- ナノ -

夢は見れないと知ってる


放課後ではあるが、図書室には存外人がいた。恐らくは、期末テスト前の追い込みのために訪れている生徒がほとんどだろう。

水世と轟は、授業が終わるとすぐに図書室へ移動した。と言うよりは、轟が手を引く形で水世を連れていったのだが。二人は空いていた席に座ると、不安要素がある教科の勉強を始めた。教科書やノートを机に出して、互いに教え合いながら黙々と勉強を進めていく。水世よりも轟の方が頭が良いために、ほぼほぼ彼女が教えてもらっている側だが。

それでも、元々賢い部類の水世が教えてもらう箇所は少ない。だが定期的に彼女にわからないところはないかと聞く轟に、水世は苦笑いを浮かべながら、じゃあお願いと質問をしていた。その度、どこか嬉々とした風に――表情は相変わらず無愛想なのだが――彼は教えてくれている。


「必修はどうにかなるとは思うけど、ヒーロー基礎学がちょっと不安なの」

「そうか?」

「うん。法制度とか、美術史とか。そういう類いは 、それ独特の規則や名称があるから。普通の法制度や美術教科は関係ないでしょ?だから、覚えるのはちょっと大変」


周囲の邪魔にならないように声を抑えめにしながら、水世は「この部分とか、あとここもかな。ややこしいから」と教科書を指差して言った。事細かに制定されている法律や規則の中には、些細な違いしかないようなものもある。似た制度の覚え間違いがないように気をつけなければ、もし出題された時に二問落とすことのなるにだから。

中間の時に比べて、当然範囲も広くなっている。演習も筆記も、これまでに学んだことの総集編のようなものとしか聞かされていない。ヤマを張ってその部分のみピンポイントで勉強したところで、外れてしまっては元も子もない。全体的に満遍なくするすることが、やはり一番いいのだろう。

教科書を広げて指でなぞっていきながら、水世は文章をボソボソと呟いた。だが重点的に勉強したい点について、教科書に記載されていない。


「“個性”所持者の中でプロヒーローとして認められた人数は……」

「七人。アメリカのロードアイランド州で制定された、世界初のヒーロー公認制度だな。そっから他の国でも公認制度が制定されてった」

「なんで七人だけだったのかな……その七人は他の人と何が違ったんだろう」

「その七人の“個性”が特殊だったとか、ヒーローやるには志や精神、実力がなってねえ奴ばっかだったんじゃねえか?」


割と丸くなったような気はするが、相変わらず口は不躾だ。水世はそう思いつつも、失礼だとわかっているため、それを口にはしなかった。

彼女は轟の考えに一理あった。ヒーローという職業は一見華々しいものだ。人々を救い、そして英雄として讃えられる。その反面怪我も多く、些細なことで反英雄に成り下がることもあるリスキーなもの。それでも希望者は後を絶たず、飽和状態となっている。

ヒーローは、自己犠牲精神で成り立つものでもある。自分の命より他人の命を優先する仕事なのだから。他を救うために自分を厭わない、そんな精神性や考えがなくては、ヒーローを続けることは難しい。

だが中には当然、自己犠牲の精神が薄い者もいる。ヒーローだって人間である以上、自分の命は惜しい。そんな者たちは無償でヒーロー活動を、何年も何十年も続けることはしないだろう。たとえ見返りがあったとしても、リタイアしていく者も多いと聞く。目に見えているヒーローに憧れても、実際のヒーローを目にして萎縮したり、理想との乖離にショックを受ける者だって一定数はいる。

ヒーロー活動を続けていくならば、まずヒーローを目指すならば、相応の志はもちろんのこと、精神や実力も伴わなければ無理なことだった。


「ヒーロー殺しの思想も、わからなくもないの。ヒーローの『人を救う』行為。それは本人の真心から起きた『目的』なのか、それとも収益や地位、名声を得るための『手段』であるのか……彼の思想はプロヒーローが成立する以前の原理主義的な思想ではあるけど、その人をヒーローたらしめる何かの中に、少なくとも後者は入ってないだろうから」


かと言って、命懸けの行いを続けるのだから、多少なりとも見返りを求めることが悪であるとは水世は思わなかった。今や職業として法的にも認定されているならば、業務内容に見合った分の見返りは置かれるべきだろう。ただ人を救いたいからヒーローをやるのか、地位や名誉を得る手段として人を救うのかでは根本が違うことは確かだった。どちらの方がヒーローらしいかと聞かれたならば、圧倒的に前者であることはわかる。

しかし後者を全否定する気は彼女にはない。人それぞれ、個々で目標や手段は違うものだ。ヒーローの全員が全員自己犠牲精神を持っているわけでもないし、純粋な正義感から活動をしているわけでない者も、数多くのヒーローがいれば中にはいるだろう。どんな理由にせよ、社会や国に貢献しているのならば、それはそれでいいのだろうというのは、水世の考えである。それらを押し付けるのは、少々身勝手だ。

ステインの思想、それもまた一つの考えであり一つの理想。共感できる部分だってある。ただその「理想」のために殺人という「手段」を用いたことは、良しとは言えない。殺人は法制度で定められている立派な犯罪でもあり、それを抜きにしても、人が人の命を奪うことは道徳的にも良いことではない。


「それに、ヒーローは一種の自殺攻撃でもあるから、自分の行動は顧みないといけないね」

「自殺攻撃?」

「そう。原ファシズムの英雄は、死こそが英雄的人生に対する最高の恩賞だと告げられ、死に憧れる……故に英雄は死に急ぐ。でも結果的にその気持ちが、他人を死に追いやる結果に繋がっていく……」


たとえば多くの命を守って死んだヒーローは、世間から賞賛される。名誉ある死であった、ヒーローとして立派な最期だったと。確かに数多の命を救ったことは素晴らしいことだと言えるだろう。ヒーローは自己犠牲を厭わない。自身の命を捨てる覚悟を持っているから。だがそうした死が英雄たらしめることであるとするならば、一種の自殺教唆と捉えることもできる。


「そういう暗黙の了解みたいなものが、多分あるんだと思う。死んだ方は本望かもしれないけど、残された方はそうと言えないことも、あるんじゃないかなあ。そしてその姿に憧れた人の周囲も」


頭で理解できても、感情はそれに追いつかない。それらは理屈ではないのだから。ヒーローの家族は、きっと不安と戦っている。ヒーローである以前に、その人は誰かの親かもしれない、配偶者かもしれない、子どもかもしれない、兄妹かもしれない。ヒーローへの尊敬や誇りを抱きながら、日々不安とも戦っているのだろう。


「自分を心配している人がいるってことを、頭に入れておかないといけないのかもね」


自分にはそんな相手がいるのだろうか。胸中で呟きながら、水世は轟に微笑んだ。瞳を猫のように丸くしている轟は、ぱちりと瞬きをしながら彼女をじっと見た。以前のような冷たさはそこにはないが、元々目力の強い彼の視線は、緊張感にも似たものを覚えさせた。


「誘は、結構現実的だよな」

「そうかな?」

「ああ。ヒーロー目指すって、割と夢見がちだろ。今でこそ職業になってるけど、一握りしか叶えられねえし。でも存在自体に子どもの夢とか憧れとか、そんなん詰まってる感じ。俺もオールマイトを見てヒーロー目指そうと思ったし」


ナチュラルボーンヒーロー。そう在るべくしてヒーローである彼の姿に、轟は憧れを抱き、大きな影響を受けたらしい。彼のようにオールマイトに憧れ、影響を受け、ヒーローを目指した者は多い。二人と同じクラスである緑谷も彼の大ファンであり、重度のヒーロー及びオールマイトオタクだ。


「でも誘は、ヒーローって存在とか概念よりも、ヒーローっていう一人間の欲だとか、思考だとか、そんなんに重き置いてるっつーか……そういう側面を見てる方が、多い気がした」


表よりも裏を見てるみてーな。そう続けた轟に、水世は眉を下げて笑みを向けた。


「誘はさ、なんでヒーローになろうって思ったんだ?」

「……急だね」

「気になった」


なんと返すべきかと、水世は内心困っていた。ヒーローを目指しているわけではないのだから、当然ヒーローになろうと思った理由なんてない。だが、それを素直に言うような馬鹿ではない。

中々答えようとしない水世の返答を待っていた轟だが、彼は彼女から目を離さないまま、口を開いた。


「ヒーロー殺しは言葉に力はねえって思ったみたいだが、俺は言葉にも、力はあると思う。実際緑谷や誘の言葉で、俺は目が覚めたし、背中も押された」

「私は何もしてないよ。緑谷くんが全力で轟くんにぶつかって、轟くんは自分で一歩踏み出しただけなんだから」

「いや、おまえにもきっかけを貰ったんだ。きっと飯田や緑谷も、誘の言葉にいろんなものを貰ってる。俺は、誘は人の背中押してくれるような、そんなヒーローになれんじゃねえかなって。そう思う」

「……それは、買い被りすぎだよ」


彼が言うような者ではないし、彼が思うようなヒーローにもなれない自分。轟は純粋に、本心でそう言っているのだと水世は理解できている。故に、余計に彼の言葉は真綿で締めつけるような苦しさを彼女に与えた。

無意味に教科書に視線を落としてページを捲った彼女は、ふと教科書では情報が足りていなかったことを思い出した。席を立った水世が本を探してくると伝えれば、轟は自分も行くと立ち上がろうとした。


「大丈夫だよ。荷物置いてくからさ、見ててもらってもいい?」


お願いした彼女に、轟は渋々といった風に頷いて、浮かしていた腰を落とした。水世は逃げるようにテーブルを離れて、本棚と本棚の間の通路を歩いていった。

あのままあそこにいるのは、良くないような気がした。半ば無理矢理逃げた形になってしまったが、それでも轟の目から逃げたかった。まっすぐな、純粋な、あの瞳から。


《表ではなく裏を見る。人間の欲を見る。今回は間違ってないな、あのガキは》

《……そういう性質だから、私は》

《人間はもっと夢を見る生き物さ。自身の欲望に忠実に、しかして理性が外れぬ限度でな》


だから私は違うって。そう呟いた水世は、席を立った手前本を一冊でも持って戻らなくては、と本探しに集中した。

敷き詰められたように並んでいる本を見ていきながら、水世は自身が求めている内容が書かれていそうなタイトルを探す。時折手に取って軽く中身を確認しては、元に戻すを七回ほど繰り返した。

少し背伸びして本を棚に戻した彼女が、踵を地面につけたとき。トン、と背中が背後にいた誰かとぶつかった。振り返った彼女が謝罪を口にしたのと同じタイミングで、同じ言葉が返ってきた。

少し視線を上げた水世は、瞳をぱちくりとさせた。見覚えのある男子生徒の顔だ。向こうも同じことを思ったのだろう、鋭い三白眼が驚いたように僅かに見開かれた。


「マスコミ騒動の時の、方ですよね……?」


ビクッと肩を跳ねさせたその人は、USJ事件が起きる前のマスコミ騒動の際、生徒たちに潰されかけていた水世を庇ってくれた男子生徒であった。


「お久しぶりです。その節はありがとうございました」

「い、いや……こっちこそ、その、ごめん……知らない奴にあんな至近距離で近付かれて、不快だと思われても仕方がない……」


一人勝手にネガティブな方向へ持っていった彼は、視線を下げてボソボソと呟いた。水世は不思議そうな表情を浮かべつつ、そんなことはないと首を横に振った。あの時彼に庇ってもらわなければ、ずっと押し潰された状態であったのだから。


「本当に助かったんです。ですから、そう卑下なさらず……」


励ますような口調で彼を覗き込んだ水世は、眉を下げて笑った。相手はギョッとしたと思うと、顔を赤くしたり青くしたり、慌ただしく顔色を変えている。ぱちぱち瞬きをした水世は、そんな彼の反応に大丈夫なのかと心配そうに見つめた。


「あ、あの、そういえば……えっと、何か本、探してる……?」


突然の質問に頷いた水世は、探しているジャンルを伝えた。すると彼は視線をうろちょろさせたと思うと、こっちと呟いた。どうやら案内してくれるようで、水世は彼の後ろを歩いた。彼は三つ四つ先の本棚で立ち止まり、本棚の方を見上げ、視線をゆっくり動かしていく。

ピタリと目を止めた彼の視線の先を追いかけて、水世も本棚へと視線を移した。スッと彼の手が本へと伸びて、一冊の本を抜き取る。そしてその一段下の列からも一冊抜き取った彼は、その二冊を持って水世の方を向いた。


「これ……俺個人の感想だけど、結構わかりやすく書いてるし、詳しく載ってるから、迷惑じゃないなら、よかったら……」

「ありがとうございます。探すのが大変で、とっても助かりました」


本を受け取った水世は、ふと彼から名前を聞いていないことを思い出した。控えめに彼を覗き込みながら名前を尋ねれば、男子生徒はまたも肩を跳ねさせた。


「あ、俺は……天喰、環……ヒーロー科の、三年生」

「ヒーロー科の先輩でしたか……ヒーロー科一年、誘水世です。重ね重ね、ありがとうございます」


頭を下げる水世にブンブンと勢いよく首を振った環は、また視線をいろんな場所へ散らした。

軽い会釈をした彼女は、笑みを浮かべてもう一度お礼を告げると、轟がいるテーブルへと戻っていった。「ねえ、今ビッグ3いなかった?」「それってヒーロー科の?」通った道を戻っていく最中で、どこか浮き足立ったような女子生徒の会話が耳に入ってきた水世は、ヒーロー科のビッグ3とはと首を傾げつつも、気にせずに本棚を抜けた。


「ごめんね、遅くなっちゃって。荷物見ててくれてありがとう」


本を置いた水世は、座っていた場所へ再び腰を下ろすと、早速環がオススメしてくれた本の一冊を開いた。


「探すの大変だっただろ」

「うん。でも、三年生の先輩がいい本教えてくれたから」

「三年……?」


マスコミ騒動での食堂の件を説明しながら、水世はページを捲っていった。その時の周囲の混乱具合を轟も知っているため、彼は僅かに眉を寄せた。


「大丈夫だったか?」

「潰されそうにはなったけど、その先輩が助けてくれたから」


盾になるような形で守ってくれたのだと話せば、轟の表情が曇った。だが本に視線を向けている水世は気付くことなく、目当てのページを探している。

誘、と名前を呼ばれた彼女が顔を上げれば、轟と視線が合った。普段通りにも、不機嫌なようにも見える彼の表情に、水世はページを捲っていた手を止めた。今のやり取りの中で彼の機嫌を損ねるようなことをしていたのだろうかと内心首を傾げながら、水世は彼にどうしたのかと尋ねた。


「なんかあったら、今度は俺が助ける」

「……私を?」

「誘を」


彼自身真面目に言っているようで、水世は一度視線の下げた。だがすぐに笑みを浮かべて轟の方を見ると、一言お礼を伝えた。