- ナノ -

自由な死でなく自由な生


ぬるま湯に身を沈めながら、体が軽くなったかのような浮遊感を全身で受ける。口からこぼれるあぶくが浮かび上がっていくが、目を閉じている水世にそれは見えなかった。肌が温まっていくのを感じながら、水世はぼんやりと微睡んでいた。


《水世、そろそろ上がれ。溺れてえのか》


聞こえた声に、彼女は意識を戻す。バスタブの縁に手を置き、ゆっくりと体を引き上げた彼女は、水滴を飛ばすように軽く頭を振った。


《見えてないのによくわかるよね》

《水中にいることくらい、音でわかる。それよりも、アレやめた方がいいぞ》


風呂の栓を抜き、タオルで全身を拭いている水世に、満月は咎めるような声音で言った。彼の言う「アレ」とは、風呂に入った時の水世の行動を指している。

湯船から出る前、水世は決まって全身を湯の中に沈めた。一人で水中にいると無意識にしてしまうのだと、#name1は満月に話したことがある。風呂は一人の時間である分気を遣わなくていいからか、気を抜いてしまうのだろう。しかし、だとしても、一歩間違えば溺死してしまいそうなその行動は、褒められたものではない。


《おまえ、自殺願望でもあんのか?》


水世の行動は、確かに自殺願望と言われても仕方のないことだ。しかし彼女は、それは少し違うと首を横に振った。


《なんか、水の中は落ち着くの》

《落ち着くねえ……》


安心。それが、彼女にとって一番しっくりくる感情だった。満月はしみじみと呟くと、小さく舌を打った。その理由がわからない彼女は、髪を拭きながら首を傾げた。


《……なら、胎内回帰願望の方か》


髪を乾かし終えた彼女に、満月は呟いた。

胎内回帰願望。その名の通り、母親のお腹の中にいた時に戻りたい、という欲求。満月は彼女の行動は、それに基づいたものであるのではないかと予想した。母のお腹の中にいた頃、人は羊水に包まれていた。水の中が落ち着くという人間は一定数おり、そこからくる感情なのだろうと彼は淡々と語る。

それを聞き、水世はなるほどと納得を示した。ホテル側の用意してくれたパジャマに袖を通しながら、ポスンとベッドに腰掛け、テレビを点けた。


「お腹の中にいた頃なら、二人も私のことを好きでいてくれてたからかな」


昼間の、カナコとその母親のことを思い出し、水世は囁くような声で言葉をこぼす。一人きりの部屋ではやけに大きく聞こえ、満月はまた舌打ちをした。

両親に愛されたかったのか。愛されていたかったのか。答えが「いいえ」ではないにしろ、しかしもう今更なその問いは、水世にとっては取るに足らぬことになっていた。願ったところで二人が蘇るわけでもなく、仮に蘇ったところで、必ずしも愛されるわけでもないのだから。

二人の暴力が、言葉が、愛であると思ったことはない。だが、嫌われている、恐れられている、否定されている。それをわかっていても、いつかまた愛されるのではないかと信じていたかった。自分を捨てないこと、最低限の暮らしは与えてくれていること。それらは二人の中に僅かにでも残った愛であるのだと信じていた。それらも、今となっては真実はわからずじまいだ。

テレビでは今朝起きた事件について報道されている。画面には、指定敵団体の一つである死穢八斎會の本拠地の映像が流れていた。道路には大きな穴が空き、近くの住宅街にも被害が広がっていた。その若頭であるオーバーホールこと治崎廻や、他組員が逮捕されたとニュースキャスターが原稿を読み上げている。

それを聞きながら、今日は「ヘンゼルとグレーテル」でも読もうかと思い、水世はバッグの中から童話を取り出そうとした。だが、コンコンという音が聞こえ、彼女は手を止めた。それは扉からではなく、窓から聞こえてきていた。恐る恐る窓に近付いた彼女は、ゆっくりとカーテンを開けた。


「……ホークスさん?」


窓の外には、へらりと笑いながら軽く手を振るホークスの姿があった。驚く彼女をよそに、ホークスはスマホの操作を行っている。指の動きから見て文字を打っていることは水世にもわかった。彼女がホークスのフリック入力の速さに目を瞬かせていれば、窓にスマホの画面を向けられた。

今から外出れる?そう書かれている文字に、水世は困惑しつつも頷いた。彼はそれを受けて、ホテルの玄関口へと降りていく。水世も一枚カーディガンを羽織り、忘れぬように部屋の鍵をポケットに入れて、エントランスへと降りていった。

彼女が自動ドアをくぐり抜ければ、ホークスが片手を上げて出迎えた。


「ごめんね、急に」

「いえ、大丈夫です」


彼は水世の姿をじっと見つめたと思うと、苦笑い気味に上着を脱いだ。そんな彼を不思議そうに眺める水世の肩に、ホークスは自身の上着をかけてあげた。


「えっと、あの……」

「水世ちゃん、それだと寒そうだから」


九月に入り、風も少しずつ冷たさを増していっている。今の水世の格好は、待たせぬようにと着替えずに降りたため、そう厚くはないパジャマに薄手のカーディガンを羽織るだけという心許ない姿をしていた。ホークスは少し申し訳ないと思いながら、上着を貸したのだ。


「ありがとうございます……それで、その、何の御用で?」

「うん。水世ちゃん、一緒に空の散歩でもしようか」


え?水世が瞳を瞬かせたと時には、彼女はホークスに横抱きに抱えられていた。彼女の思考が追いつかないでいるなか、ホークスは紅色の翼を大きく羽ばたかせた。浮遊感に体を跳ねさせた彼女は、目を白黒させながらも咄嗟にホークスの服にしがみついた。

どんどん地上から離れていき、街の灯りが小さなものへと変わっていく。高度が上がるたびに夜風の冷たさがより一層増し、水世は無意識に、借りた上着を引き寄せた。


「夜間飛行は、昼間とはまた違った良さがあるんだよね」


そう呟きながらホークスはスピードを落としていき、ゆったりとした飛行へ変わっていく。そっと地上へと視線を向けた水世は、ネオンで飾られた街々の光景に息を呑んだ。電灯、ビルや家の明かり、信号や車のライトなど、様々な光が散りばめられたその様に、地上の星という言葉が彼女の頭に浮かんだ。

上空からの景色など早々見られるものではない。そのため水世は、視界に広がる景色に釘付けになっていた。


「水世ちゃんはさ、空飛びたいって思わないの?」


突然の問いかけに、水世はホークスを見上げた。彼は視線だけ彼女へ向けたと思うと、にっこりと笑う。


「まだ、折れたままなのかな」


水世の瞳が僅かに見開かれた。それを見ながら、ホークスは口角を上げた。


「久しぶり。少し雰囲気変わったね、天使ちゃん」


悪戯が成功したかのような、楽しそうな声音だった。ホークスは笑い声を漏らしながら、大きく翼を羽ばたかせる。そうして、彼は街中の鉄塔に着地した。

両親が死んだあの日、水世はホークスに助けられた。否、自殺を止められたのだ。自ら投げ出された体を受け止めたホークスは、水世のことを「天使ちゃん」と軽い調子で呼んだ。

まさか覚えられていたなんて、水世は考えもしていなかった。それが表情に思いきり出ていたのだろう。ホークスは「君はだいぶ印象に残ってたから」と笑うと、ゆっくりと水世を下ろした。そう広くはない足場を見下ろした彼女は、右手で鉄骨に掴まった。


「救けた人に感謝されなかったの、初めてだったんだよね」


まだまだ眠る様子のない街を見下ろしながら、ホークスは呟いた。彼のその言葉に、水世はバツが悪そうに視線を下げる。彼女の罪悪感たっぷりな様子を一瞥したホークスは、フッと笑って真白な髪に手を伸ばした。

存外厚みのある手のひらでそっと髪を撫でながら、彼はゆるりと目を細める。僅かに顔を上げた水世は困惑気味に瞳を瞬かせながらも、その手をはらうようなことはしなかった。


「別に怒ってるわけじゃないよ。詮索しようとは思わないけど、あの時は、死にたくなるくらいには、生きてるのが嫌になったんでしょ?それ止められちゃったんだから、感謝なんかできないよね」


本当に怒っているわけではないようで、ホークスの声は存外穏やかなものだった。

事件の頃には、name1#は“個性”を制御する術を手に入れていた。それもあって伊世が両親に頼み、彼女が一緒に出かけることを許可されたのだ。とは言えほとんど荷物番のようなもので、爆破が起こった時も、彼女は店の外で、買い物をする両親と、お手洗いに行っていた伊世を待っていた。

爆破したのは、ちょうど伊世が向かった手洗い場の方向だった。衝撃と破壊音、パニックになる人たちの中で、水世は伊世のもとへと急ぎ、火傷を負った伊世の足に“個性”で水を当てていた。そんな時に、複数の叫び声を聞いた。混乱に乗じて、殺人が行われていたのだ。

火傷で思うように動けない伊世を物陰の方まで運び、両親を見てくるとその場に戻った時、彼女は二人が殺される姿を見た。

両親が死んで真っ先に感じたもの。それは悲しみでも恐怖でもなく、安堵であった。自分を虐げる彼らがいなくなったことに、彼女は確かに安心してしまった。助けを求める二人の顔が事切れた瞬間、言い表せない感情が浮かぶ。決して良いものではなかったのは確かだ。

そのことが、あまりにもショックだった。生みの親の死に対する己の感情への嫌悪が溢れ出た。

それが結果として大きなきっかけとなっただけ。ほとんど衝動的な行動だ。人の死に安堵するような自分の愚かさと醜さに、ただただ絶望した。こんな自分は消えてしまえばいいと、そう思った。


「でも、俺は君を救けたこと、後悔しないよ。悪かったとも思わない」


自分勝手でごめんね。眉を下げながら笑うその顔を見上げ、水世はゆるく首を横に振った。

水世は自ら死を選んだあのことを、後悔しているかと言われると、その実そうでもない。ホークスに救けられたことで、「死ぬべき瞬間を失った」と思ったことも確かである。しかし救けられたことに微塵も感謝がなかったわけではない。

彼がかけてくれた言葉は、水世の中にしっかりと残っていた。彼の表情に心臓は音を立てて、言葉に胸は締めつけられた。己の好きに空を舞うその姿は、キラキラと輝いていてあまりにも眩しかった。無理だと理解しながらも、自分もあんな風に飛べたならと、そう思ってしまった。


「天使ちゃんさあ、窮屈じゃない?もっと伸び伸びとしていいと思うんだよね」

「……伸び伸び、ですか?」

「そう。何事も挑戦あるのみ。できないって決めつけてたら、できることもできなくなるよ。時には、自分のしたいようにするのもアリだって俺は思うけどなあ」


閉じられてた翼が大きく開いたと思うと、ホークスは鉄網を軽く蹴り、宙へ浮く。そうして水世の隣から前へ移動すると、彼女の左手を取り、己の方へと引き寄せた。ゆらりと細い体が揺れて、彼女の右手が鉄骨から離れる。前のめりに倒れる水世をしっかりと抱きとめたホークスは、両腕で彼女の体を抱えながら、微笑んだ。


「天使ちゃんもさ、自由に飛べるんだよ。あんな無茶な飛び方じゃなくって、ちゃんと翼を広げて、羽ばたいていけるんだ」


優しくて、穏やかで、そして眩しい笑み。記憶の中と同じその姿に、水世は少し胸が痛くなった。もう一度だけでも会えたらなんて思っていた過去の自分が、僅かに顔を出したかのようだった。


「……飛べるでしょうか……私も」

「飛べるよ」


迷うことなく断言されたその言葉に、水世はなんだか泣きたくなった。

足が地面から離れたあの瞬間、彼女は自由になったような気がした。飛び降りる瞬間は、あんなにも自己嫌悪や焦燥で溢れていたというのに、その身を投げ出して落ちていくときには、思いの外穏やかな心情だった。

自ら選んだ死への飛行に身を任せながら、自由とはこういうものなのだろうと、諦めと絶望の中で、水世はそう思ったのだ。

しかしホークスは、そんな彼女にそうでない自由もあるのだと言ってくれた。生きていながらも得られる自由だって存在していると。

彼はもう一度彼女の頭を撫でると、その体を抱えなおして、また飛びはじめた。恐らくホテルへ帰っているのだる。来た空を戻っているのを見ながら、水世は控えめにホークスの服を掴んだ。