- ナノ -

半分も見えない世界の中


前に降り立った男の姿に、水世は足を止めた。脱出ゲートは目視できる距離にあるが、彼女はそこまで向かうことができる自信がなかった。


「向かってはこないのか?敵を前にしてる状況だぞ」


戦意の感じられない水世に、グラヴィタシオンは淡々と言った。その声音に普段の柔らかさや朗らかさはなく、むしろ冷たさを感じさせる。記憶の奥の奥にこびりついて離れない言葉と表情が延々ループしていて、その度に彼女の気力は低下していく。


「水世。これは試験、採点基準は当然ある。おまえは例外だから当てはまらないが、コミュニケーション能力とかな。他にも数あるが、何故相澤先生は俺におまえの相手を頼んだのか……今回の組み合わせの意図……薄々勘付いてるんじゃないのか?」


グラヴィタシオンの言葉に、水世は少し頭を回してみた。

教師側に有利な環境、対策無しでは即座に嵌め殺し。自身の“個性”でどう立ち回り、どうフィールドを活用するか。組み合わせを考えれば、生徒の弱点を突けるまたは不利に追い込める教師が相手となっていた。壁として、逆境として教師が立ちはだかっていた。

たとえば時間制限のある切島・砂藤の相手を無限材料のセメントスが。良くも悪くも単純な行動傾向にある芦戸・上鳴の相手を頭脳明晰な校長が。究極的に仲の悪い緑谷・爆豪の相手を圧倒的な強さを誇るオールマイトが。各々の課題を意図的にぶつけているのは明白だ。

ならば何故、自分の相手をグラヴィタシオンが、重世が。自身の“個性”の弱点には当てはまらない。ならば別の課題のためにぶつけられている。水世は僅かに後退した。彼の顔をしっかり見れないまま、視線を四方八方へ張り巡らせて穴を探し続ける。


「自身の課題に、おまえは気付いてるはずだ。おまえの”個性”、おまえの思考、おまえの在り方」

「在り方……?」

「なあ水世、おまえはこのまま一生、伊世に依存して生きていくつもりか?」


ヒュッと息を呑んだ水世は、一つ汗を垂らした。


「一生、依存するのか?そうすれば何れどうなる。答えは明白だ。おまえは確実に伊世の邪魔になり、伊世のお荷物になる」


ナイフで刺されたと思ったら、そのまま抉るようにグリグリとナイフを動かされている感覚に襲われ、水世の顔色は悪くなっていく。わなわなと唇は震えるが、声ではなくヒューヒューといった音が出てくるだけ。


「世界を完結し、世界を閉ざしたおまえは、たとえ後ろには下がれても、前に進めることはない。ただ一人置いていかれ、取り残されるだけだ」


的確に、水世の心は揺さぶられた。自身でも理解できない言動、爆豪の言葉、周囲の自身に対しての言動とそれに伴う痛みや苦しさ、そして重世の言葉。様々な要因が重なりすぎていることもあるだろう。

水世の心は荒波に揉まれ、目の奥はすさまじく回転し、脳内ではパソコンのエラー画面が出ているかのような、そんな状態だった。


「おまえはよく周りを見ているよ。周囲と同じ場所ではなく、下がった場所から。だがおまえは、周りは見えていても、自分が見えていない。自分を見ていないおまえは、自分に関わるものを見ていない。思い込み、決めつけ、嘘、自己嫌悪、過小評価。そうして他者の意見をそのまま真(しん)と受け取れないでいる」

「真に、受け取れない……?」

「クラスメイトたちは、おまえに好意的に接しているだろう?それを、苦痛に感じている。罪悪感か?それだけじゃないだろう?」


戦闘などしていないし、重世は水世に一度も攻撃を仕掛けていない。ただ言葉をかけているだけ。だがその言葉は、的確に彼女を攻撃し、的確に彼女の精神を崩していた。


「信用していないから、苦しいんだ。おまえは他者を心の底から信用していなければ、心の底から信頼もしていない。だから、おまえは今こうして、ペアではなく一人で課題にあてられてる」


真実を、真正面から、ストレートに突きつけられた。

言う通りだった。確かに自分はクラスメイトを信用していないし、信頼していなかったのだと知った。いや、クラスメイトだけではない。教師も、B組の生徒も、他の学科の生徒たちもそう。学校関係者だけではなくて、今まで関わった人たちを、信用できていない。信頼できていない。伊世や満月を除いて、唯一自分が心底頼りにできる人間は、幼馴染一人しかいなかった。しかしその幼馴染も、今はそばにいない。


「心のどこかで、他者を敵と認識している。そして、何れ自分を敵とみなす奴らなのだと。故に好意的に接してくるたび、どうせ離れていくくせにと感じて苦しくなる」


ガンガンと痛む頭。胃の中のものが全部出てきそうで、体が震えはじめる。「化け物のくせに」「おまえみたいな化け物、ヒーローにやられちまえ!」「ほら、あの子が例の……あんな子が近所にいるなんて、怖くて眠れないわ」耳鳴りがする。声が鳴り止まない。

水世は口を覆うと、肩を大きく動かしながら荒々しく呼吸を繰り返した。鳴り止まない冷たく刺々しい声、突き刺さる蔑むような視線。その場には自分と重世しかいないのに、まるで大衆に囲まれているみたいな錯覚を覚えて、いっそ気絶して強制的に遮断してしまいたかった。


「水世、おまえ自身は、どこにいるんだ」


私は、どこにいるのか。その問いは自分にもわからなかった。

そして、急激な重さに襲われた。重力球を体内に入れられたのだ。職場体験時に初めてかけられたのと同じくらいの重さが、体にかけられている。立っていることが精一杯で、精神面もズタボロな今、この状況を打開しようという気さえ彼女には起きなかった。


「……だって、本当にそうじゃないですか……だって、みんなが、そう言ったじゃないですか……」


蚊の鳴くような声に、重世の眉が僅かに反応を示した。


化け物英雄に退治されるんだって……だから、みんなが……伊世くんが幸せに、平穏に生きるためのための犠牲に、踏み台にならないと……」


それが私の――。震えた声音で彼女がこぼした。重世が何か言っているが、水世の耳にはもう届かなかった。徐々に足の支えも失っていく。今にも膝をついてしまいそうな、そんな時だった。


《水世、オレに身を委ねろ。体が動かせない?そんなわけがねえ。動かせるさ、今のおまえは。それだけの力は備わった。だがどうせコントロールできねえんだから、おまえは少し眠ればいい》


満月の声に、水世は遠のきはじめた意識を寸で繋ぎ止めた。彼はゆっくりとした、穏やかな口調で、囁くように彼女に言った。


《…………うん……」


僅かに、水世の指先が動いた。瞬間、彼女の背後から巨大な物体が出現した。彼女の十倍はある大きさのそれは、土で象られたゴーレムのようだった。それが完全に姿を現し、両足を地面につけたと同時、紋様は一気に左腕を覆ったと思うと、そのまま鎖骨、首を覆った。











誘さんの背後から現れた、土の巨人。それは重力がかかっているだろう彼女を軽々抱えると肩に乗せ、脱出ゲートに向けて歩きだした。

音声は聞こえないため映像しか確認できないが、誘さんの様子がみるみるうちにおかしくなっていったのだけはわかった。その隙にグラヴィタシオンの重力球が彼女の体内へ入り、動けなくなった。そのままタイムオーバーになってしまうのではとハラハラしたのも束の間、現れた巨人。


「すごい……誘さん、こんなこともできるんだ……」


思わず口から出た言葉。彼女の“個性”の強力さは今までの戦闘訓練や体育祭でのことから知っていたが、それでもきっと、僕が見たのは片鱗でしかなかったのだろう。

巨人に抱えられたまま脱出ゲートへ向かっていく誘さんだが、それをグラヴィタシオンがみすみす逃すとは思えない。彼は当然、今度は巨人に向かって重力球を放つ。だがそれを、誘さんが部分的なバリアで防いだ。

重力球をバリアで防いでいる間に、巨人はゲートへと近付いていく。このまま誘さんが勝利するのではないか。モニターに釘付けになりながら見守っていれば、グラヴィタシオンの手のひらから、さっきよりもずっと大きな重力球が出現した。

放たれた球はまっすぐに巨人へ向かう。どうするのかと誘さんの方を見れば、巨人の手が誘さんを掴んだ。そして、腕を大きく振りかぶる。


「まさか……」


振りかぶった腕から投げ出された誘さん。それと同時に球は巨人の体に入る。投げられた誘さんの体はまっすぐにゲートへ向かうと、そのままゲート前に落下していく。流石にあのままコンクリートに叩きつけられては、大怪我は免れない。リカバリーガールの表情が僅かに険しくなったと思ったが、ふわりと、誘さんの体が一瞬浮いた。


「……そうか、風……!」


職場体験明けのヒーロー基礎学で、彼女は旋風を生み出していたことを思い出した。地面に落ちる間際に一瞬だけ風で自分の体を浮かせ、落下速度を緩め、落下位置を低くしたのだ。そのまま誘さんはゲートを駆け抜けた。妙にファンシーなゲートの吹き出し文字が「よくぞ!!」へ変わった。


「――誘水世、条件達成!」


隣でリカバリーガールがマイクを使って放送する声を聞きながら、僕は興奮冷めやらぬような気持ちだった。


「すごいや、誘さん……あの“個性”はやれることが多いから、対敵はもちろん、救助にだって使えるな。風と火を合わせれば火力を上げられるし、土は足場や壁にもなる。それに相手の弱点も突きやすそうだし、一つの生物のようにもできるのか……他に何ができるのかな……今度聞いてみようかな……」

「勉強熱心なことだね」


いつもの癖が出ていたようで、ハッとしてリカバリーガールに謝罪をこぼした。彼女は少しおかしそうに笑ったが、誘さんやグラヴィタシオンが映ったモニターを見つめると、何か言いたげな表情を浮かべる。その理由がわからない僕は、はてと首を傾げた。











「ごめん、水世。おまえは好きでそうなったわけじゃないのにな……自分のことを棚に上げておまえを責め立てて……ごめんな……」

「謝るんなら最初から言うなって話だよなあ……?まあ、発言の意図はわかるが、謝るなら本人に聞こえるように言わねえと」


重さから解放された体。軽く肩を回して彼女は唇に弧を描かせた。左腕から首までを覆っていた紋様が消えると、背後の市街地にいた巨人も一瞬で崩れ去った。

ハッと鼻を鳴らして、青々としている空を見上げれば、眩く輝く大きな球体が浮かんでいる。


「人間とは夢見る生き物だぜ?欲望や理想を抱いて、それを夢という空想に、願望という叶えたい願いへ変える者。だが、人の夢は存外儚いものだ。簡単に壊れ、崩れやすい」


太陽を写した瞳は、三日月型に歪む。それは眩しさからなのか、それとも愉快さ故なのか。それは当人以外知り得ない。


「御伽噺は夢物語、語り継がれる空想……おまえの好きな夢は、見たい夢は、現実になり得ない空想か?それとも、叶えたい願望か?」


瞼を閉じながら思い浮かべたのは、ボロボロになった幼い体躯。紫や赤黒く変色した肌に、開いている切り口から流れ出ていた血。しかし傷も変色した肌も、じわりじわりと元どおりの綺麗な状態へ戻っていった。純白の髪から覗いた金色の双眸は鈍く暗い影を落とし、電源の切れた機械のようだった。


「その閉ざされた狭い世界の中で、確かに夢を見ているだろ?海底から地上の男に焦がれた女のように。見窄らしい装いで城の舞踏会に憧れた女のように。おまえ自身が気付いていないだけでな。おまえは、昔からそうだったからなあ」


金色の瞳が、一瞬だけ赤く煌めいた。


「そんな馬鹿で愚かで哀れなおまえを――」