- ナノ -

静かに広がる名無しの心


丁寧な文字だが、線が細く、字も控えめで小さい。当人の性格を表しているかのような筆跡に再びため息を落とした。


「A組は、全員提出終えたか?」

「いや、まだ何人か来てない。期限は今日中、昼か帰りにでも来るだろ」


指名がきていた者もだが、きてなくとも、自身が活動したいジャンルが明確な者は、ほぼ即決で用紙を提出して帰った。考える時間はそれなりに与えた。各々自身の適正を踏まえ、将来のビジョンをぼんやりとでも描きながら、提出締め切りの今日までに用紙に記入をするはずだ。

しかし、この控えめな文字の持ち主だけは、ビジョンの方向性が周囲とはどうも違っている。


「そっちの、兄の方。用紙提出しに来たか?」

「ああ。用紙を渡した日の帰りにな。グラヴィタシオンのところだ」

「……こっちも同じだ」


ハッキリと、兄も自分と同じ場所を選ぶと断言していた。相当の自信があったからこそだろう。しかしその宣言通り、互いに同じ希望先を選んだらしい。ブラドは少し瞳を丸くさせると、双子の神秘か?なんてぬかしている。


「兄が自分と同じ場所を選ぶと、そう断言してたよ。自分に指名がきたならば、向こうにもきてるはずだってな。えらく自信満々だった」

「そういえば……こっちも、妹が同じ場所を選ぶと断言してたな……」


ブラドも自分同様に、何故断言できるかを尋ねたらしい。すると向こうは、「自分は妹を守りたくて雄英ここに来た」と答えたらしい。

妹を守りたい兄と、兄の役に立ちたい妹。事前に大体の事情は聞いてはいたが、随分と拗れて厄介な関係性でとどまっている。救いはどちらも敵的思考ではないということか。しかし、どちらも互いのためなら敵になってもおかしくない危うさは持っている。


「一種の依存関係だな。どちらも互いで世界を完結させようとしている節がある」

「確かに……クラスに馴染んではいるが、奥底は誰にも許していない部分は見受けられるな」

「“個性”面で危険なのは妹だが、性格面で厄介なのは兄の方だな」


妹を守ろうという意思が強い。強いが故に、排他的な面がある。自分だけで守ろう、自分以外に守れる者はいない。そういった感情がどこかしらにあるのだろう。そうなった一因に妹の“個性”が含まれている。この場合どちらか片方が変わっても意味はない。どちらも変わらなければ、この拗れた依存関係は解消されないだろう。

誘水世が、身内贔屓や依怙贔屓を期待した、そんな甘えからグラヴィタシオンを選択したわけでないことは、最初から気付いていた。だが、何を思ってヒーロー科にいるのか、何を目指しているのか。それを明確にさせようとしただけ。

恐らく、現段階でヒーローを目指す気はない。発言通り、兄の役に立ちたいのだろう。ヒーローを目指す気のない時点で除籍対象でしかないが、しかし。一般入試の実技試験、初の戦闘訓練、体育祭前の救助訓練。それらのVを見るに、素質は充分に備わっている。

何より、ヒーローを目指している者の言動が少なからずあった。仮に“個性”が原因でヒーローを諦めているのだとすれば、その点の問題を解決さえすれば、彼女の方は少しずつは変化の兆しを見せるだろう。兄の意識を先に変えるよりも、妹の意識を先に変えた方が恐らく効果的だ。


「まあ、把握してるからこそ、こうして指名を送ってきたんだろうがな……」


あの男は、二人が必ず自分の指名を受けると確信しているはずだ。


「放り出すわけじゃありません。でも、俺だけでは無理だと思った。もっと外界に触れさせないと、あの二人は、きっと一生あのままだ」


合理的な判断ではある。あの二人は確かに、互い以外の他者と接した方がいい。誘水世の方は特にだ。他者とのふれあいの中で、絶対的な位置にいる兄以外の者に意識や心を向けることができたなら。「兄のために」「兄の役に」から「兄だけでなく」に広がりさえすれば、“ヒーロー科の生徒”になれることだろう。











飯田くん、オレンジジュースよく飲んでるよね。水世はオレンジジュースをトレイに乗せている飯田を見て、そう呟いた。彼女の言葉に、レンズの奥の瞳がぱちりと瞬く。


「俺の『エンジン』の燃料は、この100%オレンジジュースなんだ。だから、こうして毎日飲んでいる」

「なるほど……他のジュースはだめなの?」

「炭酸の場合はエンストを起こす」


それは大変だ。眉を下げた水世に、オレンジジュースは好きだから問題ないと、飯田は口角を上げた。

昼休みに入って、昼食を食べようと席を立った水世は、一人教室を出ていった飯田を見かけた。何故かは自分でもわからないが、彼女はよく昼食を一緒に食べる八百万の誘いを今日は断り、飯田のあとを追いかけた。そして声をかけて、行き先は同じだからと、今日も人で混み合っている食堂へ共に足を運んだ。

飯田と同じビーフシチューを選んだ水世は、そのまま飯田と二人で昼食をとっている真っ最中であった。オレンジジュースは飲んだことがないと彼女が呟けば、飯田はえらく驚いていた。


「そうだ、飯田くんはもう希望用紙提出した?」

「職場体験のか?ああ、もちろん。希望用紙を貰ったその日に渡したよ。誘くんも出したのか?」

「うん。グラヴィタシオンのところ」

「大人気のヒーローじゃないか!すごいな、そんなところからも指名がきてたのか」


感心したように頷く飯田は、「確かに誘くんの“個性”は、諸々汎用性が高く、強力だからな」と褒めちぎっている。水世は苦笑い気味にそんなことはないとやんわり否定して、飯田はどこに決めたのだと尋ねた。飯田は口に入っていた牛肉を飲み込むと、マニュアル事務所だと告げた。ピンときていないようで、首を傾げた水世に、東京の事務所だと彼は教えてくれた。


「身近な場所で、少しずつ経験を積もうと思ってな」

「そうなんだ。お互い、頑張ろうね」

「ああ。実りある職場体験になるよう、精一杯努めよう」


笑う飯田に、水世はヒーロ名を決めた日の彼のことを思い出した。どこか自信なさげに視線をよそへ向け、無言でボードを出した彼。普段の飯田ならば、まっすぐに前を見て、クラスメイトの顔をしっかりと視界に入れながら発表するような気がしたのだ。

校内で瞬く間に広がった、飯田がインゲニウムの弟だという噂は、水世の耳にも入っていた。現に彼と食堂へ向かっていれば、そうした声が聞こえてきたのだから。インゲニウムのコスチュームと飯田のコスチューム、そして二人の“個性”の類似点を見ると、その噂が正しいことは理解できた。

飯田は、特に何も言わなかった。水世も、彼に聞こうとは思わなかった。彼の事情を詳しくは知らないため、水世はなんと言えばいいのか考えあぐねているのだ。自分にはそんなつもりはなかったが、相手を傷つけたり、怒らせてしまうこともあるのだと、体育祭の時の轟との会話で学んだから。

人に言葉をかけるのは、なんだか難しい。今までは、そう深く考えたことがなかったような気がする。ただ思ったことをそのまま言ったりしてただけ。けれど、それが相手の触れてほしくない部分に触れることもあって。


「飯田くん……あのさ……」

「うん?どうした、誘くん」

「あのね……」


思ったことをそのまま言うのではなくて、相手をあまり傷つけない言い方は。あまり、怒らせないような言葉は。ビーフシチューを掬おうと沈めたスプーンを見つめていた水世は、顔を上げて窺うように飯田の目を見た。


「頑張ろうね」

「ん?ああ、もちろんだ」

「お互いの、なりたいもののために……なりたいもの目指して、頑張ろうね」


僅かに目を見開いた飯田は、しばし黙った。水世は言葉を間違えたのか、言い方を誤ったのかと思い、謝ろうとした。だが彼女が口を開きかけたと同時、飯田が笑みを見せた。


「ああ、そうだな。お互い、頑張ろう」


彼は笑みを浮かべているというのに、水世には飯田の表情が、笑っているようには見えなかった。どこか泣きそうにも見えてしまい、やはり言葉を間違えたのだと一人反省した。

飯田が元気を出してくれればと思って必死に考えたが、どうも自分はそれが下手くそだ。何故自分は、人を傷つけることばかりが上手なのだろうか。それは、私がそういう生き物だからだと、脳内で自問自答をを呟いた。


「……私も、オレンジジュース飲んでみようかな」

「ああ、ぜひ!俺のオススメはだな……」


パッと表情を明るくさせた彼に、水世は少しだけ安堵した。自分のオススメを教えてくれる飯田の話に相槌を打つ。

そういえば、何故自分は飯田を元気づけようと行動を起こして、必死に言葉を考えたのだろうか。体育祭が終わった後の八百万の時も。普段なら、八百万に当たり障りのない言葉を伝えて帰ったはずだし、今回だってわざわざ飯田を追いかけたりしない。なのに何故、自分は。

内心首を傾げながらも、まあいいかと思考を放棄して、水世は飯田の話に集中した。