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始まりはいつだったのか


目を覚ました水世は、視界に入った見慣れない天井をしばし見つめた。周囲をカーテンで遮られているようで、彼女が体を起こすと、閉まっていたカーテンが開いた。現れたのはリカバリーガールであることから、ここが保健室であるのだと瞬時に水世は判断した。


「目が覚めたかい?試験が終わってから、あんた気絶したんだよ」


彼女の言葉に、水世は目をぱちくりとさせた。満月の言葉に頷いた後の記憶は曖昧だった。覚えているのはゲートを抜けたところまで。その後の意識は完全に落ちていて、その先のことは何も知らない。

体の不調はないかと尋ねられた水世は、大丈夫ですと笑った。リカバリーガールは白衣から飴を取り出すとそれを彼女に渡して、椅子に腰掛けた。


「少し休憩してから戻りな。外傷はないが、精神的疲労が大きかろう?あんたの兄は、痛いところを突いていたようだしねえ」


その言葉に、演習試験のことを思い出した。重世から言われた言葉の数々が蘇っては、ズキズキジクジクと痛みを与えていく。自分でも気付いていなかった点を次々に突かれ、指摘されていったからだ。

自分の課題。“個性”は当然のことではあるが、それ以外。世界を自ら狭めていること。他者を信用できず、信頼できない姿勢。浮き彫りになった事柄に、自己嫌悪は止まない。このままの状態では重世の言う通り伊世に依存し、彼に迷惑をかけ続けながら生きていくことになる。それだけは絶対に嫌だった。


「だがおまえは、周りは見えていても、自分を見えていない。自分を見ていないおまえは、自分に関わるものを見ていない」

「水世、おまえ自身は、どこにいるんだ」



自分を見えていない。故に自身の行動の理由も原理も解明できず、本当の自分がいったいどこにいるのかもわからない。嘘なのか真実であるのかさえ曖昧な状況まで落ち込んでしまっていて、余計に自己嫌悪していく悪循環でしかない。


《どうするんだ?自分も見えていない、自分の存在も曖昧。そんなんじゃあ、おまえは何もできやしないぜ?》


少し楽しそうな声音だった。満月の言葉に、水世はわからないとしか返せない。だって本当に、どうすればいいのか、どうしたらいいのかが、掴めなかった。


《だったら、原点を探せばいい。自分に問いかければいい》

《原点……?》

《ああ。何故おまえは、あの時ガキから感謝されて喜んだ?信用も信頼もしてない奴らを元気付けようと、助けになろうと、好意に応えようとしたのは、何でだ?》


それに、彼女はわからないと口には出さずに呟いた。それがわからないということが、既に自分が見えていない証拠だった。


《考えろ、頭を回せ、思い出せ。おまえの中に既に答えはあるんだぜ》

《私の中に……?もう、私は答えを持ってるの……?》

《ずっと前からな。おまえ自身の自覚がないだけさ。故に、おまえは自分が見えてないんだよ》


ぼんやりゆっくり思考を回しながら、水世はベッドから降りた。それに気付いたリカバリーガールが、振り返ってもう大丈夫なのかと尋ねた。水世は平気ですと微笑むと、丁寧にお辞儀をして保健室を出ていった。











保健室の扉が開くと、入ってきたのは相澤とオールマイト、根津、そして重世だった。彼らは試験後に気絶した水世の件でここを訪れたのだ。


「演習試験のVを見たよ。紋様が左腕を覆っていたようだったけど、大丈夫なのかい?」

「……そうですね。あの時、二次拘束まで到達しましたが、あの様子なら、二次を通り越して表には出ていたでしょう」


誘水世の“個性”について詳しく知っているのは、雄英の教師でも一部のみ。校長である根津はもちろん、ヒーロー科一年の担任であるイレイザーヘッドとブラドキング。他には、彼女の“個性”が暴発した際に止めることのできそうなミッドナイトやオールマイト、入試試験の試験監督を務めていたプレゼント・マイク、そして生徒の怪我や病気等をまとめて面倒見るリカバリーガール。

訳あり“個性”であるということは、他の教員にも知られている。だが詳細については伏せられているのだ。彼女の“個性”の万能さや強力さ、危険性を踏まえ、且つ水世自身への配慮のためだ。当然他言無用な事項であり、彼女の演習試験のVを音声付きでは見せることはできない。しかし水世の紋様が首まで覆ったところは映っていなかったため、全てのグループのVを無音声で視聴し、講評している。

リカバリーガールと共に演習試験の様子をモニターで見ていた緑谷も、映像のみで音声は聞こえない。そのため水世と重世が何を話していたのか、何も知らない。彼はただ純粋に彼女の行動を賞賛し、尊敬の眼差しで見つめていた。だがリカバリーガールには、内容が全て聞こえていた。


怪物英雄に退治されるんだって……だから、みんなが……伊世くんが幸せに、平和に生きるための犠牲に、踏み台にならないと……それが私の……それだけが、私の存在する意味じゃないですか」


あまりにも切なく、あまりにも痛々しい囁き。耳が拾ったその言葉には、彼女の本音だけでなく、これまで味わってきた地獄や絶望が詰まっていた。


「まだ十五歳の少女だっていうのに……あんな言葉を言わせちまうくらい、追い詰められてきたっていうのかい……」


兄の幸福のための犠牲であることが、善が成り立つための悪であることが、自分の唯一の存在理由であるのだと、彼女は告げたのだ。そう教え込まれ、そう言われ続けた結果、彼女の認識だけではなく、何もかもが狭められた。自ら世界を閉ざしたのではなく、その選択しか与えられなかった。そうせざるを得なかった結果が今であった。


「相当に根深いよ、こりゃ……そういう宿命だった、なんて言葉で片付けていいもんじゃない」

「まだ親の保護下にあった頃の、親が世界の中心であった頃の環境というのは、後に大きく影響しますからね……」

「環境の責任もあるが、それを矯正させる大人がいなかったことも大きな問題でしょう」


相澤の尤もな言葉に、重世は謝る他なかった。自身も要因の、加害者の一人であったからだ。謝罪はここではなく、水世にするべきであるのだが、今の彼女に謝ってしまうのは危険なようにも感じた。

今の水世の存在理由は伊世の役に立つ、彼の踏み台になること。それ以外に理由を見つけられていない状況で、彼女をそういう風にしてしまった原因である一人の自分がそれを否定してまえば、水世は理由を無くして今以上に精神が危うくなる。そう思うと、重世は水世本人に謝るに謝れなかった。


「何にせよ、彼女自身が“個性”をコントロールできるようになることが、成長への大きな一歩になるのは確かだよ。そのために多少荒療治にはなるけど、いいかい?」

「はい。教育方針に口出しはしません。雄英の皆さんを、信頼してますから」


教師の面々に頭を下げた重世は、あの子をよろしくお願いしますと頼み込んだ。


「本当は、水世の世界を閉ざした原因である俺が、人にこんなことを頼める立場ではないのは重々承知しています。それでも、俺だけではどうすることもできません。あの子だって、周囲と同じような日々を過ごせていたはずなんです。それを、水世の十数年間という時間を、潰してしまった罪は大きい。でも、だからこそ償わなければならない」


これからの長い年月をかけて、開いてしまった溝を、なくしてしまった信頼を、壊してしまった家族という絆を、一つずつ埋めていき、重ねていき、築いていく。ゼロからイチを作ることは難しく、困難だが、重世たちにはそうする必要があるのだ。


「――もちろん、任せてほしい。僕たち雄英は、生徒を全力でサポートし、育て、守っていく所存だよ」


根津の言葉に、重世は涙を堪えるかのように眉を寄せると、もう一度深々と頭を下げた。











「――おまえなんか妹じゃない……!」


自身が言い放ったその言葉は、自分自身にも深く深く突き刺さった。当然、一番傷ついたのは自分ではなく妹で。故に俺が被害者ぶるのは間違いで。

言い訳になるが、その言葉は、決して妹本人に向けたわけではなかった。しかし彼女にも聞こえてしまったその言葉で、彼女の中の家族というものを跡形もなく崩してしまったのは確かだった。

間違った行動ばかりをした。罪悪感から妹と距離を取ったことも、妹が“個性”のコントロール不可な状態だったために弟と妹を引き離したことも。両親がしていた妹への所業を、気付かなかったで片付けてはいけない。二人が彼女を冷遇していることには薄々気付いていた以上、俺は両親にもっと主張するべきだった。

すぐに謝って、言葉の真意を話して、抱きしめて、名前を呼んでやるべきであったのだ。そうしたら少しは拗れた関係もここまで悪化しなかったのではないかと、そう思うことは多々あった。自分が壁を作ってしまったから、彼女はいつまで経っても家族になれなかったのだから。時間の経過でいつか、と僅かな甘えがあったからこその怠慢だった。

一度吐き出た言葉は決して元には戻らない。なかったことにはできやしない。人を殴れば、殴った方も痛みを伴うとは言うが、非があるのだから相応の痛みは得なければならないし、その痛みを捨てることはできない。

あの歪んだ笑みを浮かべるアイツは、今更だと嘲るのだろう。だが今更だとしても、今しなくてはダメなのだ。また先延ばしにして、本当に取り返しのつかないことになった時では、もう遅いのだから。


化け物英雄に退治されるんだって……だから、みんなが……伊世くんが幸せに、平和に生きるための犠牲に、踏み台にならないと……それが私の……それだけが、私の存在する意味じゃないですか」


あそこまで言わせてしまった。あそこまで追い詰めて、追いやっていた。これ以上あの子を苦しめたくはなく、これ以上あんな言葉を言わせたくはない。


「自己治癒ってやつだよ。自身の傷ならば、脳と心臓以外は、どれだけ酷かろうが治すことができる。骨が折れようが、内臓を抉られようが、皮膚が崩壊しようが、何もなかったみたいに綺麗さっぱりさ」

「おかしいと思わねえか?傷つけたって証拠の傷は残らねえし、誰も何も文句を言わねえ。そんなサンドバック、ストレスの捌け口が目の前にあったら、人間が暴言だけで終わると思うか?」

「気付かねえよなあ、気付くわけがねえ。何せ“傷一つない”状態で、普段通りの笑みを浮かべてるんだからなあ」



何も知らなかったなんてことは、免罪符になり得ない。よく考えればわかるような、予想できるようなことだった。それを見落としていた自分の愚かさを、またアイツが嗤っているような気がした。


「重世お兄ちゃんの手、あったかいね」


幼い水世の笑顔は、随分と遠かった。