- ナノ -

両腕に抱えた硝子の天使


魅せられるとはきっと、こういう時に使うのだろう。彼女を初めて見た時、漠然とそう感じたことを覚えている。

それは、九州を離れていた時に起きた事件だった。ビルの最上階が爆破し、その中で行われた無差別殺人。彼女は家族と一緒に、それに巻き込まれていた。

空を飛んでいた俺は、最上階の様子をある程度見ることができていた。燃え盛る炎と崩れた壁の瓦礫、床に倒れている人々。そのほとんどは息などなかった。それでも僅かな生存者の救出を行なっていた。そうして、生存者の八割が避難を終えただろう頃だった。

真っ白な髪が、ふわりと宙を舞った。重力に従って落ちていくその姿は、場違いながらに神聖なものなように見えて、ほんの一瞬、思考も視界も全て奪われる。――綺麗だ。人が落ちている光景に抱く感情ではないとわかっていながらも、しかしそう思わずにはいられなかった。だがすぐに意識を戻して、その体躯に飛んでいき、両腕で受け止めた。

細い体だった。骨と皮だけと言うと大袈裟だが、しかしあまり肉付きはなく、骨なんて簡単に折れてしまいそうで。肌の白さも重なって、失礼ながら不健康そうな印象を受けた。

ふるりと睫毛が揺れたと思うと、ゆっくりと開いていく瞼。現れたのは金色。本来ならば美しく輝く色だというのに、彼女のその色のはどこか影を感じて、輝きはあまりにも鈍い。荒んでいると言うよりは、淀んでいると言うべきか。諦めきったような色をしていた。それがもったいないな、なんて感想を抱く。


「あんまり綺麗だったから、空から天使が落っこちてきちゃったかと思ったよ」


おどけた調子で笑えば、腕の中の彼女は、ひどく困惑した顔をして、そうしてほんの少しだけ、残念そうに瞳を伏せた。その表情の儚さは、まるで触れれば溶けてしまう雪のようだった。

地面へ向かっていた体を一度起こして、片膝に座らせて支えてやると、彼女は不思議そうに俺を見上げる。暗く翳っていながらも、その瞳は子どものような純粋さを宿しているように見えた。


「髪、汚れてるよ。せっかく真っ白なのに」


軽く髪を撫でて汚れをはらえば、彼女は一つ瞬きをして、顔を俯かせながら自身の髪に触れた。


「……かまいません。この色は、私には不釣り合いですから。汚れてるくらいがちょうどいいんです」


この子は、自分が嫌いなのだろう。聞きながら、そう感じた。恐らくまだ十代前半のうら若い少女だ。それくらいの年頃の女の子は、いろんなものに興味を示し、心を動かされ、毎日がキラキラと輝いているかのように笑っている。しかしながらこの少女は、いろんなものに興味をなくし、心を動かすのもやめてしまって、毎日に輝きなどないかのような瞳で、宙へと飛びこんだ。

詳しい背景など知りもしないし、結局は俺の予想に過ぎない。けれども、自らその身を投げ出してしまいたくなるくらいには、苦しい思いをしたのだろう。

再度髪に触れて汚れをはらいのけてあげれば、彼女は恐る恐る顔を上げた。


「髪は女の命とか言うしさあ。せっかくいいモンもってんだから。白、綺麗でいいじゃん、君に似合ってると俺は思うよ」


ぱちりと瞳が瞬いて、心底驚いた顔をして、彼女は俺を凝視した。しかしすぐにまた暗い顔を浮かべ、視線を下げた。


「本当は、救かりたくなかった?」


勢いよく顔が上がる。見開かれた瞳は困惑や驚き、怯えなど様々な感情は入り乱れていて、目は口ほどに物を言うとはまさしくそうだと、心の中で笑う。彼女のその反応を見れば、答えがどちらかなんてわかりきっていることだった。

そっと、彼女の頭を撫でてあげると、居心地悪そうに眉を下げて、瞳を伏せ、顔を少し俯かせる。


「たとえ君が救かりたくなったのだとしても、俺は君を救ける。救けてしまう。ヒーローって、そういうもんなんだよ」


救われる意思がない者に手を差し伸べることは、ある意味無駄な行動であるのだろう。しかし、ヒーローというものは、それでも無理矢理に手を掴んでしまうのだ。救われる意思がなくたって、その手が伸ばされなくたって、救けなくてはと身体が勝手に動いてしまう。そんな、どうしようもなく自分勝手な存在が、ヒーローであった。

彼女の体を抱え直して、今度こそ地面を目指していく。腕の中の少女は何も言わず、暗い顔のまま変わることはない。女の子一人笑顔にできないとは、ヒーローの名折れだ。どうにか笑ってもらえないかと笑いかけてみるが、中々に頑なだった。

両足を地面に着け、翼を折りたたんで、腕の中の細い体を地面に下ろす。彼女はおずおずと俺を見て、しかし視線をそらして小さな声でお礼の言葉をこぼした。


「天使ちゃん」


しゃがんで顔を覗き込みながら呼びかける。名前は知らないから、パッと浮かんだあだ名。上手く飛べない天使のお嬢さん。中々ピッタリではないだろうかと、密かに自画自賛する。

長い睫毛を揺らしながら、彼女は困ったような顔で俺を見た。自分は天使じゃない、とでも言いたげだ。実際そう思っているのかもしれない。


「天使ちゃんはさ、空を飛びたいって思ったりしたことある?」


え?と小さく漏れた母音。視線は彷徨って、眉は力無く下がって、唇はキュッと結ばれている。なんだか意地悪をしているような気分になりながら、自分よりも小さな両手を握った。


「空はね、いいよ。自由だから。天使ちゃんも、上手く飛べるようになったら、一回飛んでみたらいい」

「……私には、あなたみたいに綺麗な翼はないので……それにきっと、私の翼は、もうとっくに折れちゃったんです」


果たして物理的なのか、精神的なのか。どちらにせよ、彼女は地面に縛りつけられたまま動けないということは理解した。動けないのか、動かないのか。それは大きな違いではあるが、今は無関係だ。重要なのは、自分自身を飛べないと決めつけていること。


「もし君にも翼があるとするならば、飛んだ方がいい。折れているなんて決めつけるには、ちょっと早いんじゃない?」


僅かに揺れた瞳を見つめながら、微笑み返す。手を離して立ち上がり、折りたたんでいた翼を広げて羽ばたかせれば、彼女の瞳は俺を追いかけ、顔が上がっていく。その表情はやはりまだ不安を帯びていて、結局最後まで、彼女を笑わせることはできなかった。

それから一ヶ月ほど経った頃だった。細く小さな文字で丁寧に綴られた、匿名の手紙が一通届いたのは。以前俺に助けてもらったことに対するお礼が書かれたそれは、他のファンレターとそう大して変わらない。しかし何故だか、俺にはその文字が彼女のものなように感じた。それは俺の予想や思い込みでしかないのだが、その繊細な文字が、彼女を思い起こさせたのだ。

助けた人の顔を、一々全部は覚えていない。記憶力は悪くないとは思うが、そこまで無尽蔵ではないので、仕方がないことだ。けれども彼女の姿だけは、やけに記憶の中にとどまり続けていた。それだけ印象深かったというのは大きいだろう。救けたことに感謝されることは多々あったが、救けてほしくなかったと思われることなどなかったのだから。

通話の切れた音をしばし聞いて、一つ息を吐く。前にも聞いた質問の答えは、少しだけ変化が見られていた。けれどやはり、まだ自分は飛べないと思っているようだった。

インターンの受け入れに関して、学校側からの連絡は当然あった。常闇くんと彼女、誘水世ちゃんの担任だというその人は、色々ぼかしはしたものの、要約すると俺にこう言った。「水世ちゃんの“個性”は厄介だ」と。少々訳ありだそうで、彼の雰囲気からするに、水世ちゃんのインターンに賛同していない。それでも承諾したのは、生徒の意思を尊重したからか。


「年頃の女の子は難しいなあ」


思いの外、しみじみとした声が出た。多感な時期であるわけだし、きっと俺が想像している以上に根深い何かがあるのだろう。後進育成なんて柄ではないのは自分でもわかっているが、放っておこうにもふと気になってしまう。体育祭で久々に姿を見てしまったせいか、余計に。


「……あ、そういえば」


また、笑わせることができなかった。