- ナノ -

機械じみた挙動の生命体


「だんだんに、だんだんに……」

《人間》

「にんげんと、いう、ものが……」


文字を追いかける少女は、時折漢字に躓きながらも、文を指でなぞりながら、本を読み進めていった。家具の少ない部屋の中で、彼女は布団に入り、時折声に読み方を教えてもらいながら、一人で本を読んでいた。

下の階からは、賑やかな声が聞こてくる。それはまるで別世界のようで。たった少しの距離しかないというのに。部屋を出て階段を下りればすぐだというのに。しかしそこには飛び越えられないほどの溝があるかのように、少女は感じていた。いや、実際に彼女にはその溝が見えていたのだろう。


「どうぞとして、人間の……」


人間の、仲間に、入っていきたいと。

少女の声が、先程よりも小さなものへと変わった。文字が薄く滲んでいるように見えたが、彼女は気にすることなく本を読み進めた。滲んでいる理由も把握していないようだった。そんな彼女を、脳から聞こえてくる声が、馬鹿だなと罵った。


《結局、誰もおまえを見ていないな。そんな奴らの言動で、何故そうも心を揺さぶられる?必要ないだろう》


必要ない。ああ、彼が言うのなら、確かにいらないのだろう。不必要だ。これは自分には到底不必要なものだ。

不必要な機能であるのだと。そう、少女は認識してしまった。












雄英の図書室は、やはりと言うべきか、広々としていた。置かれている本の種類も豊富だ。ヒーロー関連の書物はもちろんのこと、サポートアイテムやコスチュームの多様性や重要性についてだったり、プロデュースの極意だったり。当然純文学や参考書なども置かれており、様々な方向性の書籍がごまんと本棚に並んでいた。


「黒影くんは、なにか食べたりするの?」

「いや、食事は不要だ。強いて挙げるならば、闇を食すといったところか」


図書室で常闇と会った水世は、互いに目的が一緒ということもあり、二人で同じテーブルに着いて調べ物をしていた。授業でヒーローの法制度について習ったのだが、気になる法律や制度について、自分なりに調べるという課題が出されたのだ。

教科書に記載されている情報は、重要度の高いものが多い。またある程度ページ数を抑えるために簡略的になっていたりする。詳しい情報を得るならば、教科書だけではなく、調べたい事柄がピックアップされている本から得た方が早い。

しかし高校生のお財布事情は高が知れているし、本屋に目当ての物が置かれているかも定かでない。このご時世ネットで何でも調べられはするが、水世は本で調べることが嫌いではなかった。そのため、様々なジャンルが豊富に揃っている学校の図書室は、調べ物をするには最適な場所だと言えた。

水世はヒーローという職業の社会的定義について調べていた。今でこそ職として認めてられているヒーローではあるが、以前までは自警団という一種のボランティアのようなものであった。それが世論に押される形で認知され、法制度を確立し、また公認制度も制定されている。水世は、法制度などを通して見たヒーローという存在に着目したのだ。

一人机を占領して本を漁っていた彼女のもとに、常闇が声をかけたことで、二人で調べ物をする流れとなったのだ。


「急だな、脈略が微塵もなかったぞ」

「前々から少し気になってたけど、タイミングがなくて。今なら聞けるかなって」


常闇の言う通り、それは何の脈略もない質問だった。互いに該当ページを探している最中の、突然な発言である。常闇は水世をしばし見つめながら、些か天然じみているのだろうかと感想を抱いた。

彼の“個性”である黒影は、珍しいタイプのそれだった。障子や葉隠のように、体が通常と異なる形、状態になっているでもない。爆豪や飯田のように、体の部位に“個性”が発生しているわけでもない。轟のように、氷や炎などを発現させるわけでもない。蛙吹のように、他の生物の能力を使えるわけでもない。

完全に“個性”に意思や自我が存在している。まるで一生物のように。そのため食欲などもあったりするのかと、少し気になっての質問だった。どうやらそれらは必要ないらしく、かと言って常闇と胃を共有しているわけでもないらしい。単純に食事を必要としない個体のようだった。


「じゃあ、睡眠とかもいらないの?」

「そうだな」


あくまで意思や自我、物理的な形だけ持った“個性”なのか。生理的欲求という機能は付与されていないらしい。水世は感心したように頷きながら、突然の質問や邪魔をしてしまったことに謝罪をこぼして、本へと視線を戻した。

プロヒーローに与えられている権利の欄を見ながら、水世は指で文字をなぞっていった。公的な場所での“個性”使用、ヒーローコスチュームの着用・携帯などが並んでいるなか、敵を警察に引き渡すことで給金を得ることができる、という点で水世は指を止めた。

ヒーローも一つの職業。給金を得ている活動。コミックや創作物、画面越しに見たヒーローからはあまり想像はできないが、そもそも、ヒーローとは国家資格が必要とされる職であり、公務員の一種。無償で行うボランティアではなく、職業という括りである以上、金銭が発生するのは当然のことである。

こうした側面を見ると、現実感を帯びると表現すればいいのか。あくまでヒーローは一つの仕事であるのだと、そう感じるようだった。

しかしボランティアであろうが、職業であろうが、どちらにせよ命懸けであることに変わりはない。正義感、勇気、無謀、自己犠牲、精神力、力。そんな様々な要素を持ち合わせて成り立つものであり、相当なお人好しなどでないと、ボランティアとして続けることは難しいだろう。

危険と隣り合わせである以上、多少の見返りを求めることを頭ごなしに間違いであるとは水世には言えない。そもそもヒーローも人間だ。個々で大小は異なれど欲を持っており、自分の身は大事だろう。脳内であれこれ考えながら、水世はパラパラとページを捲っていく。

常闇は自身が読むページから、水世へと視線を移動させた。彼女がずっと、ボソボソと呟きながら本を読み進めているのが少し気になったのだ。恐らく、指でなぞっている部分の文章を声に出している。それは無意識なようで、そういう癖のようだった。

水世はその本のページを開いたままにして、別の本を手に取ってページを読み進めた。該当ページを見つけると、それをまた開いたままテーブルに置き、別の本を手に取って、を数回繰り返している。


「……読むのが早いな」

「え?」


開いたままの本が四冊ほどテーブルに置かれた頃、水世を見ていた常闇が呟いた。声が聞こえたらしい水世が不思議そうに顔を上げて、正面に座っている常闇を見た。彼女はそうだろうかと首を傾げると、顎に手を置いた。


「小さい頃から、本を読んでたからかな……?」


水世の趣味は読書と言ってもいいだろう。彼女はやることがないと、だいたい本を読んでいる。対して伊世は、絵を描くことが好きだった。今でも時々筆をとっており、風景画を好んだ。水世は、彼の描く画用紙一枚の中の世界が好きだった。


「なるほど。文字に慣れているのかもしれんな」


納得したように呟いた常闇は、本へ視線を落とした。彼は必要な資料は手に入れたのだろう、持参していたノートに何かを書き込んでいる。時折本の方に視線を移し、ページを捲ったりして、自分なりに文章にまとめているようだった。

水世も大体の資料は得ることができたため、ノートを広げた。四冊の本でノート周りを囲っている光景は、自分で作っておきながら、彼女には些か異様に映った。常闇に机を圧迫して申し訳ないと謝れば、彼は気にした様子はなかった。


「それだけ真摯に、熱心に取り組んでいるということだろう」


果たして、ハッキリとそうだと言えるのだろうか。頷くことができるのだろうか。水世は自分の行動原理を考えて、周りとの差を思い浮かべて、何故だか胸が痛んでいくような感覚に襲われた。だがそれをすぐに塗り潰すように微笑みを顔に浮かべると、彼にお礼を伝えた。

今では自分の意思で浮かべることができる笑みも、薄っぺらい謝辞も、最早作業と化していた。薄情な奴だと心の中で自分自身に呟きながら、水世はシャーペンを手に取った。