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空を切った手に罪を見た


ただ、恐ろしいと思った。純粋なまでの恐怖感は確かに自分を支配していった。意思が効かないからこその暴力性は手加減を知らない。そこには殺意も敵意も一切なかったが、それでも、殺されるのではないかという恐怖が胸中へ広がっていった。

押さえつけた小さな体。後ろでゆっくりと揺れていた二本の腕も地面に伏せるなか、僅かに顔を上げてこちらを見つめた黒と赤に染まった眼(まなこ)は、愉快そうに三日月の形を描いていた。苦しげで、声を出すのも精一杯な風であるにもかかわらず、向こうの方が確かに余裕を持っていた。


「一つ、良いことを、教えてやろう」


言い放たれた言葉に対する絶望と、愉快な笑みが一変して悲愴を浮かべた表情を、今でも鮮明に覚えている。

あの日、あの瞬間。自分は何かがヒビ割れた音を聞いた。そのヒビを入れたのは、紛れもなく己であった。











水世は、雄英に入学してからは、以前よりも忙しい日々を過ごしていた。学校の授業は中学校同様の必修科目にプラスするように、ヒーロー科ならではの独特な授業。ヒーロー基礎学でのような座学はもちろん、ヒーロー情報学という座学。ヒーローの歴史や、関係する法律、制度についての授業だってあるのだ。

まず、ヒーロー科の授業は他の学科よりも一時間多い。土曜日も授業はみっちりと詰まっており、加えて週に二日、三・四限が実習と演習に割り当てられている。入学することも難しい上に、毎日のスケジュールも中々ハードなものとなっていた。流石は数あるヒーロー育成校の最高峰であった。

水世には、学校以外にもすることがあった。洗濯や掃除、食事作りなどの家事である。そのため早朝に起きて洗濯を行い、その間に朝食を作り、家を出る前に洗濯物を干す。帰ったら取り込んで、風呂を沸かしている間に夕食作り。伊世や重世も手伝ってくれているが、いかんせん水世自身が、彼らに手伝わせてしまうことを良しとしなかった。


「おつかれさま」


夕食の片付けを終えた水世がソファーで一息ついていると、重世が彼女の隣に腰を下ろした。慌てて立ち上がろうとする彼女を制しながら、テーブルにお茶の入ったコップを二つ置いた。水世はお礼を告げながら、少し頭を下げた。


「忙しいんじゃないか?雄英は」

「そうですね……ですが、こなせないわけではありませんので」


それを聞いた重世は、笑いをこぼすとコップに口をつけた。水世も、彼が持ってきてくれたコップを手に取り、一口啜った。


「授業は大丈夫か?実技もあるだろ。あとは、ヒーロー関連の法律とか制度とか……ああ、ヒーロー史もあったな」

「はい。実技に関しましては、先日戦闘訓練が行われました。ヒーロー史や法律、制度に関しても授業が始まっています」

「覚えることが多いからな……でも、ヒーロー史と法制度に関しては結びつけながら覚えていくと、少しはわかりやすいかもしれないな」

「助言、感謝します」


丁寧にお辞儀をした水世は、笑みを返すと再びお茶を喉に流し込んでいった。少しの沈黙が二人の間に流れると、重世は友人はできたのかと彼女に尋ねた。水世は瞳をぱちくりとさせると、少し考えてわかりませんと首を横に振った。


「……そういえば、連絡は来たりしたのか?」

「……ああ、はい。向こうは雄英に比べると、随分厳しいそうです」

「対象的ってわけか」


幼馴染のことを聞いているのだと理解した水世は、彼も向こうで元気にやっている、と重世に伝えた。ずっと志望していた雄英ではなく、別の学校に行ってしまったのはなんだかもったいないような。本来なら彼も今頃自分たちと同じ場所で学んでいたのかと思うと、寂しさのようなものが浮かんでくるような。そんな気がしながら、水世は幼馴染を思い浮かべた。

幼馴染は、随分と水世を気にかけていた。中学生に上がって急激に背が伸び、体格もそれなりに良くなって。最初出会った頃は水世の方が僅かに身長は高かったのだが、男の子の成長期は侮れないものだった。彼の方が身長が高くなってから、彼は子どもに高い高いをする父親の如く、水世をよく持ち上げていた。曰く、自分の方が身長が伸びたのが嬉しいのだとか。水世も次第に慣れてしまい、持ち上げられたまま会話するなんてことも少なくなかった。

最後に会ってからまだそう長い月日は経っていないが、なんだか懐かしく感じてしまう。水世の幼馴染が入学した学校は西の方なため、彼は向こうで寮暮らしをしている。そう頻繁に会える距離でもなく、互いに学校生活が忙しい身だ。次に会えるのはいつなのだろうかと、水世は少し、幼馴染に対して思いを馳せた。


「ああ、そうだ。今年の一年、エンデヴァーさんの息子もいるらしいな」

「はい。同じクラスにいます」


エンデヴァー。事件解決数史上最多記録を保持する、長年No.2のプロヒーローだ。

水世はエンデヴァーのことは、よく知らない。正確に言うと、外見と、メディアで得た程度の情報しか知らない。“個性”の炎を用いて戦い、威圧感のある外見で、ファンサービスなどは一切無く、苛烈で冷然とした立ち振る舞いなプロヒーロー。そんな情報しかない。

そんな彼の息子とは、水世が戦闘訓練で対戦した相手、轟焦凍のことである。

似ている、気がする。水世は轟とエンデヴァーの姿を思い浮かべながら、ぼんやりと思った。見た目の話ではなく、中身が似ている。エンデヴァーのその冷然とした立ち振る舞いや、テレビの画面越しに見た瞳の冷たさが、特に。


「水世、入っていいぞ」


リビングに入ってきた伊世は、やや濡れた髪をタオルで拭きながら水世を呼んだ。彼女は頷くと、持っていたコップをテーブルに置いて立ち上がった。失礼しますと一言、彼女はリビングを出ていった。

ドアが閉まると、伊世は重世へと視線を移した。その瞳はありありと嫌悪を見せており、彼が重世を敵視しているとすぐにわかる。重世はそんな彼に対して、髪はちゃんと乾かした方がいいと笑った。彼はそれを無視しながら、キッチンの方へと向かう。


「水世と何話してた」

「学校についてだよ。勉強は大変じゃないかとか、友達はできたかとか。俺はおまえらのお兄ちゃんだからな、心配――」


重世が言い終える前に、伊世が振り返って彼を睨みつけた。瞬間、彼の前に魔法陣が現れた。魔法陣からは真っ白な矢が重世に向かって飛んでいくが、振り返った重世は焦る様子もなく、手のひらを向けた。彼の手のひらからは黒く薄い球体が出現したと思うと、それは膨らんでいく。矢はその球体の中に入った途端、雲散していった。


「落ち着け。目の色変わってるぞ」


ことごとく矢を消された伊世は、忌々しげに舌打ちを落とした。彼が魔法陣を消したことを確認すると、重世も球体を消して手のひらを下ろした。


「『お兄ちゃん』?誰がだ?おまえが?……馬鹿げたこと言うなよ。今更兄貴ヅラなんかするな、不愉快だ」

「今までできなかったから、するんだよ」

「できなかった……?」


乾いた笑いが部屋に落ちた。伊世の目には嫌悪感はもちろん、沸々とした怒りも燃えているようだった。


「しなかったんだ、おまえは……先に手を離したのは、そっちだろ」


冷蔵庫からペットボトルの水を取り出した伊世は、それ以上何も言わず、重世の方を見ることもなく、リビングを出ていった。

伊世から言われた言葉は、重世には深く突き刺さった。それと同時に、言い返す言葉もなかった。まったくその通りだった。彼が自分をあそこまで嫌っているのも、全ては自分のせい、自分が蒔いた種だった。


「……離してしまったから、もう一度繋ごうとしてるんだよ」


自分勝手な男だと、あの日の声が嘲るように笑った気がして、重世は目を覆った。