- ナノ -

理解できない言葉ばかり


職場体験はついに最終日を終えようとしていた。足払いをされて床に尻もちをついた水世は、自身の体勢を崩したグラヴィタシオンから差し出された手を恐る恐る握り、立ち上がった。


「前に比べればそれなりにマシにはなってる。まだ付け焼き刃ではあるけどな。それでも、体の動かし方は以前よりも良くなってはきてるよ」


高重力での筋トレが効いているのか、水世は体が身軽に感じていた。あくまで体感ではあるが、体力や筋力なども、以前に比べるとそれなりに上がってはいるような気がする。高重力筋トレも、前より重さと回数が増えているがこなせてはいた。

伊世の方も同様に、自身の成長を僅かではあるが感じていた。彼は水世の方に数秒視線を移して、グッと拳を握ると、自分の相手をしてくれているテレキスにもう一度組手を頼んだ。


「単調な動きは相手に簡単に読まれるぞ。隙を与えず、相手の動きをしっかりと捉え、相手の行動をよく見るんだ。いろんな箇所に情報は散りばめられてる。得た情報も思考に加えて、自分が攻めに転じろ」


グラヴィタシオンの拳を避けながら、水世は攻めに転じることのできる一瞬を探す。だがそちらに集中していると防御が疎かになる。両者を同時に行うことの大変さに眉を寄せつつ、水世はグラヴィタシオンの蹴りを避けた。

手加減をしてくれているため上手く避けることはできてはいるが、これが実際の戦闘だったなら、水世は殺されていてもおかしくはない。防戦一方状態なままグラヴィタシオンの動きを見ていた水世は、彼の右拳を避けた時、ここだと思い彼の突き出された腕を右腕で掴むと、軽く引っ張り左手で腹部に打撃を入れようとした。

だが左手を受け止められ、そのまま弾かれると、素早く右手を捻られ、そのまま懐に潜り込まれて背負い投げを決められた。


「目下、筋力が課題ではあるな。スピードや俊敏さは良い。相手より一秒でも早く行動できるってことは、その分相手より有利を取りやすいってことだしな。俺が攻撃をした直後を狙ったのは良い判断だ。腕なり足なり、押すまたは上げたなら、引くまたは下げなければならない。だが、その瞬間を相手の隙と捉えるのは誰しもが思うことでもある。相手側もそれを理解していた場合、さっきみたいに簡単に対処される。先の先を読むのも大事だぞ」


フェイントとか使うともっといいかもな。そうアドバイスを送りながら、グラヴィタシオンは再び水世の体を起こした。そして、一つ手を叩いて視線を集めた。


「じゃあ、今日はこれで上がるぞ。アンジュ、オールド・ニック、ゆっくり休めよ」


グラヴィタシオンに頭を下げた二人はタオルで汗を拭うと、ペットボトルの水を飲んだ。喉を流れていく冷水に潤されながら、水世は口を離して肩の力を抜いた。普段戦闘で体を多く動かさないこともあり、筋肉痛にでもなりそうだった。













シャワーを浴び終えて部屋に戻った水世は、葉隠や常闇などとメッセージのやり取りをしていた。ほぼ使うことのないと思っていたメッセージアプリを、まさか自分の予想以上に使うことになるとは。フリックは苦手なのでローマ字入力で文字を打ち、彼女はスマホをベッドサイドに置いた。

ここ最近、こうして一人になった時、彼女は保須市へ行った日のことを思い出すことが増えていた。思い出すのはいつも、瓦礫から守った少年と犬の姿。笑顔でお礼を告げた名も知らぬ少年の表情が浮かんでは、じわりじわりと胸の奥が熱を持っていく。


《熱い熱い……感情が沸いてやがる》

《熱いの?》

《気分的にな》


ケラケラ笑った満月に、水世は自分でも理由がわからないのだと呟いた。胸の奥の方で燻る熱は、それほどの温度はない。ぬるま湯程度の熱量なのだが、しかし男の子と出会った日から居座り続けている。

夜風に当たって冷まそうかとぼんやり思った彼女は、外に行こうと部屋を出た。下から上がってくるエレベーターを待つこと数秒、開いた扉からテレキスが出てきた。彼は近場のコンビニに行ったのか、レジ袋を持っている。


「あれ。オールド・ニックちゃん、どうしたの?もう遅いけど」

「夜風に当たろうかと……」


そっかと笑ったテレキスは少し考えると、いいことを思いついたと言わんばかりに笑った。彼は「よし、じゃあ今から俺と天体観測しよう!」と言って水世の手を取ると、彼女の返事も聞かずに階段の方へと移動した。

階段に繋がる扉を開けると、下へ行くものだけでなく、上へ行く段もあった。テレキスは迷いなく上へ行くと、その先には扉が見えた。そばの壁にはオートロックキーがあり、暗証番号を入力したテレキスは、躊躇なく扉を開けて水世の手を引いた。


「あの、いいんですか?ここ、来ちゃって……」

「いいのいいの。屋上の出入りは自由だから」


屋上には、何もなかった。フェンスで囲われているだけで、特に物は置かれていない。水世はテレキスに腕を引かれるがままに屋上の中心まで行き、彼はどっかりと腰を下ろした。立ったまま困惑している彼女を見上げたテレキスは、へらりと笑って座るように促す。失礼しますとこぼした彼女はおずおずとテレキスの隣に腰を下ろした。

ガサガサと音を立てながら袋を漁るテレキスは、お菓子をいくつも取り出した。そしてチップスの袋を開けて水世にはい、と袋の口を向けた。


「遠慮せずに食べて食べて」

「……ありがとうございます」


彼女がチップスを一枚取ると、テレキスも袋に手を入れて食べはじめた。水世もちびちびと食べながら、空を見上げた。地上の電灯が眩しすぎるのか、星は少し霞んでいる。


「オールド・ニックちゃん、職場体験はどうだった?」

「……すごく、タメになったような気がします。自分の弱点の対策もそうなんですけど、重世、兄さんの……ヒーローとしての姿は、あんまり見たことがなくて。それに、プロヒーローの職務を身近で見ることも初めてで……」

「新鮮だよね〜。やっぱ生で見るとだいぶ強烈だし、テレビの向こうから見た衝撃とは度が違うっていうか」


職場体験中に、敵退治をしたこともあった。とはいえ伊世と水世は実際に交戦をするわけではなく、後方支援や避難誘導くらいしかしていない。その際にグラヴィタシオンの戦闘を見る機会があった。

USJ襲撃事件では、水世はオールマイトやイレイザーヘッドの戦う姿を見れていない。初めて近くで見た戦闘シーンの衝撃は大きかった。ヒーローが普段どんなことをしているのかを知り、ヒーローがどんな存在と戦っているのかを改めて知った。


「間近で、戦う姿や人を救う姿を見て……遠いなって……改めてそう思いました。私はスタートラインにも立っていなくて、背中も見えない位置にいるんだと」


そもそもヒーローを目指しているわけではないのだから、スタートが違うことは当然のことだ。しかし、その事実がやけに響いて、不可解な苦しさを水世へ与えた。

ぼんやりと空を眺める水世に、テレキスは顎に手を置いて、考える仕草を見せた。


「俺は、オールド・ニックちゃんは、しっかりスタートに立ってると思うけどなあ……」

「え?」

「だってさ、保須の撤去作業の時。オールド・ニックちゃん、男の子とわんちゃん救けてたじゃん」

「……でも、私はテレキスさんの邪魔をして……」

「あれは俺が悪いよ!気を抜いた俺の非!オールド・ニックちゃんがいないと、今頃あの子たちは大怪我をしてた。最悪、死んでたかもしれない」


真剣な表情を浮かべたテレキスは、子どもに優しく言い聞かせるように水世に話した。


「ああやって、人を救うために動けるんだから。オールド・ニックちゃんは、しっかりヒーローのスタートラインに立ててるよ。むしろ、ちょっと人より進んでるかも!」


初めて会った時みたく、テレキスは太陽のように明るい笑顔を浮かべた。水世はでも、と渋るように視線を下げた。

ヒーローになれないことも、ヒーローから一番遠い存在であることも、自分自身が一番知っているのだ。だからこそヒーローを目指す伊世の役に立つ、踏み台になるために雄英を目指したのだ。自分の存在で傷つく人間の多さをよく知っているのだから、せめて多くを救える伊世の踏み台としては役に立ちたいと。

自分はヒーローになれるほど綺麗な心じゃない。そう呟くと、テレキスはそんなことはないと微笑んだ。


「男の子の命を救うために動けた君は、しっかりヒーローだったよ。それにお礼言われた時、俺には君が嬉しそうに見えたんだよね」

「……嬉しそう、ですか……?」

「うん。こういう仕事してるとさ、人に感謝されること多いんだよ。救えなかった命だってあるけど、救える命もあるのは確かだから。そうして救った命に、救った人に感謝された時、すげえ嬉しいの。オールド・ニックちゃんもさ、そうだったんじゃないかな?お礼言われた時、普段よりも優しい顔して笑ってたし」


嬉しかった。目をぱちくりとさせた水世は、その言葉がストンと胸に落ちたような感覚を覚えた。あのじんわりと広がった胸の熱は、感謝されたことへの嬉しさだったのか。しかし感謝されたことは、雄英に入って何度か経験している。その時はこんな感覚はなかったのに、どうして今。水世は、益々わからなくなってくるようだった。


「あんま難しく考えないでさ、自分の思いに素直になっておけばいいんだよ」

「自分の思いに、素直に……」


素直な自分の思いとは、果たしてなんなのだろう。













そろそろ寝ないと!と声を上げたテレキスに部屋まで送ってもらった水世は、おやすみと笑った彼に軽く頭を下げた。

机の上に置かれた本を一冊手に取ってベッドに入り込んだ彼女は、テレキスからの言葉に頭を捻るばかりだ。何故今までの感謝と、あの少年からの感謝とで、受け取り方が違ったのだろう。水世は考えながら、うつ伏せになって枕に顔を埋めた。


《鈍いと言やあいいのか、頓着がねえと言やあいいのか……》

《満月には、理由がわかるの?》

《だからオレ様に名前はねえっての……まあな、予想はつく。今までと今回とじゃあ、明確な違いがあるからな》


顔を上げて枕に顎を乗せながら、水世は首を傾げた。満月はやれやれとでも言いたげにため息を落としながら、ちゃんと考えろと呟いた。


《自分で探せ、自分で気付け。すぐに答えを聞いてちゃ勉強にはならねえぜ?》

《……教えてくれそうなのに》

《知りたがってる奴に教えて何が面白い。知りたがってる奴に教えないのが楽しいんじゃねえか》

《意地悪だ》

《なんとでも言え、褒め言葉だ》


少しむすっとしながらも、水世は本を開いて文字をなぞりはじめた。