- ナノ -

堕ち行くカウントダウン


模擬市街地へ到着したが、相澤の姿は見えない。皆は不思議に思いながらも、飯田の誘導のもと中へ入ろうとした。だが障子が大きな触手の先に鼻を複製して、匂いを嗅いでいる。曰くガソリンのような匂いがする、と。どこかで交通事故の演習でもしているのではないか。上鳴がそう言った直後、小さな悲鳴が聞こえた。その悲鳴がやまぬうちに、別の人たちの叫び声も聞こえる。

ただ事ではないと、皆慌てて声のした方へ駆け出した。ビルの建ち並ぶ道路を駆け抜けていくと、どんどんガソリンの匂いが濃くなっていく。そして、突然視界が開けた。


「……なんだよ、あれ……」


立ち止まった生徒たちの視界の先には、空き地が広がっていた。本来そこにあったはずのビルは倒壊しており、瓦礫が脇に無残に寄せられている。ビルの建っていたところには、半径数十メートルはあるだろう大きな穴がある。

そして、その穴の中央にポツンと取り残された大きなサイコロのような檻。一見宙に浮いているように見えるのは、丸かじりして残されたリンゴの芯のように、削り残された塔のような地面の上に、檻が置かれているからだ。

檻の中から上がっていた悲鳴が、生徒たちが現れたことで、意味のある言葉へ変わる。


「お茶子ー!」

「父ちゃん!?」

「焦凍……っ」

「っ……」

「天哉……!」

「母さん……!」

「出久……!」

「お、お母さん……?」


檻に囚われていたのは、今日の授業参観のために学校を訪れていた生徒の保護者たちだった。それぞれ怯えたように、檻から自分の子どもの名前を呼んでいる。

皆が慌てた様子で檻へ駆け寄っていく。だが穴の淵まで来て、強烈な匂いに足を止めた。穴の深さは八、九メートルはあるようだった。その底に、澱んだ液体――ガソリンが浮かんでいる。読めない状況に、生徒たちの間にざわめきが広がっていく。そんな彼らの様子を冷たく撫でるように、機械的な声が聞こえてきた。


「アイザワセンセイハ、イマゴロネムッテルヨ。クライツチノナカデ」


機械で無機質に変えられてはいるが、その声音には明らかな敵意が含まれていた。咄嗟に身構える生徒たちは、声の主がどこにいるのかと周囲に視線を配り、誰かが姿を見せるよう叫んだ。声の主は騒ぐなと一蹴すると、嘘だと思いたいのならばそう思えばいいと告げる。


「ダガ、ヒトジチガイルコトヲワスレルナ」

「人質……」


声の主を探すように辺りを見回していた緑谷たちに、耳を複製していた障子が、声は周りからではなく檻の中から聞こえると告げた。声の主はその通りと呟くと、それを合図にしたように、保護者たちが恐れ慄いて退いた。そんな保護者たちの後ろに、黒い人影が現れた。

フード付きの黒マントに、黒いフルマスクをつけた人物。背の高い男だ。周りの保護者たちは、檻の隅へと逃げていく。この異常事態に飯田が隙を見て、そっとスマホを操作して外部へ連絡を入れようとした。だが目敏く気付いた男は、外部や学校への連絡は不可能であること、上鳴の“個性”でもそれは無駄であることを告げた。

上鳴の“個性”が知られているということは、他の生徒たちの“個性”も把握している、ということか。周囲が焦りや不安を感じている最中、水世は訝しげに眉を寄せて、男を見ていた。


「ニゲテ、ソトニタスケヲモトメニイクノモキンシダ。ニゲタラ、ソノセイトノホゴシャヲスグニシマツスル」


その時、檻の中で、がっしりとした体格の人の好さそうな麗日の父親が格子を掴み、ガチャガチャと揺らして叫んだ。


「あかん!檻が頑丈でどうにもできひんわー!」

「た、助けて、百さーん……!」


気が動転しているからなのか、多少棒読み気味な母親の助けを求める声に、八百万は動揺を隠せない。八百万の母の隣で、スーツ姿の蛙吹の父親が「ゲコッ、ゲコッ」と鳴く。そんな父の姿に、普段は常に冷静な蛙吹でさえ、不安そうな鳴き声をこぼした。


「なんで……なんでこんなこと……!?」

「ボクハ、ユウエイニオチタ」


男は、雄英に入学してヒーローになるのが自分の全てであったのだと語った。だが結果は落第。優秀な自分が落ちた世の中は間違っていると。要するには八つ当たりから起こした犯罪、ということだろう。


「めんどくせえ、今すぐブッ倒してやるよ……!」


男の言葉を遮るように叫んだ爆豪は、不敵な笑みを浮かべて手のひらで爆発を起こしている。その勢いのまま檻へ行くつもりなのだろう。穴の淵の前へと駆け出そうとした。だが男は、一番近くにいた爆豪に母親を引き寄せた。その様子に、爆豪は舌打ちを落として二の足を踏んだ。


「勝手に捕まってんじゃねえよ、クソババア!!」

「クソババアって言うなっていつも言ってるでしょうが!!」


爆豪の言葉に、男に捕まり怯えていた爆豪の母親の顔が一変。その場にそぐわない怒号が飛び、一瞬、全員がきょとんとして爆豪の母を見た。生徒たちは思わず、流石は爆豪の母だと感心してしまった。


「……オトナシクシテイロ」


そう言って、男は爆豪の母を突き放した。最早条件反射なのか。しかしこの状況であの怒号を飛ばせるのは、随分と肝が据わっている。水世は感心しながら、少し思考を巡らせた。


《アイツは、どうやってここに入ったんだろうな》

《わからない……USJ襲撃の件からセキュリティはより強固になってるはずだから、侵入者がいればセキュリティが働くと思うんだけど……》

《それを妨げることのできる“個性”持ち、か……》


水世が冷静に満月と会話をするなか、緑谷は男を見据えると、落ち着いた声で犯人に目的を尋ねた。男は、この場にいる生徒たちの明るい未来を壊すことが目的であると淡々と告げた。そのために、家族を自分たちの前で壊そうと思ったのだと。


「……それだけのためにか?」

「俺たちが憎いなら、俺たちにこいよ!家族巻き込むんじゃねえ!」


尾白が太い尻尾を怒りで震わせながら、憤然と言葉を吐き出す。その彼の隣では、切島が男を怒鳴りつけた。だがそんな彼らを嘲笑うように、男は言う。


「ボクガコワシタイノハ、キミタチノカラダジャナイ。ジブンヲキズツケラレルヨリ、ジブンノセイデ、ダイジナダレカガキズツケラレルホウガ、キミタチハイタイハズダ。ヒーローシボウノキミタチナラネ」


ヒーローは自己ではなく他を守るもの。自分のせいで守るべき他を傷つけられることは、どんな怪我よりも痛みを覚える。その点を突いてくる辺り、よくわかっている。


「あなたもヒーロー志望だったのなら、こんなバカなこと、今すぐやめなさい!」

「そうだよ!こんなことしてもすぐに捕まるんだからね!」

「ニゲルツモリハナイ。ボクニハ、ウシナウモノハナニモナインダ。ダカラ、キミタチノクルシムカオヲ、サイゴニミテオコウトオモッタンダ。キミタチモ、ダイジナカゾクノサイゴノカオヲ、ヨクミテオクンダナ。――サァ、ダレカラニシヨウカ……」


男が人質に向かって手を伸ばしていく。保護者たちは怯えながら、隅の方へと寄っていく。麗日が必死にやめて!と叫ぶなか、緑谷は一人ブツブツと何かを呟いていた。そんな彼を隠すようにして、轟が緑谷の前に立った。


「緑谷くん、何かいいアイディアは浮かんだのか」

「いや、まだ……」

「そうか……みんな、犯人の気をそらしてくれないか。気付かれないように」


飯田の言葉に、切島と上鳴が応えて前へ出た。それに数人の生徒が続き、それぞれが犯人へ話しかけ、注目を向けさせようとしている。水世は檻の中にいる人たちを見つめて、飯田の方へ近付いた。


「私が助けを呼びにいくのはダメなのかな?檻の中に私の保護者はいないし……」

「いや、誘くんの“個性”は強力だ。何が起こるかわからない以上、戦力は多い方がいい。だから君には、この場にいてほしい」

「最悪、おまえの保護者がいないから全員殺すってなってもおかしくはねえしな」


最悪のパターンへと傾く可能性もある以上、水世もこの場にいるのが最善なのだろう。会話に混ざった轟の言葉に、水世は確かにと納得して頷いた。


「誘くん、君の瞬間移動で保護者たちを助けることはできないのかい?」

「……私の瞬間移動は、移動する対象が生物の場合、私含めて二人だけだから。私だけが向こうに行くのも、正直距離がありすぎるから、ちょっと難しいかも」


水世の“個性”はおおよそは万能だ。しかし完璧でも、無敵でもない。もちろん限度はあるし、できないことだってある。瞬間移動はできることだが、複数人での移動は困難だ。加えて短距離を移動するのであれば紋様の広がりもそう大きなものではないが、距離が伸びれば伸びるほど、一回の移動に対する紋様の広がりは大きくなる。

青山が口田へ話を振っている声を聞きながら、水世は穴の底に澱むガソリンの量を考えた。あれだけの量を変換させることも、水世にはできない。これに関しては不可能ではないが、することはできない。

ことごとく手段が潰されていることに、水世は額に手をあてた。犯人は水世の“個性”をちゃんと把握しているのか、それとも単なる偶然か。できれば後者であってほしいと願いながら、何か思い浮かんだらしい緑谷が、葉隠と八百万、それに麗日を呼ぶ声を聞いた。

緑谷の作戦はこうだ。小型のスタンガンを八百万に作ってもらい、麗日が葉隠とスタンガンを浮かせる。葉隠は透明なため、裸になったらどこにいるのかわからない。麗日に浮かせてもらえば、バレずに檻へ近付くことができるというわけだ。

葉隠は制服を脱いでいき、完全に見えなくなった。峰田はこの状況でもブレることなく、食い入るように葉隠を見ており、蛙吹が舌で地面に叩きつけた。


「準備万端だよ」

「気をつけて、葉隠さん……!」

「任せて!」


麗日が葉隠へと触れると、小型スタンガンがふわりと浮き上がり、檻の方へと向かっていく。注意を引きつけていた生徒たちはそれに気付き、より一層大きな声を上げて犯人の気を自分たちの方へ向ける。

生徒たちの呼びかけにうんざりしているような黒マントの男の背後に、スタンガンが辿り着いた。葉隠は低い姿勢を保って移動しているようで、スタンガンは地面スレスレをふわふわ移動している。

男は苛立ったように檻の中を歩き回っており、それを追うようにして、格子のすぐ外でスタンガンが待機している。


「イチバンウルサイセイトノ、オヤヲシマツスレバ、オトナシクナルカナ……」


男が親を見定めようと足を止めた時。スタンガンが格子の間から男の足元へ近付いた。バチバチとスタンガンが青白い光を放ったその瞬間、男の足がそれを蹴り飛ばした。スタンガンは葉隠の手から離れ、穴へと落下していく。


「ドウヤラ、ミエナイコバエガ、マギレコンデイタナ……!」


男は怒りに肩を震わせたと思うと、乱暴に鍵を開けて檻の外へ出た。そしてマントの中からライターを取り出すと、緑谷の制止を待つことなく、ライターを穴へと放り込んだ。その途端、穴から勢いよく炎が上がる。

皆、穴から上がる熱風に息を呑んだ。感じる熱さで炎がピリリと痛む。揺らめく炎の先に見えるのは、絶望に必死に耐えようとしているような家族の顔。炎は風に煽られて勢いを増すばかりで、上がる炎で家族の姿が見えなくなった。


「僕のせいだ……」


緑谷の、弱々しい声が水世には聞こえた。炎の勢いを見つめながら、水世はこめかみを人差し指でトントンと叩く。彼女が自身の左腕に視線を落としたと同時、絶望に崩れ落ちそうだった緑谷を、爆豪が蹴り飛ばした。


「アホか、てめェは。今が絶好のチャンスだろうがよ!」


いつもの険しい表情から一変。犯人を見据えた爆豪は、敵顔負けの凶悪な笑みを浮かべた。そして麗日に自分を浮かせるように言うと、彼は爆発を連発させながら犯人へと向かっていった。轟は犯人目掛けて氷結させると、犯人の足元を凍らせた。爆豪は動けなくなった男に馬乗りになり、手のひらの上で爆発を起こして威嚇している。


「俺たちも行こう!」


飯田に促され、立ち上がる緑谷に麗日はタッチした。「父ちゃんをお願い……!」と必死な様子の彼女に、緑谷は安心させるよう微笑みながら頷くと、彼は飯田と共に檻へ飛んだ。犯人を氷結させながら、轟と常闇もそれに続く。

八百万は少しでも火を抑えようと消化器を創り出すと、それを麗日たちへと渡した。だが突然、檻の方から爆発音が聞こえた。檻が乗っている地面が揺らぎ、バランスを崩していく。マントの男は、もしものために自殺覚悟で爆弾を仕掛けていたのだ。


「おい!下が崩れそうだ!早く避難しろ!」


消化器ではこの規模の炎を消そうにも難しく、間に合わない。八百万は思考を巡らせると、何かを思いついたようにハッとした。地面は大きく傾いており、轟は咄嗟に穴の向こうへと氷を伸ばし、なんとか繋ぎ止めた。しかし氷の橋は炎天下のソフトクリームのようにたちまち溶けていく。氷が溶けきるのも時間の問題だった。


「八百万さん、時間はまだかかる?」

「もう数分ほど必要です……!」

「そっか。数分なら、多分大丈夫かな……」


水世は呟くと、“個性”を発動させた。彼女は深く息を吐くと、上着のボタンを外し、シャツのボタンを下だけ外していく。腹部の肌だけを晒したと同時、水世の腹部から、巨大な龍を象った水が出現した。その龍は轟が繋げ続けている氷に巻き付いて、まるで氷を炎から庇っているかのようだ。

熱の締めつけが一気に肘を越したと思うと、徐々に上へ上へと広がっていく。水世は左腕を握りしめながら、檻の方を見た。龍が氷をガードしているおかげで、溶けるスピードは落ちていっている。


「滑り台……!」


緑谷が何かを思いついたようで、声を上げた。彼の作戦は、以前の救助訓練の際に行った救助袋を参考に、氷の橋を滑って避難するというものだった。

不意に、舞い上がった炎が檻の方へと襲いかかろうとした。瞬間、水世は咄嗟に射撃!と叫んだ。その言葉を受けた龍が、口から勢いよく水を吐き出して舞い上がった炎から緑谷たち、そして保護者を守った。水を吐き出した龍は、僅かに縮んでいる。

締めつける熱に水世が顔をしかめたと同時、八百万が上着を脱ぐと、背中からシャツを破って大きな布のようなものが出てきた。


「防火シートですわ。さっきから作っていましたの。麗日さん、瀬呂さん、お願いします!」


シートを受け取った麗日が、タッチしたものを瀬呂へ渡した。彼はテープの先にシートをつけると、塔へ向かって勢いよく射出させる。切り離されたテープをつけたまま飛んできたシートを黒影が受け止めると、それを緑谷へと渡した。

ドクン!水世は自身の心臓が大きく鳴ったことに気付き、僅かに表情を歪めると“個性”を解除した。氷の橋に巻きついていた龍は、そのまま消えてしまった。ハッと息を吐いた彼女は心臓の位置を押さえながら、防火シートに乗っている保護者たちの方見た。

犯人は抵抗する気はないのか、大人しくしているようだった。緑谷たち以外はシートの中に乗り込んだ。飯田が先頭でシートの両端を後ろ手で持ちながら走り出す。彼のふくらはぎのエンジンからは爆音と共に黒煙が噴き出していた。トルクと回転数を上げ、一度使うとエンストを起こしかねない爆発力を生む、彼の裏技である。

瞬間、引っ張られた速度に負けないようにと後ろから押す緑谷、常闇、爆豪。後ろのシートの両端は黒影が持ち上げており、轟は限界まで氷結を続けると、直前でシートに転がり込んだ。

飯田の疾風のような瞬足は、あっという間に氷の橋を滑り渡った。保護者たちに叫び声を上げる暇も与えずに、飯田の足は穴の向こうの地面を踏んだ。

祈る気持ち待っていた麗日たちが、喜びの声を上げようとしたその瞬間。大きな音を立てて、塔が炎の中へと崩れ落ちる。それは氷の橋へと伝わり、シートが通り過ぎるのを待たずにその下で折れ、炎に飲まれた。足場を失くした緑谷たちは、咄嗟に掴んだシートの端にぶら下がっている。

シートごと落ちそうになるのを察知した飯田は、踏ん張りながらシートを引っ張った。慌てて他のみんなも彼に続いて、シートを引っ張り上げていく。


「せーの……!」


立ち上る炎に飲まれそうになる瞬間に引き上げられ、全員を乗せたシートは無事に、こちらの地面に着くことができた。皆が安堵の息を落とすなか、水世は静かに深呼吸を繰り返した。

ここまで紋様を広げたのは久々だった。以前の救助訓練の時は、ギリギリ拍動しなかった。だが今回は、酷く危うい状態であった。


「オメデトウ、コレデ、ジュギョウハオシマイダ」


無機質な機械音に、水世は顔を上げた。いつの間に動いていたのか、犯人がシートから降り、離れた場所に立っている。


「は?何言って……」

「捕まえとけ、とりあえず学校に知らせねえと……!」

「それに相澤先生を――」


みんなが顔面蒼白になるなか、聞き慣れた無気力そうな声がどこからか聞こえた。


「はい、先生はここです」


皆が慌てて声のした方を見れば、倒壊したビルの陰から現れたのは、普段通りの相澤その人であった。