- ナノ -

私は幸せの犠牲となった


八百万に昼食に誘われた水世だったが、少し外の空気を吸いたい気分だった。先の騎馬戦での失態がまだ尾を引いているのだ。伊世は気にした風ではなかったとはいえ、やはり彼を勝たせたかった。そのため八百万たちに先に行くよう促して、一人でゆっくりと校舎の方へ向かっていた。

ふと背後から、ザッザッと足音が聞こえた。水世が振り返ると、まだ会場に残っていたらしい轟が、一人校舎へ向かって歩いてきていた。彼は水世を見て少しだけ目を瞬かせたが、すぐにいつもの無愛想な顔に戻った。


「最終種目出場、おめでとう。流石だね」

「べつに」


相変わらずの素っ気なさに水世は少し眉を下げた。だがそういえば、と彼の腕に視線を向けた彼女は、右腕を指差して大丈夫?と首を傾げた。不思議そうに片眉を上げた彼に“個性”のことだと水世は笑った。

“個性”も身体機能の一つ。何かしらの限度があるだろう。轟は右半分が氷でできているわけではないのだから、使い続ければ冷気に体が耐えられなくなってくるはずだ。それを調節するための、コスチュームのヒーターなのだろう。


「最初の内は氷だけでもいけそうだけど、炎使わないとさ、自分がきつくなるんじゃないかなって思って……せっかくあるなら、使えばいいのに」


特に深い意味はなかった。そう思ったから、そう言っただけ。そんな彼女の些細な言葉が、轟の中の触れてほしくない部分に触れたようだった。

足を止めた彼の瞳が今までよりもずっと鋭く変わったと思うと、その視線で水世を刺すように睨めつけた。


「……そうやって……何も知らねえ奴が、ヘラヘラ笑って、全部見透かした風に……おまえのそういうとこ、心底うぜえし、腹が立つ」


普段よりもドスの効いた低い声でそう呟くと、突然轟は、自分はエンデヴァーの息子なのだと告げた。そのことは既に知っていたが、今の彼に知っていると伝えるのは憚られた水世は、ただ頷くだけだった。


「個性婚。聞いたことはあるだろ」


それは、“超常”が起きてから、第二〜第三世代間で問題となった行為だった。自身の“個性”をより強化して継がせるためだけに配偶者を選び、結婚を強いる。倫理観の欠けた前時代的発想。自身の父は、自分では超えられないオールマイトを超えさせるためだけに母の“個性”を手に入れ、自分を生んだのだと轟は語った。


「記憶の中の母は、いつも泣いてる……左目のこれも、母が『おまえの左側が醜い』と、俺に煮え湯を浴びせてできた痕だ……母は、日に日にクソ親父に近付いていく俺に恐怖していた」


故にこそ、母を苦しめた父などの道具になりたくないと、彼は炎を使わないのだと決めたのだと。使わずに“一番になる”ことで、父親を完全否定するのだと。

沸々とした憎悪が、轟の瞳や声から漏れていた。それは父親に対するものもあるのだろうが、僅かに自分にも向けられているように、水世には感じた。


「おまえみたく、幸せな人生歩んできた奴にはわかんねえだろ。無神経なんだよ……」


グサリと、自分の心臓に深く深く突き刺さった。きっとこれが本物のナイフであったなら、今頃血が出ていたことだろう。比喩表現としてのそれであるため実際に傷はない。しかしズキズキとした痛みはあった。けれどどうにも、水世にはこの痛みも、刺さったナイフも、半ば他人事のように感じられた。

彼はまるで水世と父親を重ねている風に、彼女に静かな怒りをぶつけるようにして視線を向けた。だがその中に、何故だか僅かな悲哀が混ざっているように見えた。


「……ごめん、確かに無神経だった。でもさ、前も言ったけど、私はあなたの知り合いじゃないよ。あなたのお父さんじゃない」

「そんなの知って――」

「うん。知ってること、当然のことだよね。だから、轟焦凍も轟焦凍でしかないんだよ。他の誰かになれないし、他の誰かがあなたになることもできない。その炎だってさ、お父さんのものじゃないんだから」

「…………」

「一番になりたいの?それとも、一番のヒーローになりたいの?もし後者なら、ヒーローがそんな怖い顔してるの、なんか嫌だよ」


水世は黙っている轟に、生意気なことを言ってごめんと謝ったが、彼は無言で彼女の横を通り過ぎていった。立ち止まったままの水世の脳内で、満月はずっと愉快そうに笑っていた。


《アイツは嫌味を言う天才か?幸せ、幸せな人生……良かったじゃねえか、おまえは周囲にゃそう見えてるらしい》


いいこと、なのだろうか。幸せに見えることは。水世が満月にそう尋ねると、彼は不幸に見えるよりはマシだろうと笑った。それもそうだと頷いた彼女に、満月は先程言われた言葉は伊世には言わないようにと念を押した。曰く、面倒なことになるからと。

頷いた水世は、幸せな人生というものについてしばし考えてみた。考えてみたが、よくわからなかった。幸せの定義は個々で異なっているからという理由もある。しかし世間で共通して幸せだと感じるのだろう事柄を、自分は果たして、これまでの人生で体験したことがあったのだろうかと。

考えてみたが、そんなもの、ないような気がした。











人は皆、幸せになる権利を持っていた。たとえ“個性”で容姿が普通とは異なる形であったとしても、不可思議な能力を持っていたとしても、“人”であることには何ら変わりはないのだ。だから人は皆、どんな姿であろうと、どんな能力を持っていようと、幸せになる権利を生まれながらに持っていた。


――何の役にも立たないんだから、せめて多少の踏み台にはなりなさい――


自分は何の役にも立たないのだと知った。役立たずな自分は、せめて周囲の邪魔をせず、迷惑をかけず、他者の踏み台として潰されるのが、周りにとっても一番いいのだと知った。


――おまえは周りに不幸しか与えない――


自分は人を不幸にするのだと知った。現にまったくもってその通りで、いつも自分は人々を不幸にして、人々を傷つけていた。そうして退治されていく、そんな存在であるのだと知った。


――化け物が普通の人生を歩めるだなんて夢を見るな――


自分は化け物であると知った。自分は周りとは違い、化け物であるのだと。決して周囲と同じになれることはなく、普通の人生とやらを歩めることもない。一生化け物のまま生きていくのだと知った。自分はそんな存在であった。

人に迷惑をかけないように。人を傷つけないように。人を不幸にしないように。そんな言葉は首枷のように自身にまとわりついた。首に嵌められたその枷で少し息がしづらいような気はしたが、しかしきっと、それは全部気のせいだった。現にこうして息ができているのだから、やはり気のせいだった。


《しかし、ならば、おまえ自身はどうなるんだ?》

「私……?」

《ああ。他者に迷惑をかけないよう、他者を傷つけないよう、他者を不幸にしないよう。ご立派ご立派、献身的で涙が出そうだよ。だがその中におまえが含まれていないならば、おまえはどこにいるんだ?他者はおまえに迷惑をかけ、おまえを傷つけ、おまえを不幸にするんだぜ?》


人は誰しも幸せになる権利があるって言うのに。彼の言葉が脳内へ響いていた。確かに、皆幸せになる権利を持っている。誰しもが、その権利を生まれた時から知らず知らずのうちに手にしているのだ。それを、人は気付かない。


「“人”は誰しもが幸せになる権利を持っているんだよ」

《だから、おまえは――》

「私は違うから、その権利はないんだよ」


“人”は皆、幸せになる権利がある。その言葉に適応されているのは、あくまで“人”なのだから。化け物にその権利はない。だってそうじゃないか。言葉通りの意味じゃないか。


――おまえみたいな化け物が、幸せになれるわけないでしょ――


幸せになれる権利が与えられるのは、“人”だけなのだと知った。