- ナノ -

その手に触れられたなら


教室は、とても静かだった。それと言うのも普段賑やかな上鳴、芦戸がショックで口を開かないからだ。二人同様に切島と砂藤の顔も影が差している。

この四人は期末テストの演習試験を合格できなかったのだ。そのため林間合宿に行けないと心底落ち込んでいるのである。泣きながら土産話を楽しみにしているとこぼす芦戸に、緑谷は励まそうとどんでん返しがあるかも、と期待を捨てないよう声をかけている。


「試験で赤点取ったら林間合宿行けずに補修地獄!そして俺らは実技クリアならず!これでまだわからんのなら、貴様らの偏差値は猿以下だ!」


ショックのあまり緑谷に目潰しをしながら、おかしなテンションになっている上鳴を、今度は瀬呂が宥めた。彼は試験早々にミッドナイトに眠らされており、試験をクリアできたのは峰田のおかげというのが大きい。そのため自分の試験結果も危ういのだと。


「とにかく、採点基準が明かされてない以上は……」

「同情するならなんかもう色々くれ!」


切実な叫びに、八百万と話しながら会話を聞いていた水世は、ひっそりと同情した。

八百万の方は、演習試験を終えてから少し雰囲気が変わったようだった。体育祭以降自信の喪失が見られていた彼女ではあるが、先の試験で良い方へと傾いたのだろう。普段通りの姿に、否、普段よりもずっとずっと、自信に満ちた凛とした雰囲気に変わっていた。


「予鈴が鳴ったら席につけ」


勢いよく開いた扉。ノーモーションでの相澤の登場だったが、日々の賜物と言えばいいのか。生徒たちは一瞬で着席した。いつ見てもこのスピードだけはプロにも匹敵するのでは、なんて思ってしまうくらいには、A組生徒はしっかり教育されている。

静まり返っている教室では、早速相澤が期末テストの件について触れた。残念ながら赤点が出た。そう告げられた途端、思い当たる節がある面々の空気はより重たくなっていく。上鳴の表情は、最早地蔵のようになっていた。

口を開いた相澤を、皆が不安いっぱいに見つめた。


「――林間合宿は全員行きます」

「どんでんがえしだあ!!」


四人分の大声が教室内へと響いた。感激と衝撃が合わさったその声に、水世は一瞬肩を跳ねさせて驚いたが、一番後ろの席であるために誰にも気付かれることはなかった。

筆記テストでの赤点はいなかったが、実技の方では切島、上鳴、芦戸、砂藤、そして瀬呂が赤点となったことを告げると、相澤は今回の試験での目的を簡潔に話した。

敵に扮した教員側は、裁量は個々人によるものであるが、生徒に勝ち筋を残しつつ、自身の課題とどう向き合っていくかを見るように動いていた。でなければ、課題云々の前に能力差諸々で詰んでしまうチームばかりだ。本気で叩き潰すという発言も、生徒たちを追い込むための言葉の綾。


「そもそも林間合宿は強化合宿だ。赤点取った奴こそ、ここで力をつけてもらわなきゃならん。合理的虚偽ってやつさ」


体力測定の時のような合理的虚偽に、赤点組は今にも踊りそうな勢いで、体全体で喜びを表現していた。そんな中、飯田が水を差すように挙手して席を立つと、虚偽を重ねることで両者の信頼に揺らぎが生じるのではないかと発言した。


「確かにな。省みるよ。ただ、全部嘘ってわけじゃない」


林間合宿に行けるとはいえ、赤点を取ったことに変わりはない。故に補習がある生徒は別途で補習時間を設けていることを告げた。学校に残っての補習よりもキツイという発言に、大喜びしていた五人の動きが止まり、みるみるうちに表情が変わっていった。













合宿のしおりを見ながら、水世は用意しなくてはならないものを脳内に浮かべていった。一週間分の下着、洗面セット、タオルや筆記用具。他にも何かいるだろうかと頭を捻る。職場体験の時と同じような荷物でいいのかもしれない。そんなことを考えていると、葉隠が明日は休みでテスト明けだから、合宿のためにA組みんなで買い物に行こう、と提案している声が聞こえた。


「おお、いい!何気にそういうの初じゃね!?」

「クラスのみんなと出かけるって滅多にないし、いいじゃん、楽しそう!」

「明日みんな暇〜?」


わいのわいのと明るい声が飛び交う教室。ほぼ全員が葉隠の案に乗っているが、爆豪はかったるいと拒否、轟は休日は母親の見舞いがあるからと断った。そんな二人に、峰田が空気を読めと怒鳴っている。


「水世ちゃんも行こうよ〜!」

「木椰区のショッピングモール!あそこ県内最多店舗だからさ、色々揃ってるし!水世も一緒に水着買おう、水着!」


葉隠と芦戸に詰め寄られた水世は、困ったように笑った。水着は果たして必要なのだろうかという疑問と、スクール水着ではダメなのだろうか、なんていう疑問が彼女の頭に浮かんでいる。水着はそれ以外持っていないし、不必要な出費を出すのもなんだか悪い。どう返そうかと困っている水世の目に、ふと轟がじっと自分を見ていることに気付いた。


「……轟くん、どうしたの?何か、用事あった?」


何か言いたげな風に見えた彼に水世が声をかけると、轟は目を僅かに丸くして、彼女の方へ歩み寄った。葉隠と芦戸が自然と轟のためにその場を退くと、座っている水世を彼はじっと見下ろす。


「明日、見舞い行くんだけど」

「うん」

「できればおまえにも、来てほしい。誘の話したら、母さんが会ってみたいって言ってて」


数秒言葉の意味を考えた水世は、ん?と首を傾げた。まず母親に自分の話をしたという点にも触れたいし、会ってみたいと言われたことにも触れたい。どんな話をしたらそうなるのかについても気になるところだ。少し混乱している水世に気付いていないようで、轟は付け加えるように、姉も水世のことを母親に話したらしいと告げた。

轟の姉とは、授業参観の時が初対面で、それ以来は会っていない。なのに何故轟家で自身が家族の会話の話題になっているのだろうかと、水世は若干の恐怖のようなものさえ覚えてしまった。


「……その、私の話って、どんなの?」

「“個性”が強いとか、髪が白いとか」

「うん……?」

「あと、なんかキラキラしてるって言った」


キラキラ?首を傾げた水世は、よくわからないと眉を寄せた。轟は頷くと、誘はなんかキラキラしてる、とこぼす。益々わからなくなってきている彼女は、とりあえず「青山くんの方が、キラキラしてると思うよ……」と苦笑い気味に言った。


「そんで、返事なんだけど、明日大丈夫か?」

「え?あ……うん、まあ、平気」


僅かに嬉しそうに瞳をパッと開いた轟は、時間は改めて連絡すると、心なし嬉しそうに言った。


「両親への紹介……イケメンは行動が早えよ……」

「いやまずキラキラって……轟の口からその単語が出てきた衝撃と、自覚がない衝撃とで混乱してんだけど」

「言われた本人も全然ピンときてないわ」


ざわついている周囲に首を傾げた二人だったが、水世はハッとすると、芦戸と葉隠にごめんねと謝った。折角誘ってくれたのだが、轟との約束がたった今成立してしまったため、明日の買い物には行けそうもない。


「いいよいいよ、また今度一緒に出掛けよ!」

「そーそー、今回は轟に譲ったげる!」

「悪いな」


他者の親に会うというのは、なんだか普段とは違う緊張感を覚える。未だにイナサの両親相手にも緊張感は拭えないのだ。初対面ともなれば当然それ以上にドキドキしてくるもので。水世は授業参観の時のような気持ちだった。

水世はクラスメイトに軽く手を振ると、教室を出て玄関の方へ急いだ。そこには既に伊世がいたのだが、そばには彼のクラスメイトらしき人がいる。伊世はどこかうっとうしそうにしているようで、水世は恐る恐るといった風に歩み寄った。


「あ、誘の妹ちゃん」

「おお、水世!なんか久しぶりだな!」


鉄哲に軽く笑みを返した水世は、そばの拳藤ともう一人、別の女子生徒に軽く頭を下げた。肩より長い、ウェーブのかかった髪と、下睫毛の長いパッチリとした瞳が特徴的だった。


「あー、そっか。どっちも誘だもんなあ。じゃあ私も、鉄哲みたいに名前で呼ぼっかな」

「はあ?」

「うわ、伊世ガラわっる」


早速伊世を名前で呼びながらケラケラ笑ったその女子生徒は、水世の方を見るとにっこり笑った。


「B組の取蔭切奈。よろしく」

「A組の、誘水世。こちらこそ、よろしくね」


差し出された手を握った彼女は、少し戸惑いがちになりながらも、取蔭に笑みを見せて握手を交わした。その様子をどこか苛立った風に見ていた伊世は、壁から背を離すと、水世に帰るぞと告げて玄関を出ていく。慌てた彼女は三人に軽くお辞儀をすると、急いで伊世に駆け寄っていった。

後ろから「なんか伊世アレじゃん、亭主関白」「わからなくもないけど、本人に言ったら絶対機嫌損ねるから」「伊世は結構シスコンだしな」「鉄哲、それも言うなよ」なんて会話が水世には聞こえているが、拳藤の言う通り伊世の耳に入れば彼の怒りを買うことだろう。

伊世に追いついた水世は、機嫌の悪い彼の後ろを早歩きについていった。何故機嫌を損ねてしまっているのかがわからない水世は、余計なことをしてより彼を怒らせてしまうのは嫌で、何も言わずに後ろを歩いた。


「……演習試験。おまえも、アイツが相手したのか」


振り返ることなく、足を止めることもなく伊世が尋ねた。誰を指しているのか即座に理解した水世は頷きながら、うんと返した。

足を止めた伊世に、彼女も合わせるように歩みを止める。振り返った彼の表情はどこか思い詰めた風にも見えて、水世は心配そうに眉を寄せた。


「……水世、おまえは……」


歯切れの悪い彼に、水世は伊世の体調が優れないのではないかとより心配を募らせていく。伊世は眉を寄せながら口を開くも、ハッと息を吐いて口を閉ざした。


「いい。気にするな」


プイッと顔を背けた伊世は、前を向き直して歩き出した。その後ろ姿がやけに寂しそうで、苦しそうで、水世は手を伸ばそうとした。だがすぐに我に返ると伸ばしかけた自身の手のひらを背に隠して、彼のあとを追いかけた。