- ナノ -

どこまでも平行線を辿る


パトロールを終えた伊世と水世は、三階のトレーニングルームに来ていた。組手用の部屋には、二人とグラヴィタシオンの姿しかない。


「まず、近接での戦闘を得意とするタイプは、ナイフ等の近接武器を持っている場合、“個性”が異形型である場合と理由はそれぞれある。だがどちらにせよ、今のおまえらじゃ、近接に持ち込まれても対抗する力がない」


そう言いながら、グラヴィタシオンは両手のひらから重力球を一つずつ生み出した。それを伊世と水世の体へと入れた。その数秒後、二人の体が一気に崩れた。まるで何十キロという重りをいくつも背負っているかのような感覚に、立っていることで精一杯なくらいだ。

これがグラヴィタシオンの重力操作。これでは動くことさえままならない。体へかかる重さに、僅かに震えも生じていて、水世は息苦しさを覚えた。


「トレーニングは、俺の“個性”を受けた状態で行ってもらう。正直だいぶきついとは思うが、“個性”解いた後はびっくりするくらい体軽いぞ」


その状態で動くことができるようにする、とグラヴィタシオンは言った。基本ヒーロー事務所にはトレーニングルームが併設されている。各々の“個性”に応じて器具や造りは異なり、特殊加工も施されていることがほとんどだ。グラヴィタシオンの事務所も同様であり、重さや衝撃に耐えられるよう頑丈に造られている。そのため高重力のまま暴れても、早々壊れることはないのである。

グラヴィタシオンは腕組みしながら、一歩を踏み出すどころか、足をピクリとも動かせない伊世と水世を見つめていた。彼はそれを叱咤することはしなかった。二人がされていることをサイドキックの者たちにも行っているが、やはり皆最初は動くこともできないまま、ただ必死に二本足を地面につけているだけだ。ここから一歩でも歩けるようになるまで、どれだけ時間を有するかが鍵である。残り少ない日数で、そこまでいけるかどうかだった。

水世は右足を上げようとするが、体がまったく言うことを聞いてくれない。体全体に鉛でも詰まっているような感覚に、徐々に汗が流れて出てきた。

その状態のまま約十分が経ち、二人の体から急に重さが消えた。ハッと息を吐くと、水世は荒い呼吸を繰り返す。額から流れる汗を拭いながら、解放された体の軽さに目を瞬かせた。


「普段と同じ重力でも、感覚的に軽いだろ。重り外した後みたいなもんだしな。次の重さはさっきよりはマシなはずだから、その状態でストレッチしてもらうぞ。二人とも入学前にある程度のトレーニングはしてたから体力自体はついてる方だが、ハッキリ言って足りない。体育祭の騎馬戦は十五分間しかなかったが、障害物競走は結構体力使っただろ。実際のヒーロー活動はあれの比じゃないしな」


そう告げて、グラヴィタシオンはまた二人の重力を操作した。再び体が重くなったが、先程に比べると軽い。ぎこちない動きではあるものの、動かせない程度ではなかった。


「腕立て、腹筋、スクワットを……まずは十五回を三セットでいい。徐々に回数も重さも増やしてくからな。それが終わったら一旦休憩して、普通の状態で近接戦闘の鍛錬に移る。これを、今日から最終日まで毎日行う」


伊世と水世がはい、と返事をすれば、グラヴィタシオンはにっこりと笑った。













職場体験は早くも三日目を迎えていた。今日は朝のパトロールの後にゴミ拾いを行い、戻ってからはひたすらに鍛錬。昨日から始まっている近接戦闘のスキル上げは中々にスパルタで、水世は本を読み終えたら即座に眠りに落ちるくらいには、疲労を感じていた。

そしてその日の夕方。既に十八時を回っており、夜のパトロールへ出た矢先のことだった。事務所を出て十数分くらい経った頃、水世のベルトにつけていたポーチから、スマホの通知音が鳴った。

水世のスマホに入っている連絡先は、伊世と重世以外ならば、幼馴染かクラスメイトの女子、切島、常闇、緑谷しかいない。この時間帯はまだみんな職場体験中で、スマホを弄れるとは思えない。ではいったい誰だと眉を寄せて、水世はグラヴィタシオンを見た。彼は確認してもいいと許可を出してくれたので、軽く断りを入れてスマホを取り出した。


「……位置情報?」

「どうした」

「クラスメイトの子から、位置情報だけが届いて……一括送信みたいです」

「なんて書いてる」

「日本、東京都保須市、江向通り4−2−10の細道……」


緑谷からの一括送信には、位置情報のみしか書かれていなかった。緑谷は東京が職場体験先だっただろうか。記憶が正しければ山梨だったはずだ。首を傾げた水世に、グラヴィタシオンはヘルメットの下で難しい表情を浮かべている。


「保須の路地……?」

「……ヒーロー殺しが関係してる可能性もありえるな……あそこはまだ、インゲニウムしか襲われてない」


ステインは、これまで出現した七ヶ所全てで、必ず四人以上のヒーローに危害を加えていた。保須では今のところインゲニウムただ一人が襲われただけであり、これまでの行動パターンを見るに、次に現れる場所は保須が一番可能性が高い。グラヴィタシオンは二人にそう説明すると、念のため警察に連絡を入れるよう水世に促した。


「ひとまず、パトロールを再開させる。ここは保須から離れてはいるが、何が起こるかわからないからな。恐らく戻った頃、または明日の朝にでも、その位置情報の意味はわかるはずだ」


水世が警察に通報を終えると、グラヴィタシオンは少し険しかった表情を和らげて、パトロールを再開させた。

形容しがたい不安のようなものが胸中に渦巻いている水世だったが、今はパトロールに集中するべきだと軽く頭を振った。そんな彼女の様子を見て、グラヴィタシオンは安心させようと思ったのか、軽く水世の方を振り返った。


「まあ、保須には今エンデヴァーさんが出てるはずだ。そう心配はいらないさ」

「エンデヴァーが保須に?さっきの行動パターンか」

「ご名答。あの人もヒーロー殺しの行動パターンに気付いてるみたいでな。俺が職場体験前に保須に行った時、あの人を見かけた。流石はNo.2、行動が早い」


グラヴィタシオン曰く、保須は今警戒態勢でもあるため、ヒーローもそれなりに集まっているとのことだ。緑谷が事件に巻き込まれている可能性もあるが、先程水世が警察に位置情報を伝え、通報も済ませている。だから心配するなと彼女の頭を撫でて、グラヴィタシオンは笑った。


「……連絡先、クラスの奴と交換してたんだな」

「……うん。ダメだった?」

「いや、べつに」


水世は窺うように伊世を見たが、彼は気にした素振りもなく、前を向いていた。怒っている風には見えないため安堵して、水世も前を向きなおした。

二人の会話を、グラヴィタシオンは静かに聞いていた。











「俺もヒーローになるんだ」


幼い自分が、幼い妹にそう宣言している姿が見えた。誰もが憧れ、夢見るヒーロー。それに自分もなるのだと。ヒーローになって妹を守ってやるのだと。子どもらしい将来の夢に、妹は目をぱちぱちとさせると、笑った。


「なれるよ。伊世なら、かっこいいヒーローに」

「なれるかな」

「うん。伊世がヒーローになるなら、じゃあ私は――」


場面が切り替わる。大きな音で目を覚ました自分が、音の出どころであるリビングへ向かっている。近付かない方がいいという脳内の警戒音よりも、子ども特有の好奇心の方が強く働いた結果だった。

音を立てぬように扉を開けて中を覗けば、リビング空間が変貌していた。壁や家具は切り裂かれたかのようにズタズタのボロボロで、強盗が入った後みたいに散らかっていた。部屋の中心には妹が苦しげに地面に伏しており、彼女のそばには大きな二本の真っ黒な腕が同様に倒れていた。その前には両親と兄が立っている。

妹を見る兄の目は鋭く、吐き捨てるように言った兄の言葉を受け、妹の顔が僅かに動いた。苦しげに呼吸をする彼女の顔が愉快そうに歪む。普段の彼女とは別人な様子は、まるで誰かに体を乗っ取られているかのように見えた。

妹は、言葉を詰まらせながらも兄へ言い返した。


「つまり、だ……今の、言葉……全部聞こえてんだよ……」


その愉快げな笑みが一変。絶望しきったような顔に変わった。

また場面が変わる。両親は俺に、彼女には近付くなと言った。兄も今は距離を置けと言った。家でも外でも、俺はほとんど妹のそばにはいれなかった。彼女の“個性”が危ないから。彼女は“個性”をコントロールできていないから。彼女は、危険な化け物だから。

次第に妹は、俺に貼り付けたような笑みを向けるようになった。時折“個性”が暴走しかけては、周りは妹に恐怖し、嫌悪した。妹は徐々に人と距離を置きはじめた。

そんな彼女にも、少し心を許せる相手ができたようで、そいつとよく一緒にいるようになった。俺はやっぱり、妹のそばにはいれなかった。

契約を交わした頃から、妹の“個性”の暴走は止まった。貼り付けた笑みの不自然さも消えたのは、きっと彼女が上手くなってしまったから。それもあってか、彼女は周囲とある程度の距離感を保てるようになっていた。裏では相変わらず、彼女は怖がられ、気味悪がられてはいたのだが。

昔は、俺も彼女も対等だったのだ。己の半身という感覚はなかったけれど、それでも俺にとってはいなくてはならない存在で。俺たちに上下なんてなかった。「伊世」「水世」と呼び合って、どこへ行くにも手を繋いで、いつだって隣同士にいた。だというのに、何故。

手が離れ、溝でも開いたような俺と彼女の距離。ただ、ひたすらに恐怖した。だんだんと変わる彼女の笑みに苛立ちは募り、忘れぬようにと必死にペンをとって、彼女を描いていた。

彼女を守りたかった。守れる存在になりたかった。周囲が彼女を疎み、蔑み、淘汰しようとするならば、俺は彼女をそんな奴らから守らなければならないのだ。俺が、俺だけが――。

場面が変わる。学校帰り、後ろを歩く妹を振り返った自分。


「俺、ヒーローになる」


たった一言伝えると、妹は目をぱちぱちとさせて、笑った。


「なれるよ。伊世くんなら、かっこいいヒーローに」

「……なれるかな」

「うん。伊世くんがヒーローなら、じゃあ私は――」


水世の、心からの笑顔が。


「ヒーローになる伊世くんを、ヒーローになった伊世くんを守るね」


画用紙一枚に切り取ったあの時の笑顔が、また見たいだけだった。