- ナノ -

空想は現実を追い越した


室内にいるのは数名の大人たち。唯一立っている男が下げていた頭を上げると、両サイドの白いメッシュが揺れた。彼は真剣な眼差しのまま口を開いて、目前に座る面々を順に見やった。


「落としてもらってもかまいません。その目で見て、確かめてほしい。特別措置を取るに値するかどうかを」


そう告げると、男はまっすぐに扉の方へと向かった。しかし言い忘れたとばかりに声を漏らしたと思うと、くるりと振り返った。


「結果はどちらにしろ、片方だけというのはやめてくださいね。少々厄介なので」











カーテンの隙間から、眩しい光が差している。顔に当たる細い日差しに眉を寄せた少年は、寝返りをうって光を顔から外した。その数秒後、規則正しい寝息しかしない部屋に、控えめなノック音が加わった。


「伊世(いずせ)くん、起きてる?」


ノックをするが返答はなく、声をかけても返答がない。少女はもう一度声をかけてからドアを開けた。広めの部屋の中は綺麗に片付けられており、窓際に配置されているベッドでは少年がぐっすりと眠っていた。

入るよ。そう呟いて、少女はまっすぐに少年の元へ歩み寄り、軽く肩を叩いた。「伊世くん、時間だよ。起きて」と呼びかけていると、少年が一度眉間にしわを寄せて、瞼を上げた。彼は少女の顔を視界に捉えると、サイドテーブルに置いてある時計に視線を向けた。


「おはよう」

「…………ああ。悪いな、水世」


体を起こした少年――伊世は、自身を起こしに来た少女――水世を、淡く光る金色の瞳で一瞥した。彼は寝癖のついていないサラサラとした黒髪を軽く掻きながら、両足を床に下ろした。

水世は一礼をして、先に部屋を出ていった。閉じたドアを黙って見つめた伊世は、一人深いため息を落としながら立ち上がった。

伊世が身支度を終えて一階のリビングへ行くと、ダイニングテーブルには朝食が並んでいた。今日の献立は白米にわかめと豆腐の味噌汁、卵焼きと焼き魚、ほうれん草のおひたし、と和食で固められている。

一人分の食事に僅かに眉をしかめつつも椅子に腰掛けた彼は、いただきますと呟いて朝食に手をつけた。甘さが控えめな卵焼きを咀嚼しながら、伊世はニュース番組を流しているテレビの方を見た。テレビの液晶画面には筋骨隆々の笑顔の男性が映っている。画面の右上には「流石オールマイトまたもお手柄!」という文字が綴られている。


「アイツは?」

「仕事があるから、早くに出て行ていっちゃった。『頑張ってこい』って言ってたよ」

「……あっそ」


キッチンから出てきた水世は、うんと一言呟くと、リビングから出ていった。洗濯物を干しに行くのだろう。伊世はそう思いながら、黙々と食事をした。

少しすると洗濯カゴを持った水世がリビングに戻ってきた。伊世の予想通り彼女は洗濯物を干すようで、リビングの窓を開けて、庭へ出ていった。

時間を小まめに確認しながら、伊世は食べ終えた食器をキッチンへ持っていき、それらを洗いはじめた。手早く済ませて今日何度目かの時間の確認をして、庭へ移動した彼は、軽いストレッチを行いだす。


「食器洗ってくれたの?ごめんね、私がしないといけないのに」

「べつに」


最後の一枚であるTシャツを干した水世は、再度謝罪を伝えると、カゴを持ってリビングに戻った。

随分と天気がいい。空を見上げた伊世はあくびをこぼしながら思った。受験日としてはありがたいことか。そう考えながら、彼はこれから数時間後に行われることについて思考を飛ばし、深呼吸をした。

中国軽慶市で「発光する赤児」が誕生したと報道されて以来、世界各地で超常現象が報告され、世界総人口の約八割が超常能力“個性”を持つに至った超人社会となった。その“個性”が発現したことにより、現代社会での人気職業に新たな職が加わった。

それが、ヒーローである。

ヒーローとは、人々に“個性”が発現した超常黎明期において、その“個性”を利用して人々を救う職業である。法社会的な定義が確立しており、もとは「自警団ヴィジランテ」と呼ばれた人々の活動が、世論に押される形で制度として認知されたことで、ヒーロー制度が確立した。

“個性”をヒーローのように奉仕活動として扱う者とは逆に、悪用する者もいる。そんな者たちを人はヴィランと呼び、ヒーローはそんな者たちを取り締まることで、人々に讃えられている。

今では立派な職業として並ぶヒーロー。かつて人々が思い描いた夢が現実となり、誰もがヒーローに憧れ、夢を抱いた。いつしかそれは、空想上のものに抱く思いから、叶えたい夢へと変化した。

今日は、その憧れを現実へと変えるための一歩を、うら若き少年少女たちが踏み出す日であった。

国立雄英高等学校。そこはヒーローを養成する数ある中の学校一つだ。今朝もニュースを賑わせていたNo.1ヒーロー、オールマイトをはじめとした名だたるヒーローたちを輩出し、偉大なヒーローには雄英卒業が絶対条件と言われるほど、ヒーローになるための登竜門として認知されている。

その雄英高校のヒーロー科は、ヒーロー養成を目的とするコースであり、他の学科よりもプロのヒーローに特に直結する大人気学科。その入試倍率は三百倍という超難関であった。

そんな入学困難な雄英高校ヒーロー科の一般入試実技試験が、今日この日、行われるのであった。

伊世、そして水世もまた、ヒーロー科の一般入試を受験する。今日という日のために受験生たちは並々ならぬ努力をしてきており、個人で差はあれど緊張感に包まれているものである。だが対して二人は、特に緊張というものをしておらず、むしろリラックスさえしているかのようだった。二人とも、普段と変わらず日々の習慣をこなしていた。


「伊世くん、飲み物、テーブルに置いとくから。余計なお世話だとは思うけど、今日は普段よりストレッチは入念にした方がいいよ」

「ああ」


軽く振り返った伊世は、窓のそばに立つ水世を数秒見つめて、顔を正面へ向き直した。

ヒーロー科への入試試験は、筆記と実技の二つ。実技試験の詳しい説明は会場で行われるため、どんなことをするのか定かでない。しかし“個性”を使わなければならないことは明白である。だが考えずともわかるのはここまでであり、その先は不明だ。二人は、試験内容がわからないからこそ、緊張を感じていなかった。

わからないとは、大半の人々にとっては不安材料となる。わからないから怖い、というのは当然のことで。しかし伊世も水世も、わからないものに怯えてどうする、というどこか達観したような思考だった。それは一種の強さであり、しかし危機感の無さでもあった。

普段よりも少し長めのストレッチを終えた伊世は、最後にまた深呼吸をして、リビングへ戻った。窓を閉めて鍵をかけながらテレビの方を見れば、プロヒーロー特集を流している。画面にパッと映し出されたとあるヒーローを見た途端、伊世が思いきり顔を歪めた。


「どうしたの?」


舌打ちを聞いた水世が彼へ声をかけるが、伊世は黙ったままだった。どこか薄暗い金色の瞳が、テレビの方を向く。映っているのは、フルフェイスのヘルメットで顔が隠れた、パワードスーツを身に纏っている男性ヒーローだ。その姿を見て、彼女は伊世の機嫌が悪くなった理由を把握した。


「伊世くん、そろそろ行こう?」


彼の機嫌を悪化させまいと思ったのか、水世がそう伝えた。余裕を持って早めに家を出ようと昨日のうちに二人で決めていたこともあり、彼は素直に頷いた。

伊世がテレビを消すと、水世は洗濯カゴを戻しに行った際に取ってきた、自分と彼との荷物を持った。どちらも彼女が持つ気でいたが、伊世は自分の荷物を奪い取ると、早々にリビングから出ていった。

窓の鍵とキッチンのガス栓を再度確認した水世は、リビングの電気を消した。玄関へ行けば既に靴を履き終えた伊世が待っており、水世は慌てて自分の靴を履いた。


「……行ってきます」

「行ってきます」


誰もいないながらに挨拶をした二人は、外へ踏み出した。