- ナノ -

その世界は私から遠くて


放課後になり、いち早く帰る者もいれば、教室に残って友人と話をしている者もいるなか、ガリガリとペンを走らせている緑谷に、水世は目を瞬かせた。ブツブツと独り言を呟きながらノートに向き合っている様子を見るに、彼は一人の世界に入っているのだろう。書いたり消したりを繰り返す彼の姿をなんとなく眺めていると、緑谷がパッと顔を上げた。


「え?あ、誘さん……えっと、どうかした?」


目が合った水世に少しを驚いた顔を浮かべた緑谷は、何度か瞬きをしながら首を傾げた。水世は緩く首を振ると、彼が手にしているノートを指差した。


「何か書いてるみたいだったから、ちょっと気になったの」

「ああ……これは、僕がヒーローをまとめたノートっていうか……特徴とか強みとか。これは、クラスのみんなのことを書いてるんだ」


良ければ見る?と聞く彼の方に歩み寄った水世は、頷いてノートを受け取った。中身を見れば、確かに彼の言う通り、A組の生徒について書かれていた。それぞれコスチューム姿の絵と一緒に、自己分析に基づいたデータが書かれている。細かな情報で、且つ読みやすくまとめられたそのノートに、水世は素直に感嘆した。

入学してからまだ約二週間程度しか経っていない。クラスメイトの“個性”もそう多くは見れていない中で、現状把握できる点を事細かに記録してある。ノートを捲りながら、水世は自分のページを見つけた。

自分の名前が書かれており、コスチューム姿の自分も描かれている。“個性”には「魔法」という単語があった。「炎を出せる」「黒い槍を床や天井、壁から出すことができる」「魔法陣からレーザーを撃つ」なども書かれていた。指でなぞりながら、自分が分析されているというのはくすぐったいような気がしつつ、水世はノートを閉じて緑谷に返した。


「ありがとう。緑谷くんは、勉強熱心なんだね」

「そんなことないよ。僕はみんなより遅れてるから、頑張らないと……」


謙虚なのか、自己評価が低いのか。なんにせよ彼は非常に努力家ということなのだろう。水世はそう思いながら、このノートはプロヒーローについての分もあるのかを尋ねれば、緑谷は家にあるのだと頷いた。


「じゃあさ――」


口を開いた水世だったが、彼女は言葉を発さなかった。燃えるような紅が脳裏に浮かんでいるものの、その持ち主の名前は、言えなかった。

不思議そうに自分を見る緑谷に、水世は笑みを見せた。僅かに顔を赤くしている彼に、「じゃあさ、グラヴィタシオンもあったりする?」と、今度は言葉を止めることなく尋ねた。緑谷は大きく頷くと、目を輝かせながら水世を見上げた。


「もちろんだよ!“個性”も強力だし、市民からの支持も高い大人気ヒーローなんだから!誘さん、グラヴィタシオン好きなの?」


笑った彼女に、緑谷は表情を明るくさせた。重度のヒーローオタクなようで、彼はグラヴィタシオンについて水世に語っている。彼女もそれに頷いて、時折自分も発言をしながら、彼の話を聞いていた。

本当に、ヒーローが好きなんだろう。好きで、憧れで、夢なのだろう。本気でその憧れになるため、彼は必死になって頑張っている。いや、それは緑谷だけではない。ヒーロー科に在籍している誰もがそうで、夢のためにひた走っている。水世は、自分をその中に混ざった異物だと称した。

周りと自分との温度差はとてつもないものだと自覚していた。ヒーローになるためにヒーロー科に入ったわけでもなくて、将来ヒーローに携わる職業を目指しているわけでもない自分。それを周囲が知ったなら、瞬く間に非難を浴びることだろう。先日宣戦布告をしに来た普通科の生徒などからすれば、ふざけるなと怒号を飛ばされても仕方なさそうだ。

だが水世は、自分の“個性”では、ヒーローという存在にはなれることはないと知っていた。もし自分がなれる役があるのなら、それはたった一つしかないと、もうずっと前から知っていた。ならばその役になるのかと聞かれると答えはノーだった。それを伊世が望んでいない以上、なろうとは思わなかった。


「そうだ!明日グラヴィタシオンのことが書いてあるノート、持ってくるよ!」


緑谷の声に、水世は意識を戻した。彼の言葉を数秒ほどかけて咀嚼した彼女は、それは悪いと断った。ちょっと気になっただけだから、と。だが緑谷は気にする必要はないと笑っていて、水世は下がり眉で笑いながら、「じゃあ、お願い」と返した。

しかしそうなると、自分も彼にお返しをしなくては。水世はそう思い、少し思考を巡らせた。現段階でわかっている彼の好きなものは、ヒーローしかない。とは言え水世はヒーローの公式グッズをそう多く持っている方ではないのだ。あれこれ考えて、一つ思い浮かんだ彼女は、ブレザーのポケットからスマホを取り出した。

軽く操作して緑谷に画面を見せた水世は、少し首を傾げた。


「お礼になるかわからないけど……これ、いる?」


彼女が見せたのは一枚の写真だった。そこにはグラヴィタシオンがカメラを向いてピースサインをしている。


「こ、これ、もしかして……!グラヴィタシオンのスーツにマントがついてた頃の……!」

「うん」


今のグラヴィタシオンのコスチュームにマントはついていない。しかしデビュー当時の彼のコスチュームには、実はマントがついていたのだ。しかしその期間は一週間だけであり、一週間後にはそのマントは綺麗さっぱりなくなっていた。曰く「邪魔だったから」とは、本人がいつぞやの雑誌で話していた。そのためマントのある頃の彼の姿は、ファンにとってはレアとなっている。

やや興奮気味に食いついている緑谷に、水世は送ろうか?と聞いた。即座に水世の方を見上げた彼は、いいの!?と声を上げた。その勢いに少し驚いた彼女はやや苦笑いを浮かべながら頷いた。


「あ、誘さん、連絡先とか交換しても大丈夫?」

「大丈夫だよ」


慌てながら自分のスマホを出した彼に少し笑いながら、水世は緑谷と連絡先を交換した。トークアプリを起動して、彼に先程見せたグラヴィタシオンの写真を送ると、無邪気な笑顔でお礼を告げられた。

そんな笑顔を向けられるような、綺麗な奴じゃない。水世はそんなことを思ったが、悟らせないように笑みを返した。


「でも、すごいね。この頃のグラヴィタシオンってすごく短い期間だったのに……こんなに至近距離での写真は初めて見たよ……」

「運が良かったんだよ」


自身のスマホ画面を見つめる緑谷は、欲しかったおもちゃを手に入れた子どものように顔を綻ばせている。思いの外喜んでもらえていることに、水世は緑谷のヒーロー好きの深さを知ったような気がした。


「でも、いいのかなあ……僕のノート、そんなにすごいものじゃないし……」

「充分すごいよ。一人であれだけまとめるの、時間もかかるだろうけど、根気や観察力も必要だと思うから」


自信持っていいと思うよ。そう微笑んだ水世に、緑谷は何度か目を瞬かせたが、顔を真っ赤にしてふにゃりと笑った。よっぽど嬉しかったのだろう、頬はだらしなく緩みっぱなしになっている。

こんなに喜ばれるなら、もう何枚か送ってもいいかもしれない。水世はぼんやり考えて、スマホを操作した。もう二、三枚の写真を送った瞬間、緑谷は目を見開いて画面を凝視するので、彼女は少し笑ってしまった。