- ナノ -

境界線上に立つ曖昧な私


教室の扉を開けたのが水世だと認識した轟は、すぐに立ち上がって彼女の方へ歩み寄った。自身の席へ向かっていた水世は、自分の方へ寄ってきた轟に足を止めた。少し高い位置にある彼の瞳を見上げながら、水世はおはようと微笑んだ。

頷いて挨拶を返した轟は、左右異なる瞳でじっと水世を見つめた。どこか不機嫌そうにも見える、何か言いたげなその瞳に、水世は小首を傾げて彼の言葉を待った。


「期末テストあるだろ。来週」

「うん」

「……一緒に、勉強しねえかと思って」


ぱちぱちと瞬きを数回繰り返した水世は、一つ返事でいいよと頷いた。パッと雰囲気が柔らかいものへと変わる。その変化に水世は内心不思議がりつつも、いつしようかと尋ねた。そこら辺は決めてなかったのか、轟は黙り込んで考えている。

日曜日は、轟は母の見舞いへ行く予定がある。水世もその日は常闇との予定が入っている。そのため時間が取れるのは互いに放課後となる。いつの放課後にしようかと二人で話し合った結果、明後日の放課後に図書室で、と決まった。

不意に、轟が目をぱちくりとさせながら胸もとを押さえた。押さえている位置を見つめている彼の様子に、水世はどうかしたのかと窺うように尋ねた。


「……昨日の放課後から、なんでかモヤモヤしてて。でも、誘と話したら消えた。そういう力とか持ってんのか?」

「いや……多分ないと思うけど……」


轟と水世は、二人して不思議そうに顔を見合わせた。ちょうど教室に入ってきて二人の会話内容を聞いていた蛙吹は、顎に人差し指をあてながら首を傾げた。













相澤のそばにいる少年に、水世は見覚えがあった。体育祭の時に緑谷と一回戦で戦っていた、心操だ。二人で何か話をしている様子の彼らに珍しい組み合わせだと彼女が思っていれば、心操と目が合った。彼の濃い隈のついた瞳がぱちりと瞬く。

彼の反応に、相澤が振り返った。水世はおずおずと頭を下げた。邪魔してしまったかもしれないと、少し申し訳なく思いながら彼女はその場を去ろうとした。だが相澤が、ちょいちょいと手招きをした。水世が確かめるように自分を指差せば、相澤は気怠げな瞳のまま頷いた。


「普通科の心操だ。こっちはヒーロー科の誘水世、A組の妹の方だ」


相澤は水世と心操、それぞれに説明するように言った。心操と顔を見合わせた水世は、互いに軽く頭を下げて挨拶を交わす。どちらも、何故対面させられたのだろうかと疑問を持ち、挨拶後妙な沈黙に包まれた。


「心操は、ヒーロー科への編入を希望してる。この前の体育祭の活躍で、今は編入候補者に上がってる」

「そうなんですか……おめでとう、心操くん」

「どうも……でも、まだ編入できるって決まったわけじゃないから」


相澤はその通りだと頷いた。あくまでまだ候補であり、編入できるかどうかは今後の心操の活躍次第。現段階での彼の身体能力はそう高くはなく、そのためもしヒーロー科への編入を強く希望するのなら、今からでも徹底的に鍛えていかなければならないのだ。

もしかして相澤が彼を鍛えるのだろうか。水世はふと考え、納得した。相澤の“個性”と心操の“個性”は、どちらも戦闘向きではない。相澤は、その戦闘向きでない“個性”を上手く活かしてヒーローをやっている先輩でもある。故に、心操が彼に教えを乞うたのか。それとも相澤が自身と似た戦闘向きでない“個性”という点で気にかけたのか。どちらにせよ、相性としてはそう悪いものでもないのだろう。


「心操くんは、ヒーローに向いてると思うから。だから大丈夫だよ。諦めずに、夢に向かって進んでいけるんだから」


彼もヒーロー科の入試は受けたのだろう。しかし恐らく、個性”の相性が悪かったことで落ちてしまった。本人も“個性”の相性の悪さを織り込み済みで、落ちる前提で普通科の入試も受験している。そうして、普通科の生徒として入学した。

ヒーローになる道は、何も雄英だけではない。ヒーロー育成校は全国各地にあるのだから、そのため入試制度が異なる他校を選ぶ道も心操には残されていたはずなのだ。だがあえて雄英の普通科という選択肢を選んで、そこで諦めることなく、虎視眈々とヒーロー科への編入を狙っている。向上心はもちろん、諦めない精神や、純粋な憧れ、直向きさ。様々なものを有している彼は、立派なヒーローの卵であるのだと水世には感じられた。


「心操くんの“個性”だって、ヒーローとして有効活用ができる“個性”だからさ」

「……誘さんの方が、ヒーローには向いてる“個性”でしょ」


彼の言葉を受けた瞬間、冷水を垂らされているかのような感覚が、水世の胸に落ちた。


「“個性”のヒーロー向きとか、敵向きとかは個々の考えにもよると思う。でもまずは、その“個性”をどう使うかが、重要なんじゃないかな」


“個性”を使用する点において、ヒーローも敵も同一。ただその力を何のために、どういう風に扱うかで、人は善にも悪にもなれる。一歩間違えば、ヒーローだって敵に成り代わるのだから。


「まっすぐにヒーローへの道を進もうとしてる心操くんは、“個性”を悪用したりしないで、誰かのために使えると思う。だから心操くんの“個性”は、ヒーローに向いてるって、私は思うな」


心操は目を丸くしたと思うと、スッと視線をそらした。だが小声で、居心地悪そうに眉を寄せつつも、ありがとうとこぼした。微笑み返した水世だったが、ふと相澤と心操は話中であったことを思い出した。彼女は慌てて謝ると、その場を去ろうと二人に背を向けた。

だが、一歩踏み出す前に水世は振り返った。


「こんなこと言うの、多分失礼だとは思うんだけど……でも私の“個性”はさ、周りが思うほど、ヒーローには向いてないよ」


ヒーローになれるようなものでもない。その言葉は心の中だけに留めた。へらっと笑った彼女は、相澤がいる手前廊下を走ることはせず、歩いて二人のもとを去った。相澤はそんな彼女の背を物言いたげにしばし見つめたが、心操へと向き直った。


《さっきのガキに言ってること、おまえが自分に言っていることが真逆だ。“個性”は使用者によってヒーローにも敵にもなるとガキには言いながら、自分には“個性”によってヒーローにはなれないと言う。言ってることがだいぶ矛盾してるぞ》


呆れたような満月の言葉に、水世が不意に足を止めた。

水世は自分でも、嘘をついていることを自覚している。雄英で過ごすにあたって自身を守る術として、彼女は嘘を選んだ。それが自分は人より得意であったから。だが全てが全て嘘ではなく、真実を練り混ぜることで相手を騙した。


《どうした?》


ここ最近の自分の行動を、彼女は振り返った。今まで自分がするとは思えない行動を、自分は起こし続けている。ふと思ったのだ。その行動は、自分の嘘から働いた行動なのか、真実から働いた行動なのか。

行動の理由が、自分で理解できていない。故に、体育祭終わりに八百万へかけた言葉、職場体験前に飯田へかけた言葉、他にも様々な自身の言動が、果たして心の底からのそれであったのか、それとも嘘が入り混じっているのか。それが水世自身も把握していないことに気付いた。

それらは自分の本音であると、思っている。他者への評価に嘘はつかないよう心掛けているから。だから先の心操への言葉だって、本音であるはずなのだ。しかし自分へ向けた「“個性”によってヒーローにはなれない」も、本音であるはずなのだ。

普段なら気にならないこと。「自分は普通でないから適応されない」と言い返せるようなこと。しかし最近の自分がおかしいということもあるからなのか、水世は異様なまでに恐怖した。


「……私……私、知らないうちに、嘘をついてる……?」

《……おい、どうした》


壁に手をついた水世は、呆然とした様子で呟いた。彼女の様子に異変を感じた満月は、やや困惑の色を含んだ声を出した。


「自分では本音と思っていることが、実は嘘、なのかな……?」


もし、もしそうだとしたならば。どれが自分の本音で、どれが自分の嘘であるのか、曖昧になってしまっているということになる。

欠陥。爆豪に言われた言葉が、彼女の脳内で延々とリピートされている。彼の言葉はきっと正しい。だから自分は人間にはなれない。こうして自分で自分を理解することもままならなくなって。これでは踏み台にもなれやしない。役にも立てない。本当の不要品になってしまう。伊世の役に立てない。そうなれば、自分はどうやって――。

水世の全身から血の気が引いて、今にも吐き気をもよおしそうだった。視界がグラグラ歪んでいきそうで、いっそこのまま気でも失った方が楽なのではないかとさえ思えた。


《水世!落ち着け!》


満月の大声が脳内に響き、水世は僅かに意識を戻した。そこでようやく自分が息を止めていたことに気付いて、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。垂れていた冷や汗を拭い、彼女は胸を押さえた。グラグラだった視界も少しずつ正常へと戻っていく。


《落ち着いたか》

《……うん、とりあえずは……》


彼女は壁に手をついたまま、ゆっくりと前髪を掻き上げた。声音はやや震えてはいるが、それでもだいぶ落ち着いてはいた。


《取り乱すな。おまえが他者へ向けた言葉に嘘はねえ。あれは紛れもなくおまえの本心だ。あの爆破野郎の言葉も気にしてんじゃねえよ》


満月の言葉に、水世は安堵の息を吐いた。グチャグチャになっていた思考回路も正常へ戻っていく。冷静さを取り戻しながら、水世は満月へ謝った。彼はバツが悪そうに舌打ちを落とすと、謝るなとだけ告げて、遮断してしまった。