすると、轟とエレベーターへ向かった。

轟から案内された病室の前で、水世はフッと息を吐いた。開けるぞ、と告げた轟に頷いた。彼は病室の扉を開けると、ゆっくりとした足取りで中に入っていった。まだ会うことに慣れていないのだろう、少しぎこちなさが見えたような気がした。中で少し会話をしている声が聞こえて、轟が中から顔を出す。

恐る恐る病室へ入った水世は、ベッドに腰掛けている、白髪の穏やかそうな女性に少し頭を下げた。彼女はぱちりと目を瞬かせると、柔らかく笑う。


「初めまして、誘水世です。今日は突然お邪魔してすみません」

「初めまして。焦凍の母の、冷です。あなたが誘さん……焦凍からお話は聞いてます」


会いたいと思ってたの。冷の表情はとても優しく、水世は少しドギマギした。大人の女性から温かな眼差しを向けられことなんてなくて、彼女は苦笑い気味に口角を上げた。

どうぞ座ってと促された彼女は、ベッドのそばに置いてあった椅子を取って、既に置かれていた椅子の隣に配置した。轟と並ぶように座り、冷と向き合うような形に。


「あの、これ……良ければ。あとこっちは、轟くんに。お姉さんと食べて」


持っていた紙袋から取り出したのは、丁寧に包装されているカップケーキ。抹茶味のカップケーキなため、和食好き(だと思われる)な轟の舌にも合うだろう。冷の味の好みはわからないが、苦手でなければいいのだが。水世はそう思いながら、取り出した方を冷に、紙袋の方を轟へ手渡した。


「まあ、いいの?ありがとう……!とっても美味しそうだわ」

「俺とか姉貴にも、いいのか?」

「うん」


よほど嬉しかったのか、紙袋の中を覗きながら瞳をキラキラさせている轟に、彼は意外とお菓子類が好きなのだろうかと水世は一人思った。冷の方は、息子の表情に冬美から聞いた話を思い出して、まあと口もとに手を添えた。

改めて向き直った三人は、無言に包まれた。轟の方は既に何度も母に会いに来てはいるものの、十年という時間は長い。そのため未だに会話に慣れていない。水世はそもそも冷とは初対面なため、どんなことを話せばいいのかわかっていないため、口を開けない。


「そういえば、この前の授業参観の時、冬美が助けてもらったって。その時の映像を見せてもらったんだけど、本当にすごい“個性”なのね」

「いえ……そんなことは……」


眉を下げた水世は話を変えようと、つい先日から期末テストがあったのだと教えた。


「そういえば……もう結果は発表された?」

「昨日発表された。筆記と実技があったけど、どっちも合格だった」


安堵したように胸に手をあてた冷は、二人におつかれさまと笑った。そしてそうだ!と両手を合わせると、冷蔵庫の中に飲み物があるから、良ければ飲んでくれと笑う。水世は遠慮したのだが、買いすぎて消費に困っているらしい。水世は冷の視線を浴びて、じゃあ、とお言葉に甘えた。

轟は冷蔵庫から、迷うことなくパック型のヨーグルトを取り出した。水世は少し迷ってから、小さなペットボトルのオレンジジュースを選んだ。冷蔵庫でしっかり冷やされていたそれは、夏の暑さで熱されていた肌には冷んやりとして気持ちのいいものだったろう。しかし病院内はクーラーで冷やされているため、既に肌は冷気に包まれている。冷たすぎる容器を手にしていると少し痛くて、バッグからハンカチを取り出して、容器を包んだ。


「そうだ、今度林間合宿があって……一週間」


轟はバッグの中から昨日貰った合宿のしおりを取り出して、冷に手渡した。彼女は物珍しそうにしおりを眺めて、中身を見ていく。


「雄英にも、林間合宿なんてあるのね」

「強化合宿だから、普通の林間合宿とは違うとは思うけど」

「ヒーロー科独特の特訓が待ってるかと」

「そっか……大変そうだけど、二人とも頑張ってね」


冷の雰囲気もあるからか、水世の緊張も徐々にほぐれていく。学校生活についての話をしたり、兄弟はいるのかと聞かれた水世は、双子の兄がいるのだと話したり。


「まあ、双子?お兄ちゃんの名前はなんていうの?」

「伊世です」

「伊世くんと水世ちゃんかあ……じゃあ、みんなが呼ぶとき、名字だと困るんじゃないかしら?」

「そうですね……ですから、何人かには名前で呼ばれてます」


ふと、隣からビシビシと視線を感じた。水世がゆっくりとそちらを見れば、轟の力強い双眸が水世を捉えている。どうかしたのかと尋ねてみれば、彼は俺も、とこぼす。


「俺も、誘のこと、名前で呼びたい」

「え、うん。いいよ。轟くんの好きなように呼んでくれて」


一瞬、嬉しそうに瞳が和らいだ。息子のその表情を見て、冷もまた嬉しそうに、微笑ましそうに二人の様子を見つめた。


「じゃあ、私も水世ちゃんって、呼んでもいい?」

「え……?あ、えっと、はい。お好きな風に、呼んでもらって大丈夫です」

「そういや水世の兄貴、プロヒーローだった。グラヴィタシオン」

「そうなの?」


期末試験が終わった後、保健室から戻ってきた彼女は皆に詰め寄られるように質問責めにあった。水世は隠していたわけではないのだと、おずおず重世のことを話したのだ。職場体験の際にグラヴィタシオンからの指名がきていた件もあって、言いにくかったのだと。皆驚いていたものの、身内贔屓やコネなどを疑っているわけじゃない、と笑ってくれた。水世だけでなく、轟のもとにも父親からの指名がきていたという件があるからだろう。


「じゃあ、三人兄妹?お兄さんとは、年が離れてるのね。水世ちゃんは末っ子?」

「はい」

「じゃあ焦凍と同じなのね。うちもね、焦凍が末っ子なの」


姉だけでなく兄もいるのだと、冷は楽しそうに家族の話をしてくれた。轟の方はどこか照れくさそうに見えて、母親の前では普段大人びたようなクールな彼も、一人の少年に、一人の子どもに戻るのかと、水世はぼんやり思った。













家まで送るという轟の申し出をなんとか断った水世は、最寄り駅から家までの道を歩いた。空はすっかり茜色で、入道雲も空の色が反映してオレンジ色に染まっている。


「あら……?水世ちゃん?」


家の近所まで辿り着いた頃。水世は名前を呼ばれ、思わず肩が跳ねた。この辺りで自分の名前を呼ぶ人間は限られているため、すぐに見当はついた。


「おばさん……こんにちは」

「まあ、水世ちゃん!なんだか久しぶりに会った気分だわ〜!体育祭見たよ、おつかれさま」


駆け寄ってきた女性は、イナサの母親だった。彼女は顔を綻ばせると、録画もしたのよ!なんて言うものだから、水世は思わず苦笑いを浮かべた。

イナサの両親とは、幼少期から交流があった。自分の噂を知っているはずなのに邪険に扱わない二人は印象的で、どこか落ち着くような。しかし居心地が悪いような。そんな形容しがたい感情を抱いていたことを、水世は覚えている。

イナサは多分、母親似だと水世は思っている。彼の母親はいつも笑顔を浮かべていて、元気で豪快な人だ。お父さんの方は逆に落ち着いていて、のんびりとしている。


「イナサからも連絡きたんじゃない?」


大きく頷いた水世は、イナサからの電話を思い出す。体育祭を見たと言って、いつもの大きな声で話していた。興奮気味な彼の様子に、相変わらずだと笑ったのは記憶に新しい。


「学校はどう?雄英でしょう?いじめられたりしてない?もしなんかされたら、私がそいつにガツンと言ってやるからね!」

「大丈夫です。みんな、とてもいい人で……なんとか、上手くやってると思います」

「そう?ならいいんだけど……今は水世ちゃん、“個性”も上手くコントロールできてるし、体育祭の影響もあるから、前ほど酷い評判はないけど……本当、都合の良い連中だよ」


笑顔を消して顔をしかめたイナサの母親に、水世は眉を下げた。気にしていないとこぼしながら、むず痒さに左腕をさすった。


「キツかったり、辛かったら、いつでもうちに来ていいんだからね」

「……はい。ありがとうございます」


頭を下げた自分の頭を撫でる手に、水世は唇をキュッと結んだ。

イナサの母親と別れ、彼女はトボトボと家路に着く。

轟の母親やイナサの母親のように、好意的に接してくれる大人の女性はというのは、水世の中では都市伝説にも近いような存在だった。母親という生き物は、ああいったものなのだろうか。ぼんやり考えると、なんだか虚しくなってしまった。

轟の母親は自身のことを詳しく知らないから、今の内だけだ。だがイナサの母親は違う。自分の不穏な噂のことはもちろん、周囲から迫害を受けていたことだって知っている。何故そんな扱いだったかも、知っている。近隣に住む人たちは水世の“個性”がどういったものか詳しく知らなくとも、彼女が化け物であることは知っている。

しかしどうして、夜嵐家の人たちは、自分に好意的に接してくれるのだろう。息子と仲が良いからなのだろうか。イナサに自分と仲良くするな、なんて言っている雰囲気もなかったから、水世にとっては長年の疑問だ。


《母っていう人種はそういうもんさ》

《そういうもん……?》

《母性や庇護欲。小さく、幼く、弱い者を守ろうとするんだよ》

《だからこそ、自分の子どもが私と一緒にいるのは、よくないって思うはずなんだけど……》

《そうさなあ……中には歪な感情を向ける輩もいれど、母親ってのは基本的に、自分の子どもにたっぷりと愛情を注ぎ、全力で守る生き物だからな。これもまた、一つのヒーローだよなあ》


自身の子どもに愛情をかけ、そして庇護下にいる間は守り通す。母は強しとよく言うが、それはきっと間違っていないのだと水世は思う。

自分の子どもを守りたいから、水世に近付くなと言って聞かせる。それは間違っているものではないと彼女は思う。誰だって自分の子どもが化け物と一緒にいるのなんて嫌だろう。満月はそんな彼女の考えを呼んだかのように、馬鹿だなおまえはと笑った。


《単純さ。あの女も母親だ。“自分の子ども”を大事にしてるだけさ》

《イナサくんを大事にしてるから、私と一緒にいることを、許したの?》

《半分は正解だが、半分じゃあ、花丸はやれねえなあ》


満月の言い方に、水世は眉を寄せる。ヒントらしきものは教えてくれるのだが、答えは教えてくれない彼。何を説明したいのかが水世にはさっぱりで、満月の言葉の意味に、またも頭を悩ませるのだ。

自分が悩んでいる姿を、面白おかしく思っているのだろう。水世は想像しながら少しばかり苛立ちを覚え、眉間に少しのしわを刻んだ。