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俺が太陽でいられる理由


俺は昔から、恐れを知らないタチだった。だからなのだろうか。俺は水世ちゃんに対して、周りの人たちみたく悪い印象は抱いていなかった。

初めて出会ったのは、八歳のとき。公園で倒れていた水世ちゃんを家に連れて帰ったのがきっかけ。彼女の家を知らない自分は、傷だらけ痣だらけで倒れていた彼女をすぐさま自分の家に運んだ。出迎えてくれた母親は、俺が抱えていた水世ちゃんを見るなりギョッとして、すぐに手当てをしてくれた。

けれど、手当てをしている最中に、彼女の傷は少しずつ治ってきていた。別段驚くこともなく、そういう“個性”なのだろうと、目を覚まさない彼女を見つめていた。しかし母の方は、何故だか少し難しい顔をしていた。

俺の部屋に寝かせていた彼女が目を覚ましたのは、連れ帰って一時間ほど経った頃だった。あらわになった金色が俺を捉えると、彼女はひどく驚いたように目を丸くして、すぐに怯えた顔を浮かべた。その時の自分には彼女の表情の理由はわからず、急いで母を呼びに行ったのを覚えている。

水世ちゃんは始終、顔色が悪かった。母がもう少し休んでいったらどうだと提案したが、彼女は控えめに笑って首を横に振ると、すぐに俺の家を出ていった。


「……ありがとう、ございます」


小さな声で、怯えた目を浮かべながらもお礼をこぼした水世ちゃんは、逃げるように玄関を出ていった。彼女を見送った後も、母はやはり難しそうな顔をしており、その表情のままに俺を見た。


「イナサ。周りの言葉に流されちゃダメだよ。自分で見たものを信じるんだよ。簡単に誰かを傷つけるような、そんな男になるんじゃないよ」


真剣な瞳で、声で、母は言った。突然の言葉の真意を読み取れなかったが、俺が大きく頷くと、母は「なら、よし!」とにっかり笑った。

その日からだろう。俺が水世ちゃんを気にかけるようになったのは。彼女は同じ小学校で、けれどクラスは別々だった。登校中に見かけた彼女に意気揚々と声をかければ、水世ちゃんは心底驚いたような顔をしていたのを、今でも覚えている。

最初はとても警戒されていた。視線は合わないし、彼女は俯きがちで、よそよそしい態度ばかりで。けれど凝りずに声をかけ続けて、学校の行き帰りなんかも半ば無理矢理に隣を歩き続けた。その度に周りには、変なものを見る目を向けられていた。


「私と、あんまり一緒にいない方がいいよ」


そんなことを二週間ほど続けて、初めて彼女から言葉をかけられた。その頃には、俺はどうして水世ちゃんがいつも一人なのかも、彼女と接するたびに向けられた視線の意味にも気付いていた。

危ない“個性”を持った子がいる、というのは聞いていた。その子は学校でも、近所の人たちにも嫌われていた。それが、水世ちゃんだったのだ。俺は彼女が“個性”を使っているところは見たことがないが、周囲が言うには同級生が殺されかけたらしい。


「なんで?」

「だって、私と一緒にいたら、危ないよ」

「水世ちゃんは危なくないっス」


ぱちり。瞬いた瞳が、心底不思議そうに俺を見た。俺より少し高い位置にある顔は、信じられないものを見るような目をしていた。

どうして、危ないのだろう。水世ちゃんは自分から誰かを傷つけにいってもいないし、誰かを悪く言ってもいないのに。そんな彼女よりも、簡単に誰かを除け者にする周囲の方が、俺はよっぽど悪い人たちに見えた。

驚いて固まってしまっていた水世ちゃんの顔が、不意に綻んだ。小さく、控えめに、けれど無理のない笑い方だった。それはひどく嬉しそうで、泣きそうでもあったような気がする。それからだろう。水世ちゃんは少しずつ、俺に心を開いてくれるようになった。

我慢強くて、遠慮がちで、優しくて、笑顔がかわいい水世ちゃん。俺は気に入ったものはなんでもお気に入りにしてしまうタチだったから。俺は彼女を、守ってあげなくてはとぼんやり感じていた。

そんな俺だが、一度だけ。たった一度だけ、彼女を怖いと思ったことがあった。あれは小学校四年生の時だ。水世ちゃんが近くの中学校の制服を着た男に、バットで暴行を受けていた。すぐに助けに入ろうと俺が思った時のこと。水世ちゃんの“個性”が、暴発した。

彼女のそばに展開された魔法陣から飛び出た真っ黒な鎖が、男の腕を掴んで締めあげていく。嫌な音が聞こえた時には、既に彼の腕は変な方向へ曲がってしまっていた。そうして座り込んでいる水世ちゃんの真下の影が、どんどん肥大していった。

地面に倒れたままもがく彼の方へと、真っ黒な腕が伸びていく。見れば水世ちゃんのそばには大きな黒い腕が二本伸びて揺れており、影がミズセちゃんを覆い隠すように、ゆっくりと、じわじわと、彼女の周囲に球体の壁が形成されようとしていた。

男の方へ伸びていた一本の腕が、折れたバットの上の部分を持ち上げる。男をバットで殴ろうとしている。すぐにそれが理解できた。止めなくては。そう思うのに、足は動かない。男は腰を抜かして痛みに喚きながら、自身の方へ近付いてくる真っ黒な手に怯え切り、顔の色を失っている。

ああも簡単に、彼女の“個性”は人に恐怖を与えるのか。その事実に、見ているだけの俺も恐れを覚えた。ここから一歩でも動こうものなら、即座に命を刈り取られるのではないかとさえ思えた。俺は、何故周囲が彼女を虐げるのか、その気持ちを、理解してしまった。


「やめて……やめて……お願いだから……もう、これ以上は、傷つけないで……!」


祈るような苦しげな声に、脳が冷静になった。水世ちゃんの方を見れば、彼女は出会った時以上に顔色を悪くして、体を震わせて、歯をガチガチと鳴らしながら、恐怖に支配されていた。

黒い腕は、そんな彼女の言葉に反応するように動きを止めた。それと同時に気を失った水世ちゃんが、地面に倒れる。影のような何かも、一瞬で雲散した。バットが地面に落ちた音で我に返ったのだろう、男は大慌てでその場から逃げていった。

俺はあの日と同じように、水世ちゃんを家に連れ帰って、また自身のベッドに寝かせてあげた。眠っている時も彼女の顔色は優れないままで、苦しそうに眉を寄せながら、まるで魘されているかのようだった。

水世ちゃんが目を覚ました時には、バットで殴られてできた痣はとっくに治っていた。ゆっくりと瞼を開けたと思うと、勢いよく上体を起こした彼女は、困惑したように辺りを見回していた。そしてそばにいた俺を視界に映すと、少しだけ、安堵したように体の力を抜いた。


「ごめん」


そんな彼女の様子を見て、俺は半ば衝動的に床に正座した状態で両手をつき、頭を下げた。所謂土下座というものだ。突然に謝罪した俺に、水世ちゃんは困ったような声音で「えっ、と……どうしたの?」と尋ねた。水世ちゃんは、自分が倒れる前の状況を俺が見ていたなんて知らないから、困惑するのも当然の反応だろう。


「俺、見てた。水世ちゃんが、殴られてるの。でも、救けにいけなかった」


頭上で息を呑む音が聞こえた。


「水世ちゃんのこと、怖いって思ってしまった」


ただ“そこにいる”だけで、命の危機を感じさせる。それは、平和の象徴と謳われるあのヒーローとは真逆のオーラと存在感。しかしそれだけの脅威が、危険性が、確かにあの時の彼女にはあったのだ。

だが、それらは全部彼女自身が意図しているわけではない。水世ちゃんが望んでそうしているわけではない。あの時誰よりも水世ちゃんに恐怖を抱いていたのは、紛れもなく水世ちゃん自身だ。水世ちゃんが、一番恐怖と戦っていた。彼女は誰かを、傷つけたくて傷つけているわけじゃない。抑えきれない自身の力に怯えながら、周囲に虐げられながら、必死になって日々を過ごしている。それに気付いた途端、自分の不甲斐なさに俺は怒りさえ覚えた。


「だから、ごめん」


きっと言わなければ、水世ちゃんは俺が見てたことも、俺が恐怖を感じたことも、知ることはなかったのだと思う。けれど、それではダメだと思った。彼女が心優しいことを知っているのに、彼女が理由もなく人を傷つけたりしないと知っているのに。俺はあの時、彼女に恐怖を感じた。それどころか、彼女を見捨てようとした。水世ちゃんが虐げられることに、一瞬でも納得してしまった。

それは、水世ちゃんへの裏切りにも等しいだろう。せっかく心を開いてくれたのに。せっかく、笑顔を見せてくれるようになったのに。俺はそれを、自ら捨てようとしていた。俺が熱狂し、夢見て憧れたヒーローという存在とはかけ離れたことを、俺はしようとしていた。

「簡単に誰かを傷つけるような男になるな」という母との約束を、破ろうとしていた。


「……顔上げてよ、イナサくん」


ずっと黙っていた水世ちゃんが、小さな声で呟いた。俺が不安を抱えながらも顔を上げると、彼女は困ったように笑っていた。


「謝る必要、なかったのに。言わなかったら、私、気付かなかったよ」

「……うん。でも、それじゃあ水世ちゃんに、失礼だと思った」


目をぱちぱちと瞬かせた水世ちゃんは、俺の方を見つめながら、また笑った。その表情はやはり困っているようだったが、けれど嬉しそうなものにも見えた。


「イナサくんは、太陽だね」


まっすぐで、素直で、優しくて。私なんかのことも照らしてくれる。そう続けると、水世ちゃんはふにゃりと笑った。


「イナサくんは、私の太陽で、私のヒーローだよ」


照れたような笑顔で、彼女はそう言った。言ってくれた。一瞬でも見捨てようとしてしまった俺を、水世ちゃんはヒーローだと言ってくれた。そうして己の“個性”についても明け透けに話してくれた。そんな彼女に恥じないようにしようと、裏切らないようにしようと、そう思ったのに。


「イナサくん、大丈夫?目眩とかない?痛いところは?」


今にも泣き出してしまいそうな顔で俺の前に座り込んでいる彼女は、先程まで果敢に敵に向かっていった姿が嘘みたいで。


「何してるの!!」


切羽詰まったように声を張り上げた水世ちゃんの言葉に、ガツンと頭を殴られたような感覚だった。

何を、していたんだろうか。何を、しようと思っていたのだろうか。目の前の敵に向かっているようで、その実意識はまったく別の方へと向けて。周囲の状況なんてまるで見えていなかった。自分の感情ばかりが先行して、ヒーローである自覚など見えなくなっていて。なんてザマだろうか。

自分を心配してくれている彼女の顔を見ることができず、視線を落とす。そんな俺の手を、水世ちゃんは恐る恐る握って、おつかれさまと小さな声でこぼした。


「……轟くんね、ちょっとずつ、変わろうとしてるよ」


俺のことを忘れていたのに?そんな言葉を吐いてしまいそうになって、自己嫌悪する。彼女は俺と違って、それなりに彼のことを見てきている。見えている。そんな水世ちゃんが言うのだから、実際そうなんだろう。それに、確かに、入試の時に比べると、雰囲気はいくらか柔らかくはなっていた。


「嫌っててもいいから、それは、認めてあげてほしい」


好きになってほしいと言わないところが、水世ちゃんの優しさだろう。周りからしてみれば、本当に些細なことで。それでも俺にとっては大きなことで。俺はエンデヴァーと、その息子である彼に嫌悪感を示した。水世ちゃんもそれを知っている。知っているから、嫌っててもいいと言ってくれたのだろう。

俺よりもずっと小さくて、細い手のひらを、そっと握り返す。しかしまだ麻痺が抜け切っていない体では難しく、指先だけを軽く曲げることしかできなかった。


「ごめん……水世ちゃん」

「……うん」


轟くんにも、謝ろうね。水世ちゃんの言葉に、小さく頷いた。ああ、失望されただろうか。嫌われただろうか。そんな気持ちが僅かに顔を出す。


「イナサくんは、ずっと私の太陽で、ヒーローだよ」


俺の心を読んだかのように、彼女は言った。照れたような笑顔だった。

今でも俺らが住んでいたあの場所は、水世ちゃんには冷たい。彼女の両親が死んだ後の頃から“個性”を抑える手段を得て、それから暴走はしていないが、しかしやはり、ずっと遠巻きに見られている。彼らは報復を恐れているのだ。彼女は、そんな子ではないというのに。


「……水世ちゃんは、空だね」


水世ちゃんは、意外と表情が変わる。晴れたり、雨が降ったり、曇ったりと姿を変える空模様のように。それに抜けるような澄み切った空と同じくらい、綺麗な心を持っていて。

なにより、空があるから、太陽はそこに在れるのだから。

我慢強くて、遠慮がちで、優しくて、笑顔がかわいい水世ちゃん。それは変わっていないけれど、でも、少しずつ前を向こうとしていて。少しずつ、強くなろうとしていて。あの頃は彼女を守ってあげなくてはと感じていたけれど、もうそれも必要なくなってきているのだろうか。それはなんだか、少し寂しい。