空いた溝は狭まっていく
「えー……そろそろ夏休みも近いが、もちろん君らが三十日間一ヶ月休める道理はない」
「まさか……」
「夏休み林間合宿やるぞ」
「知ってたよー!やったー!!」
相澤の言葉で歓喜に包まれた教室内。肝試しや花火、カレーなど、夏休みと林間合宿でお決まりのようなイベントの名が上がるなか、一人風呂と叫んでいる峰田は、先の更衣室でのことを一切反省していないらしかった。
都市部と自然環境とでは、活動条件は大きく変わっていく。環境が変われば訓練方法も当然違う。今までは都市部での活動が主であったが、林間合宿では自然環境の中での立ち回り方を学ぶことのできる良い機会でもあった。
「ただし……」
相澤の赤みを帯びた鋭い眼光で、お祭り騒ぎのような状態だったクラスが一気に静まり返った。相変わらず変わり身の早いクラスメイトだと、水世は一人感心する。
「その前の期末テストで合格点に満たなかった奴は……学校で補習地獄だ」
「みんな頑張ろーぜ!!」
相澤の言葉で、一気に皆のやる気は上昇した。クラスメイト全員で林間合宿に行きたいのはもちろんのこと、周りが合宿に行ってるなか、学校に残る虚しさや寂しさを味わいたくない、というのもあるのだろう。
帰りのHRが終わり、水世が教科書などをバッグに詰めていれば、轟から声をかけられた。彼は水世を見下ろすと、「今、ちょっといいか?」と尋ねた。不思議に思いつつも頷いた彼女に、轟は場所を変えたいと歩きだした。
轟についていけば、人気の少ない廊下へと連れてこられる。彼とこうして話すのは体育祭以来ではないかと思いながら、水世は轟が話しはじめるのを待った。彼は水世の方を向くと、数秒間を置いて、頭を下げた。
「ごめん。俺、おまえに色々と酷いこと言った」
飯田といい轟といい、今日はよく謝られる日なのだろうか。目を丸くして驚いた水世は、顔を上げるように轟に促して、苦笑いを浮かべながら気にしていないと声をかけた。
「私も、轟くんに失礼なこと言ったから。怒らせるようなこと言った私が悪いよ」
「いや……俺はおまえに、両親を重ねてた。もちろん、誘から言われた言葉に苛立ったってのもある。でもおまえが言ってたことは正しかった。俺はおまえを通して両親の姿を見て、そんで、親父に向けてた嫌悪だとか憎悪だとかを、無関係な誘にぶつけてただけだ」
だから、ごめん。もう一度頭を下げた轟に、水世は頬を掻いた。実際、自分が彼の触れてほしくない部分に不用意に触れてしまったことが問題だったのだ。轟がそう気にすることではない。しかしそう言っても、轟はきっと聞かないのだろうと、彼女にはなんとなくわかった。
「さっきも言った通り、私も悪かったからさ。だから、おあいこ。私の方こそ、ごめんなさい」
「おまえが謝ることは……そもそも、誘はいつも謝ってくれてただろ。もう気にしてねえ」
「うん。私も、もう気にしてないよ。だからこれでこの話はおしまい、ってことじゃダメかな?」
ぱちりと瞳を丸くした轟は、一言お礼をこぼした。そして意を決した表情を浮かべると、まっすぐと水世の瞳を見つめた。
「俺、一番のヒーローになる。なりたい自分に、なりたいヒーローになってみせる」
以前、体育祭の日の帰り。あの時は思い詰めたような顔をして、俯きがちに言われた言葉だった。だが今度はしっかりと前を見て、真剣な面持ちで告げられた。それを受けて、水世はふと伊世やイナサのことを思い出し、穏やかに笑った。
「なれるよ。今の轟くんなら、なりたい自分に……自分の目指すなりたいヒーローに、きっとなれるよ」
目を見開いて驚いている風な彼の表情に、水世は僅かに首を傾げた。だがその表情の理由を聞くことはせずに、話はそれだけかと尋ねた。すると、彼はまだあるのだとこぼした。謝罪の他にはなんだろうかと、彼女は少し身構えつつ言葉を待った。
「俺、誘と仲良くなりてえなって」
「……そうなの……?」
《マジかよ》
思いもよらない言葉に、水世も満月も驚きの声を上げた。満月の声は水世にしか聞こえていないが。
轟の口から「仲良くなりたい」という言葉が出てくるのは、失礼ながら意外である。だがそう言われたはいいものの、仲良くなるにはどういうことをするべきか、水世は深く理解しているわけではない。
なにか具体的にしたいことをがあるのかを轟に尋ねてみると、彼はあると頷いた。あるのか。自分で聞いておきながら、水世は少し驚いてしまった。
「メッセージのやり取りしたり、一緒に昼飯食ったり、あと手作りの菓子貰えるようになるくらいには仲良くしてえ」
予想以上に具体的だったことに、水世はぽかんとしてしまった。
「別に、全然いいけど……とりあえず、連絡先交換して、明日一緒にお昼食べる?」
手作りのお菓子、というのは急なためすぐには用意できないので、今度持ってくることになるが。そう提案すると、轟がパッと瞳を大きくした。どこか期待に満ちているように見える彼の表情に、何故私なんかとなんて思いつつ、水世は苦笑いを浮かべた。
轟はこんな性格だっただろうか。いや、本来の彼はこういった性格なのかもしれない。今まで家庭の問題で荒んでいたと表現するべきか。それが自分の中で踏ん切りがついた今、素の性格に戻ったのかも。そんなことを考えながら、彼女はどうする?と轟に尋ねた。彼が二度ほど頷いたので、水世はスマホを取り出した。
人気のない廊下で、口数少なめにスマホを出しながら向き合っている二人の絵面は、正直異様だろう。通りがかって二人を見た生徒が不思議そうな顔をしていたが、水世も轟も気付いていなかった。互いに連絡先を登録すると、轟はスマホ画面をじっと見つめた。
「どんなこと送ればいいんだ?」
「……轟くんの好きなことで、いいんじゃないかな?」
用事がある時以外は滅多に自分からメッセージを送らないために、水世もどのようなことを送ればいいのかは、あまりわかっていない。基本届いたメッセージに返信というのを繰り返しているだけ。そのため何かしらのメッセージが送られてくれば返事をすると轟に伝えた。
「手作りのお菓子なんだけど、これがいいとか、そういうのある?」
「……和菓子の方が、馴染みはある」
「和菓子かあ……なら葛餅とかは――」
「却下」
思いきり表情を歪めた轟に、葛餅が嫌いなのだろうかと思いつつ水世は少し考え、なら饅頭系ならどうだと提案した。彼はそれならと頷いたので、水世は冷蔵庫の中身などを思い出しながら、とりあえず教室に戻ろうと伝えた。
「普段、緑谷とか八百万とかとは、どんな話してんだ?」
「うーん……緑谷くんとはヒーロー関連が多いよ。八百万さんとは勉強についてとか、本についてとか……芦戸さんや葉隠さんだと、昨日見たテレビとかになるかな」
「そうか」
「うん」
「…………誘は、昨日テレビ何見たんだ?」
《素直な馬鹿かよ》
脳内で満月を注意しながら、水世はクイズ番組を見たと答えた。轟も水世も、どちらかと言うと話し手よりは聞き手側の方が多い。質問されたり聞かれたら返答する、というタイプだ。要は二人の話し下手がなんとか会話をしようとしている状態、といった感じである。
ポツポツとなんとか会話を繋げながら、二人は教室へ戻った。轟は緑谷と飯田の方を見て、無言で頷いた。それを受けて、二人は彼が水世へ謝ることができたのだと察し、二人してグッと親指を立てた。
「じゃあね、轟くん。また明日」
「ああ。……連絡は、用事なくてもしていいのか?」
「いいよ。轟くんの好きな時にしてくれて」
バッグを肩にかけた水世は、轟に軽く手を振って教室を出ていった。彼は水世が出ていった方をじっと見つめながら、スマホ画面に視線を落とした。駆け寄ってきた緑谷と飯田に「連絡先交換できたんだね……!」「どうだ、仲良くなれそうか?」と声をかけられ、彼は深く頷いた。
「多分、なれるとは思う。明日一緒に昼飯食う約束した。あと、今度饅頭作って持ってきてくれるって」
「よかったね轟くん!」
「やったじゃないか轟くん!」
事情をよく知らない周りは、三人の様子に不思議そうに首を傾げるばかりだった。