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欺瞞だらけの世界の中で


敵襲撃の話や、水世がしばらく雨風に晒され続けていたということを知った伊世は、下校時から機嫌が直らなかった。重世にもその件は伝えられたようで、彼は大慌てで帰ってきていた。二人は頭痛や吐き気、寒気はないのかと何度も何度も確認してきて、水世はその都度異変はないと同じ返事を繰り返した。

それは臨時休校となった翌日にも続いた。実際、水世はなんの症状も出なかったため、同じ返ししかできなかった。重世は仕事があるからと朝早くに家を出たが、やはりその時も、彼女に体調の変化はないかを尋ねていた。

水世は今回の襲撃について、人伝にしか聞いていない。実際にその場を見ていないため、あまり詳しいことは知らなかった。ただ、敵の中にいた脳みそが剥き出しになっていた巨体が、敵連合と名乗った彼らの「オールマイトを殺す算段」だったとのことだった。相澤の怪我もその敵にやられたものなのだと、蛙吹が話してくれた。

13号の傷は、ワープを“個性”としていた黒いモヤの男が、13号の背後に“個性”で彼のブラックホールを出現させたことによるものだと、芦戸から教えてもらった。

蛇口の水を止めた水世は手を吹くと、ソファーに座って昼のニュースを眺めている伊世の背を見つめた。


「なんだ。言いたいことがあるなら言え」


視線が気になったのだろう。彼女の方を見ることはないまま、伊世が告げた。水世は少し肩を跳ねさせると、言いにくそうに顔を俯かせた。言えば伊世の機嫌を損ねることは予想できていたから。だが物言いたげな視線を寄越されているのも彼としては気分を害するのだろう。水世は俯き加減のまま、恐る恐る口を開いた。


「今回の襲撃で、プロのヒーローが二人も重傷を負ってた。もちろん、職務上怪我はつきものなことは、理解してる。危険が伴う、命懸けの仕事だから」

「そうだな。で、ヒーローを目指すのをやめろ、と?」

「…………」

「無言は肯定と受け取るぞ」


プロヒーローたちが、普段どのような敵と戦っているのかを理解することができた。伊世を弱いと思っているなどでは微塵もなく、ただ彼にもしものことがあったらという可能性が、水世にはただただ恐ろしかった。


「伊世くんがヒーローになりたいと思ってることは、理解してるよ。そのために努力してきたことも。私は伊世くんの夢のために、全力で助力したい。あなたの剣に、盾になりたい。でも、だけど……」

「誰がなんと言おうが、俺はヒーローになる。そう決めた、そう誓った。何があろうがそれは覆さない」


案の定、伊世の機嫌はみるみるうちに下がっていった。彼の声音は少しばかり刺々しくなっており、水世の方を見ないまま、テレビを睨んでいる。


「べつにおまえの助けがなくとも、俺は問題ない。命賭けなくて何が守れる。そういう仕事だろ、ヒーローは。嫌なら水世、おまえが辞めればいい。元々ヒーロー志望で雄英に通ってるわけじゃないだろ」

「!ううん、私は、今後も通い続ける。通い続けたい。伊世くんの夢のために。たとえ私は不要品だとしても、私は伊世くんの役に立ちたいの」


互いに何も言わず、テレビから流れてくる音声だけが部屋を包む。普段から明るく賑やかな家庭とは程遠いものだったが、この時、この瞬間は、いつも以上に静かだった。二人の会話もそう多いものではないため沈黙にも慣れている。今更気まずさなどないというのに、今二人は、確かにこの状況に気まずさを感じていた。

伊世がソファーから立ち上がった。彼は水世の方を見ないまま、リビングを出ていこうとしていた。ドアを開けた彼は出ていく前に立ち止まったと思うと、散歩に行くとだけ告げてドアを閉めた。

部屋には水世一人が残った。テレビはついたままで、相変わらずヒーローの活躍を流していて、それらを市民に伝えている。

こうして画面越しに見たヒーローや敵と、実際にその目で見たヒーローと敵は、何もかもが違ったように水世には感じた。たった一枚の液晶ガラスが間に入るだけでそれは遠く感じ、他人事のように思える。しかしヒーローも敵も、自分が思っているより近くにいて、自分が思っているよりも他人事ではない。今この瞬間にもどこかで敵が暴れ、ヒーローが戦っている。それを、実際にその場で見たわけではないから、他人事のように遠く感じるだけだった。

昨日の騒動で、水世はイレイザーヘッドや13号、オールマイトの戦う姿をハッキリとは見ていない。しかし、プロヒーローが重傷を負うほどに強力な敵だったことはわかっている。それだけ危険が伴っていた、命が伴っていたのだと。

ヒーローは敵を殺さない。あくまで戦闘不能にするだけで、殺しにかかるのではない。しかし敵は違う。彼らは殺す気でかかってくる。たったそれだけの違いだが、その違いは大きなものであるのだと、昨日水世は感じたのだ。だからこそ、伊世がプロのヒーローになったあと。命に関わるような怪我をしてほしくないと、そう思ってしまった。

それでも、伊世の意志は固かった。水世が捻じ曲げることなどできないほどに。ならば彼女は、彼についていくだけで。彼の夢のために尽力するだけで。ヒーローになりたいと伊世が言うのであれば、水世は彼をヒーローにするために生きていく。それだけだった。

いざとなれば自分が彼を守ればいい。彼の盾になればいい。彼の代わりに、死んでしまえばいい。


《おいおい、ヒーローは人命を守るお仕事だろ?自分の代わりに死なれちゃあ、あのクソガキの面子も丸潰れだろうよ》

《……それでも、伊世くんが助かるのなら……私は……》


胸の前で固く手を握りしめた水世は、満月の声に囁くような呟きで返した。


《おまえも、クソガキも、あの男も、愉快なほどに交わらないな》


大好物を目の前にした子どものような、明るい声音をしていた。満月は笑いが堪えられないのか、時折喉から笑い声を漏らしている。

水世は、伊世のために命を使えるのなら、それでいいと感じていた。自分はそういう役回りを任せられているのだから、それでいいのだと。しかし彼にとっては水世の助けは不要で。確かに、交わらない。水世は力なくため息を吐いた。

“個性”一つでこんなにも、人の生き方や生きる環境は変わってしまうものなのか。そう思うものの、水世はそれを、これまでの十五年間で嫌と言うほど味わい、理解させられた。


《生きづらい、息のしづらい世の中だよなあ》

《……仕方ないよ。私は、いつも淘汰される側だから。いつも誰かを困らせて、いつも誰かを傷つける。そういう存在だから》


物語の中ではいつだって、自分は正義の味方に退治される存在だった。言うなれば敵で、ヒーローからは程遠い存在だ。本当は雄英高校に、ヒーロー科にいるのは間違いだと知っていた。知っている。王子様は現れないし、お姫様にはなれないし、誰かを助けるヒーローにもなり得ないのだ。だというのにヒーロー科に在籍しているのだから、とんだ皮肉である。


《……私、嘘でできてるのかもね》


独り言のように呟いた水世に、満月はいいことを教えてやろう、とこぼした。顔はわからないが、恐らく口元は弧を描いていたことだろう。


《水世。この世は嘘で満ちてるんだぜ?》

《……あなたが言うの?》

《オレだから、だよ》


確かに。水世の口からこぼれた声は、静かに部屋へと落ちていった。