沈黙は金と言うのだから
水世が八百万と寮のドアをくぐれば、ここぞとばかりに、まるで意地悪な姑のごとく爆豪に絡んでいる峰田の姿が見えた。爆豪が謹慎中でおとなしく掃除をしている今だからこそできることだろう。峰田の表情や声は、どこか活き活きしているようにも見えた。
「なァ、今日のマイクの授業さ……」
「まさか、おまえも……?」
「インターンの話さ、ウチとか指名なかったけど、参加できないのかな」
「やりたいよねえ」
爆豪の怒鳴り声がするなか、クラスメイトたちは今日の授業についてや、相澤から聞いたインターンについて話している。
今日の一時限目であった英語の授業では、当然のように習っていない文法が出されていたのだ。ここ最近は立て続けに様々なことがあり、皆予習を忘れていたのか躓いてしまった者が多かったようで、苦戦を強いられたようだった。授業が終わった瞬間、八百万や飯田に先の授業の内容を聞きにいく者は後を絶たなかったのだから。
「水世ちゃんは、もしインターンが可能なら、どうします?」
「職場体験よりもできることが幅広くなるって考えると、経験はしてみたいって思うかな」
職場体験はその名の通りあくまで「体験」であり、お試し期間に近い。また学校側の授業の一環である。しかしインターンは、自主的活動であり、授業に含まれない。職場体験時とは異なり、体験先のプロに守られながら、手取り足取り教えてもらいながら行うわけではない。そのため現実的に考えれば、一年生の内からインターンに参加できるかは難しいだろう。しかし、それでも機会があるのならば、と水世は思っていた。
「『たった一日ですごい置いてかれてる感』という顔だね、謹慎くん!」
振り返った水世は、ゴミを集めている緑谷と、そんな彼のそばにいる飯田を見つけた。
帰りのHRで、A組の生徒は相澤からとあることを言われた。それは、謹慎している緑谷と爆豪に授業内容等の伝達を禁じる、ということだ。
たった一日、されど一日。一日休んだだけで、必修科目の遅れはもちろんのこと、ヒーロー科特有の授業だって他の生徒と差をつけられるのだ。それが三日や四日ともなれば、新しい課題や授業内容に取り組んでいてもおかしなことではない。
実際、今日既に習っていない文法が出たり、インターンという活動について軽く話をされている。謹慎中の二人は何も知らない状態で過ごさなければならないため、さぞモヤモヤとした状態が続くだろう。
《新学期早々遅れてスタートとは、かわいそうになあ》
《思ってないくせに。でも、なんか二人には申し訳ない気もするけど……》
《自業自得だ自業自得》
ケラケラ笑っている満月の声を聞きながら、どこか焦りを感じているような顔でゴミを捨てにいく緑谷の背中を眺めた。その後ろ姿に、水世は以前必殺技の際に助けてもらったことを思い出した。担任から禁じられているためどうにもできないのだが、彼女は申し訳なさのようなものを感じ、眉を下げた。
「そういえば、水世ちゃんは今日の授業内容、わからないところなどはありませんでしたか?もしあるようでしたら、私、お役に立てるかもしれません!」
「ん?そうだね……特にはなかったかなって思うけど……」
言いながら八百万の方を見た水世は、ハッと口を止めた。どこか瞳を輝かせながら尋ねていた八百万の表情が、水世の言葉で少し落ち込んだ風なものへ変わったのだ。「そうですか……」と眉を下げる姿に、水世は視線を彷徨わせたと思うと、「あ、でも……」と言葉を続けた。
「今日の世界史で言ってた、文学とか絵画の部分、ちょっとゴチャゴチャしてるかも……」
「!でしたら、私が覚えるのをお手伝いしますわ!」
「ありがとう、助かるよ」
途端に笑顔を浮かべた八百万に安心しながら、彼女に手を引かれて共有ルームのソファーに腰掛けた。嬉々としている八百万を見ながら、水世は世界史のノートを取り出してテーブルに広げた。
「文学作品などは様々ありますから、覚えるのは大変ですものね」
「うん。自分なりにノートにまとめはしたんだけど、覚えたのかって言われるとハッキリと覚えた、とは言えなくて……」
水世のノートには、国別で分けられた文学作品や絵画、建築などが書かれていた。作品名の隣には補足の説明が足されており、黒と赤だけの色味の少ない地味なページだ。
「ダンテの『神曲』とか、シェイクスピアの『ハムレット』とか、ミケランジェロの『最後の審判』とか……有名なのは覚えてるんだけどね」
この辺りとか、まだしっかり覚えきれてなくて。水世は自身のノートを指差しながら呟いた。うんうん、と頷く八百万は少し考える素振りを見せると、パンッ!と一つ手を叩いた。
「でしたら、クイズ形式にしましょう!私が、水世ちゃんのノートに書かれている人物名か作品名を読みます」
作品名の場合は人物名を、人物名の場合は作品名を答える。そう説明した八百万に、水世はわかったと頷いた。それを見て、彼女のノートを手に取った八百万は、水世の方へと少し体を向けて、紙面をじっと見つめながら口を開いた。
「まずは、そうですね……ペトラルカ」
「イタリアの詩人、だよね。確か……叙情詩集……『カンツォニエーレ』」
「正解です!では次は、『アテナイの学堂』」
「ラファエロ。ラファエロ・サンティ」
「その通りです!」
次々に問題を出す八百万に、水世はすぐに答えたり、しばし考えて答えを出したりしながら、知識を頭の中に叩き込んでいった。
「二人で勉強?私も混ぜて〜!」
「あ、ウチもいい?」
ひょこっと顔を出した葉隠と耳郎に、水世と八百万はもちろんと頷いた。水世の隣に葉隠が、八百万の隣に耳郎が座り、先程同様に八百万がクイズを出す形で行われた。
「えっと、なんかね、ラから始まる名前なのは覚えてる!」
「そんな長い名前じゃなかったよね……ラ、ラ……」
「ラブ?」
「ラブ!ラブレー!」
「はい、正解です」
「やったー!水世ちゃんありがとう!」
ぐっと眉を寄せて――葉隠の場合は見えないが――悩むクラスメイト二人を見ながら、水世はいつの間にかヒントを与える側にまわっていた。
「そういえば、ルネサンスってどういう意味なの?」
「フランス語だよ。『再生』とか『復興』って意味」
「へえ……あれ、でもルネサンスって、イタリアから始まったって先生言ってなかった?」
「ルネサンスっていう言葉を、フランスの歴史家が初めて学問的に使ったんだよ」
十四世紀から十六世紀、日本では南北朝から関ヶ原までの頃。その時期に起きた芸術運動はルネサンス呼ばれている。当時のキリスト教や教会中心の視点を、ギリシア・ローマ時代のように人間を中心とした視点に戻そうとする文化運動である。これらの時期には、様々な文学作品が生まれた。
フランス語で「再生」や「復興」を意味するルネサンスは、イタリアから始まった運動である。その背景には地中海貿易によるイタリア諸都市の裕福化や、カトリック教会の世俗化があった。中世以来のキリスト教的価値観が、経済の発展により時代にそぐわなくなっていったのだ。
当時のイタリアでは、いくつもの自治都市に発展し、金融業が盛んになっていった。各都市の豪商や教会は、都市や教会を装飾するため、芸術家たちのパトロンとなって競いあうようになった。
人々の自らの品性を高め、人間らしい生き方を追求する「ヒューマニズム」の誕生により現実主義が広まり、中世の支配的観念であった「カトリック思想」が時代に合わなくなっていったのだ。
「文化や芸術面で影響が大きかったのは、フランスとイギリスなの。フランスはイタリア遠征でルネサンスが輸入されて、奨励されたから」
イギリスの代表的な劇作家であるシェイクスピアや、イタリアの詩人ダンテ、メディチ家の援助を受けていたイタリアの画家ボッティチェッリ、万能の巨匠と謳われたレオナルド・ダ・ヴィンチなども、ルネサンス期に活躍した人物である。自然科学においては、地動説が証明されたのもこの時期になる。
「なるほどなるほど……水世ちゃん詳しいね!」
「この頃の本とか読んだことあんの?」
「少しだけ」
「私も、シェイクスピアの作品は一通り読みましたわ」
「ロミジュリなら知ってる!」
恋愛悲劇で有名な「ロミオとジュリエット」は、舞台の題材にもなったりと、今でも人気の絶えない作品の一つである。
《女は好きだよなあ、ああいうの。障害があればある程恋は燃え上がるってか?》
つまらなそうな満月に、水世ははしゃぐ葉隠たちを見ながら、そういうものじゃないの?と心の中で首を傾げた。
ドラマや小説、漫画など、恋愛をテーマにした作品は、大概何かしらの壁が存在する。それは家庭であったり、過去の確執であったりと様々ではあるが、そういった壁を乗り越えるからこそ二人の絆が深まる、というのがお約束なのだ。確かに共通の壁を協力して乗り越えるのだから、より一層に距離が縮まるのも当然と言えば当然なのではと水世は思っている。
《満月は、あんまり恋愛モノ得意じゃないよね。嫌いなの?》
《……そうだな。嫌いだ》
《そっか。私も、嫌いとまでは言わないけど、あんまり得意じゃないや。正直、未だによくわからないし》
以前恋とはどういうものか、とクラスメイトから聞いた水世ではあるが、完璧に理解できたわけではない。それらしき感情を抱いたことはありはしたものの、しかして初恋とは、そのほとんどが憧れと同義である。実際の恋というものとはまた違う、可愛らしい子どものような感情だ。
《それでいい。わざわざわかろうとする必要があるものでもねえんだよ、恋ってのは。それに、アレは、気付いたら堕ちてるのさ》
《恋に落ちるって、よく言うもんね》
《堕ちて溺れすぎれば身を滅ぼすがな。破滅って意味を加えてもいいくらいだ》
余程それらが好きではないらしい満月を不思議に思いながらも、水世は相槌を打った。「恋とか愛で、何か嫌なことあったの?」そう聞こうかとも思ったが、尋ねたところではぐらかされるだけであることはわかっていたため、水世はその質問は心の中だけにとどめた。
《ひいさま……あの人魚は愚かだ。わざわざ王子のために死んでやる必要なんてなかった》
生まれた時から一緒にいるのに、しかしどうして、彼は私の知らないことを様々知っているかのような口振りなのだろう。そんな疑問も、彼女は口にしなかった。
「また見てるのか」
「うん。こんなこと初めて。彼は他の人間と何が違うのかな」
「何も違いなどないように思えるが」
「そうなの?でも、じゃあ、どうしてこんなに、ワタシは彼の絵に……彼に、夢中になってるんだろう……あなたは、わかる?」
「さあ?どうだろう」
「そっか。どうしたら、この謎が解けると思う?」
「ワタシにはわかりそうもない」
「……なら、ねえ。もしワタシが彼のところに行ったなら、この不思議な感覚も、わかるようになるのかな?」