- ナノ -

あの微笑に触れてみたい


会って、話をするべきだと思った。

自分の存在がお母さんを追い詰めている、追い詰めてしまうのだと思ったから、今まで会いに行かなかった。会いに、行けなかった。きっとまだ俺や親父に囚われ続けているあの人を、これ以上苦しめたくはなかった。

それでも、だからこそ。俺だけが勝手に吹っ切れて、それで終わってはいけないのだというのはわかっていた。

受付の女性は少し驚いた表情をしながらも、母の病室を教えてくれた。「轟様」と書かれたネームプレートを数秒見つめて、取手に触れようとする。けれど、その手が震えていることに気付いた。自分が気付いていないだけで、いざ母に会うことに不安や緊張を感じていたらしい。


「一番になりたいの?それとも、一番のヒーローになりたいの?」


昨日の誘の言葉が、不意に蘇った。

深く息を吐いて震えが止まったことを確認し、グッと取手を握り、扉を開けた。中には、窓際に座って外を眺めている、白い髪の女性がいた。格子のついた窓の向こうを静かに眺めるその人を、ポツリと呼んだ。


「――お母さん」


言葉は僅かに震えていたものの、案外するりと喉から出てきた。ゆっくりとこちらを振り返ったその人は、俺の姿を見て瞳を丸くしていく。喉が渇いていく感覚を覚えながら、唾を飲み込んだ。母はじっとこちらを見つめたまま、何も言わない。

そばに歩み寄れないまま、ぐっと左手を握って、もう一度深く息を吐き出した。


「久しぶり、お母さん……」

「……焦凍?」


囁くようなその声に、ゆっくりと頷いた。母に名を呼ばれたのは、随分久しぶりだった。急に会いに来たことを謝りながら、話をしたかったのだと呟いた。


「俺……俺……」

「その時は、今みたいにな風じゃなくて、ちゃんと顔を見て言ってあげてね」


無意識に俯いてしまっていた自分の顔に気付く。ハッとして、顔を上げてこちらを見る瞳をしっかりと見つめ返した。俺がこの身体でなりたいものになるために、伝えなければいけないのだと。


「俺、一番のヒーローに、なりたい。自分の“個性”を使って……氷だけじゃなくて、左の炎も、使って。これは……これは、俺の“個性”だから」

「その炎だってさ、お父さんのものじゃないんだから」

「――君の!力じゃないか!!」



誘と緑谷の言葉が脳内に蘇る。まっすぐと自分を見つめて、さも当然のように言った誘。ボロボロの体で、まっすぐにぶつかってきた緑谷。二人の言葉が、ストンと胸に落ちていく。


「親父の炎じゃなくて、親父の力じゃなくって……俺の炎で、俺の力、だから……!」


見開かれた瞳から目をそらさずに、これまでのことを謝り、感謝した。自分がお母さんを苦しめていたことを。ずっと自分の夢を応援してくれていたことを。

ぽろっと、母の瞳から涙がこぼれた。やはり会いに来て苦しませたのか、悲しませたのかという不安が胸を襲っていく。それでも自分は伝えるべきだと、話すべきだと思ったのだ。たとえ望まれていなくたって、必ず救けだすのだと。


「ごめんね、焦凍……ごめんね……」


流れていく涙が、母の手にしていた写真へ落ちていく。彼女は俺にただただ謝罪をこぼして、しかし、嬉しそうに微笑んだ。

母は泣いて謝り、驚くほどにあっさりと、笑って俺を赦してくれた。その優しい笑みは、数年ぶりに見た母の表情だった。奥底に置いて忘れてしまっていた、優しい母の表情だった。

手招きされて恐る恐る歩み寄ると、母はそっと俺の手を握った。なんだか、母の手が随分と小さく感じた。


「焦凍。私はね……焦凍が何にも囚われずに、ただ自分のなりたいものになってくれれば……そのために突き進んでいくことが幸せで、それが、救いになるの」


涙を拭った母は、俺を見上げながらゆるりと微笑んだ。そっと手を握り返すと、母は嬉しそうに笑ってくれた。


「だから、だからもう一度……あなたの夢を、お母さんに応援させて……?」


じんわりと広がる母の体温が、とても心地良かった。一度ゆっくり頷いて、そして何度も首を縦に動かした。母が赦してくれたことへの安心感や、また微笑む顔を見れたことへの喜び。そして、母が自分の夢を肯定してくれたこと、母がまた応援してくれることが、何よりも嬉しかった。

しばらくして泣き止んだ母は、ベッドへ移動すると俺に腰掛けるように言った。先程まで母が座っていた場所へ座って、真正面から改めて母の姿を見た。

こうして久々に会うと、何を話せばいいのかよくわからなかった。自分はずっと囚われ続けて、何も見えなくなっていて。ただただ親父への復讐だけを考えて過ごしてきたから。母に話せるようなことが見当たらなかった。そんな俺に気付いたのだろうか。母の方から、「学校はどう?」と話を振ってくれた。


「雄英に、通ってる。昨日体育祭があった。授業も、必修以外に、ヒーロー科特有の授業とかあって……」

「そっか……楽しい?」

「……それなり」

「お友達はできた?」


その言葉に、なんと返すべきかと考えてしまった。友人と呼べる相手が、果たして自分にいただろうかと。クラスの奴らは接する機会はあれど事務的な会話が多いし、そもそも俺の視野が狭すぎて、周りをきっと、見下していたところがあったのだと思う。

以前誘に言われた、「誰も見ていない」という言葉を思い出した。あの時は何を言っているんだと苛立ちが募ったが、今になって思えば、彼女の言う通りだったんだろう。見透かした風ではなく、彼女は俺の視野の狭さに気付いていただけだった。

緑谷のように、自分の目を覚まそうとしてくれた彼女。本人にその気はなかったのだとしても、でも、確かに誘の言葉に背を押され、そして気付かされた。誘と緑谷が、こうして自分にきっかけを与えてくれたのは確かだった。


「あなたは、まだやり直しがきくよ。改めてスタートできると思う」


そう言って笑った彼女の顔が、何故だかいつもと違うように見えた。確かUSJ騒動の後、教室に戻って女子に囲まれていた時。会話が聞こえてきて、彼女の髪の話をしていたと記憶している。その時の笑い方も、なにかが違ったような気がした。その笑みを見た頃からだろうか。ふとした時に彼女を目で追いかけるようになった。その時は、何故目で追ってしまうのかわからなかった。


「仲良くなりたい、奴がいて……」


八百万とか常闇とか、見かけるたびに誰かと一緒にいる彼女の隣に、自分も立ってみたいと。隣にいるその誰かを羨ましく感じている自分がいることに、吹っ切れたあとに気付いた。そうか、自分は彼女と仲良くなりたかったのか、と。

しかしふと、自分が彼女に言った数々の言葉を思い出した。自分は、彼女が炎を使った姿に親父の炎を重ね、彼女の白髪に母の姿を重ねていた。そして思い起こされる父への怒りや嫌悪を、まったく無関係な彼女に身勝手にぶつけ、自分でも気付いていなかった部分を言い当てられたことに対して、図星を指されて、八つ当たりをした。

誘からも、触れてほしくない部分に触れられた。しかし彼女は悪気はなくて、大丈夫かと聞いてきた辺り、単純な疑問だとか心配だとか、そんな感じだったのだと思う。だが自分は、勝手に彼女を別人と重ねて、理不尽な八つ当たりをした。


「どうしたの、焦凍?」

「……仲良くなりたいけど……でも、俺そいつに、結構酷いこと言った」

「うん」

「苛立ってて、それでつい八つ当たりして……向こうは、失礼なこと言ってごめんって謝ってくれてたりしたけど……」


誘は、ちゃんと謝ってくれていた。初の戦闘訓練の日に俺の目を冷たいと言った時も、昨日の体育祭で俺が八つ当たりをした時も。しかし自分は謝罪もお礼も、何も言えていない。これではきっと、嫌われていてもおかしくない。それが妙に苦しい。


「その子は、どんな子なの?」

「……“個性”が強い。汎用性高いし、割と万能。そんでいつも笑ってるし、たまに何考えてんのかわかんねえとこもある。周りと話してるの聞いてると、多分褒め上手。あと……あと、なんか……お母さんに、ちょっと似てる、かも」

「私に……?」

「うん……そいつ、お母さんと同じ髪の色してて……轟焦凍は轟焦凍でしかないんだって。他の誰かになれないし、他の誰かが俺になることもできないんだって言って……俺は改めてスタートできるって……言ってくれて」


USJに敵が襲撃したとき、誘は暴風・大雨ゾーンに飛ばされ、まだ少し肌寒さが残る時期に雨風に晒されていた。帰りのバスで、水浸しな彼女の体が常闇から借りたマントの下で震えていることに気付いたのは、多分自分だけだった。体はマントで隠れていたし、彼女も隠しているようだったから。

眉を寄せて俯いている彼女が、苦しんでいる母の姿に見えてきて。それで、自分のコスチュームのヒーターを貸した。その時の自分の言い方も、他にもっとあったはずだと今になって思う。


「そう、言ってくれて……で、笑った顔がなんか、キラキラしてるような気がする……笑った顔っていうか、そいつの周りだけっていうか……あんま上手く言えないけど」

「……その子って、もしかして女の子?」

「?うん。誘って奴。誘水世」


母を見れば、えらく目を丸くしていた。でもすぐに嬉しそうに、どこか瞳を輝かせて笑っている。その表情の理由はよくわからなかったが、母が喜んでくれているのが嬉しかった。


「焦凍は、その子に謝れてないの?」

「うん……」

「じゃあ、ちゃんと謝らないとね」

「……うん」


大丈夫。そう言って手を握ってくれた母に、お母さんがそう言うのなら、大丈夫かもしれないと。根拠はないが、そう思った。