※LOVE、はじめましたの続き。未読でも大丈夫です 小さな町の寂れた駅、改札前の銀色に夕日が反射してきらきらと輝いている。 町に一つしかないこの駅は多くの学生が利用していて、今も真新しい制服に身を包んだ下校途中の学生が改札前で向き合う俺たちを不審気に見ながら改札を抜けていく。 まだ大きいその制服を見て、あの時先輩の瞳に映る俺はあんなんだったのだろうかと笑みを零した。 「ひぃ君」 「なんですか?」 「寂しい?」 ざわめく駅をふわりと駆け抜けた風はまだ冷たいが、それでも幾分か暖かい。 「寂しくなんかありません」 「俺は、少し寂しいな」 「じゃあ俺もほんの少し」 「ひでぇ」 きゅっと手を握って俺の瞳を覗き込む先輩の顔は捨てられた子犬のようで、ふわふわと揺れる髪を撫でようと手を伸ばしたところで電車の到着を告げるベルが鳴った。 「ほら、もう電車来ますよ」 「ひぃ君。俺、電話もメールもするからさ…忘れないでね?浮気もしちゃ駄目だから。したらお仕置き」 「分かったつーの!たかだか東京でしょう?俺も来年はそっちに行きますから」 「じゃあ、その時は一緒に暮らそう」 そう言って笑った先輩に俺はちゃんと笑えていただろうか。 指先まで名残惜しげに握りながら離れていった手を、俺はじっと見つめた。 先輩が離れていく。 先輩が、いなくなる。 きゅっと唇を噛んで涙を堪えてみてもそれは無情にも目尻から溢れ頬を伝った。 「必ず、必ず迎えに行くから」 「………」 「だから、」 振り向いた先輩の唇が掠めるように、ほんの少しだけ触れて直ぐに離れた。 「いいこで待ってて」 耳元に囁かれた声音が震えていたのはきっと気のせいじゃない筈だ。 * 先輩の最後の言葉が脳内に木霊する。 「また、あの夢か」 朝日が差し込むベッドの上で反射する銀色を思い出す。 初めて先輩の部屋に泊まった日の朝、キラキラ輝く髪を梳く俺に先輩は少し照れくさそうに笑っていた。あれから何度も通ったあの部屋は今は空き部屋で誰も住んでいない。 もう忘れなければと思うのに。 * あの別れから二年が経った。 電話をすれば通じない、手紙を書いても返事がない二年間。 高校を卒業した俺は東京の大学には進まずに地元にある私大に進学した。 馬鹿らしいことくらい分かっている。 それでも俺は未だに先輩の言葉が忘れられなくて、この小さな町であの人の帰りを待っている。 先輩がいてもいなくても時は流れ、俺は相変わらず大学に通いながらバイトをする日々を送っていた。 駅前にあった先輩が大好きだったケーキ屋は主人が亡くなったとかで閉まってしまった。 そのケーキ屋の目の前から並木道に続く横断歩道。青になると通りゃんせが流れるその横断歩道は毎日先輩と肩を並べて歩いた俺の通学路だ。 そして今も変わらず横断歩道から通りゃんせが流れる。 あの少しだけ気味の悪いメロディーをなるべく聞かないように、携帯片手に足早に横断歩道を渡りきろうとした。 「見つけた」 通りゃんせが鳴り終わる、信号が点滅する。 しかしそのどれもが夢のようにゆっくりとしたスピードで流れていて、風に靡く銀色と手首の熱だけがリアルだった。 「せ、んぱい…?」 「ただいま、ひぃ君」 「なんで……」 ここにいるんですか、と続ける筈だった俺の言葉は車のクラクションによってかき消された。 気付けば通りゃんせは鳴り止み、信号は赤に変わっている。横断歩道の端と端で信号が変わるのを待っている人たちが不思議そうに俺たちを見ていた。 「来て、」 そう言って掴んだ手首はそのままに先輩が駆け出す。 しかしそれは俺が今来たケーキ屋の方向で、電車に乗るのかとか、先輩の大好きだったケーキ屋は無くなっちまうんだとか。 今までどこにいたんだとか。 聞きたいことは山程有った筈なのに、そのどれもが喉の奥で引っかかって言葉にならない。 「先輩?」 横断歩道を渡りきり、周りの不躾な視線を物ともしない先輩はくるりと振り返った。 「ここ、俺の店になるんだ」 「……は?」 そう言って先輩が指差したのはあのケーキ屋で、俺は訳が分からずに首を傾げた。 「取り敢えず中入ろっか?」 「あ、はい…」 先輩はポケットから絵本に出てきそうな可愛らしい鍵を取り出すと扉を開けて俺を招き入れた。 カランコロンと来客を告げるベルが鳴り響く。 木製の店、と言うよりは小屋と言った方が正しい気がする建物の中にはケーキを入れるガラスケースと小さなテーブルと椅子のセットが四つ。全て前の店のまま置かれていた。 「ひぃ君、俺が母子家庭ってことは知ってるよね?」 「?…はい、確か都内の病院に入院してるとかって言ってましたよね」 「母さんさ、二年前に死んだんだ」 苦笑か或いは嘲笑か、どちらか分からないがとにかく笑いを含んだ声音に俺は黙って顔を上げる。 しかし予想に反して先輩は苦笑も嘲笑もしていなくて、ただ真っ直ぐと前を見据えていた。 そして俺の方を向くとあの頃と変わらない、とろけそうな顔で笑って俺の頬を撫でた。 「本当はさ、ひぃ君のことも紹介するつもりだったんだよ?」 「なんて?」 「俺が世界で二番目に愛してる、最愛の恋人です、って」 「俺は、俺はまだ……先輩の恋人、ですか?」 少しだけ上にある顔を見上げれば頬を抓られて僅かな痛みに眉を顰める。 そんな俺に先輩は寂しそうに笑いながら口を開いた。 「俺が世界で一番大事にしたかった人は居なくなっちゃった」 「今は、俺が一番ですか?」 「なーに?ひぃ君ってば母さんにヤキモチ?」 「……別に。先輩ってマザコンだったんですね」 実際先輩と付き合っていた一年の中で先輩の口から母親の話を聞いたのはほんの数回だけだったと思う。 先輩がマザコンだからといって嫌いになるとか軽蔑するというのは全くないが、そんな先輩を知らない自分に腹が立った。 「ふふ、そうかも。たった一人の家族、だったからね」 「………」 「あのさ、ひぃ君」 真っ直ぐ見つめる瞳を俺も真っ直ぐに見返せば吸い込まれそうな紅が少しだけ揺れた気がした。 「俺の、家族になってよ」 きゅっと抱き締められた身体からは甘い砂糖菓子の匂いがした。 「二年間も音沙汰なく放っておいた癖に…?」 「留学してたんだ。パティシエになるために」 驚いて顔を上げると照れたように笑う先輩の顔が間近に迫る。 前髪が少しだけ伸びただろうか、他はあの頃と何も変わっちゃいない。 「ほんとはさ、東京に出てすぐ……母さんが死んだ時、俺こっちに帰ってきたんだ」 「え?」 「ここの親父とは仲良かったから電車降りてすぐにここに向かった。その時に親父がもう長くないって話を聞いたんだ」 「そうなのか…」 「俺、ここの親父には本当に良くして貰ってさ…家族がいない俺にとってここは特別な場所だった。だから俺がこの店引き継いでやるって言ってそのまま東京にとんぼ返り」 先輩は苦笑しながらごめんね、と首を傾げた。 「ひぃ君に会っちゃったら決意が鈍りそうだったから。勿論まだまだ半人前で親父のケーキには程遠いかもしれないけど、資格も取った。それと…」 先輩はポケットに突っ込んだ手をごそごそと動かし、中から少し潰れた小さな箱を取り出した。 「ごめん、少し潰れちゃったんだけど…。所謂給料三ヶ月分、です」 「…………」 「うそうそ、そんな大したもんじゃないんだけど……あの、なんか言ってくんない?俺すげー恥ずかしいんだけど!」 先輩は四方に跳ねるふわふわの髪をボリボリと掻き毟り赤く染まった顔で俯いた。 「俺、男ですよ?」 「知ってる」 「家事とか全く出来ないし」 「ちょっとずつ覚えてけばいいよ」 「…小遣いは月三万にしますよ?」 「う、頑張る」 「……俺で、いいんですか?」 俯き先輩の服の裾を掴めば両頬を甘い匂いのする温かい掌に包み込まれる。 反射的に上を向くと前髪を掻き分けて額に唇が降ってきた。 「ひぃ君がいいんです」 額を合わせ至近距離で瞳を覗き込まれる。 吸い込まれそうな紅は慈愛に満ちていて、目尻から雫が落ちていくのが分かった。 先輩は俺の涙を指で掬うと箱から銀色の輪っかを取り出した。 「手、出して」 「…ん」 「違うでしょ、反対」 利き手を出した俺に先輩は苦笑して左手を取ると薬指に銀色を填めた。 「ピッタリ」 「…先輩は?」 「俺は指には填められないからこっち」 そう言って先輩が見せてくれたネックレスには俺と同じ銀色がぶら下がっている。 「次はもっといいの買ってあげるから、もすこし待ってね?」 「これでいいです……これが、いい」 自分の指に填まった銀色を撫でれば体温で少し温かくなっていた。 「綺麗になったね」 「それ男に言う台詞じゃないですよ」 「でも、本当にきれいになった。横断歩道ですれ違った時、今捕まえとかないと他の誰かに取られちゃうかと思ったもん」 「……じゃあ、ちゃんと捕まえてて下さい」 急激に顔が熱くなり、そんな顔を見られたくなくて俺は先輩にぎゅっと抱きつき肩に顔を埋めた。 「心配しなくても一生離してあげないから、覚悟して?」 強引に奪われた唇に幸せを噛みしめて、俺は目を閉じた。 〜五年後〜 「いらっしゃいませ、二名様ですか?」 「あ、はい…!」 カランコロンと来客を告げる音と共に聞こえた愛する奥さんの声にガラス越しに扉の方を盗み見る。 「店内でお召し上がりですか?」 大人しそうな高校生の女の子二人が出迎えたひぃ君に目をハートにさせて口を開けている。間抜けな顔だ。 そう言った類の視線に慣れているひぃ君は微笑みながら返事を待っている。 営業用とは言え、あんな顔俺には絶対な見せない癖に。 「こちらへどうぞ」 ブンブンと顔を振る女の子二人に、ひぃ君はやっぱり優しげに微笑み席へと案内した。 あんな紳士な態度を取っているが俺の前では正に鬼嫁そのものだ。 しかしこの小さな店をやりくりしてくれているのも事実なので文句はない。というか言えない。 「ガトーショコラとショートケーキ。あとアッサムのミルクティー淹れるからポット取ってくれ」 注文を取ってきたひぃ君は女子高生の為に紅茶を淹れる準備をする。 俺がケーキやお菓子を作り、ひぃ君は紅茶や珈琲を淹れる。五年の間に自然と決まった役割分担だ。 葉っぱや豆、淹れ方に拘った紅茶と珈琲は若い子には勿論買い物帰りのおば様から頗る評判がいい。 何しろあの顔だからひぃ君目当ての女性客が非常に多いのだ。俺のなのに。 店としてはありがたいことだか俺個人としては複雑な気持ちだったりする。だって俺のなのに。 そんなことを考えながらいつまでもティーポットを取らない俺の臑にひぃ君の蹴りがお見舞いされた。 「…っ…い…!?」 「聞・い・て・ん・の・か?」 わざわざ一文字ずつ区切るひぃ君を臑をさすりながら涙目で見上げれば、ひぃ君はふんと鼻を慣らして棚の上にあるティーポットを取った。 「…ひぃ君」 「なんだ」 この五年でひぃ君は敬語を使わなくなった。ついでに俺のことを銀時と呼ぶようになった。 初めは感動したもんだが、今となってはあの頃が少し懐かしい気もする。 「……ひぃ君」 「だからなんだ……んんっ…!?」 俺のことなど見向きもしないひぃ君の腕を掴み、強引に唇を合わせ舌を滑り込ませる。 ガタンと鳴った音にチラリとテーブルを見やれば先程の女子高生が赤い顔をして驚いたようにこっちを見ていて、俺は優越感に目を細めた。 女子高生はそんな俺の視線に揃って俯いてしまう。 「ひぃ君、お前は俺のだってこと…忘れちゃだめだよ?」 「…っ…しね…!」 「まあ可愛くない。はい、ガトーショコラとショートケーキ」 真っ赤な顔をして手の甲で唇を抑えるひぃ君の膝は今にも折れてしまいそうだ。 前言撤回、俺の奥さんは今も最高に可愛い。 「テメェで持ってけ!」 それは暗に持っていけないから代わりに行けと言っているようなもので、俺はほくそ笑みながら顔同様真っ赤に染まった耳にそっと息を吹き込んだ。 「…っ…ひぅ…!」 「おかえし」 がくりと折れた膝に、先程蹴られた臑を見せつければひぃ君は潤んだ瞳でキッと俺を見上げた。 俺はそれに微笑みかけてガトーショコラとショートケーキを持って女子高生のテーブルに向かう。 「お待たせしました。ガトーショコラとショートケーキです」 「あ、あああありがとうございます」 「アッサムのミルクティーはもう少々お待ちいただいても宜しいですか?」 「はい!もちろん!」 「申し訳ありません。うちの奥さん、今腰砕け真っ最中なもので」 「……ぎ、ぎぎぎ…銀時ィィィ!テメェぶっ殺す!」 「あ、復活したようです」 真っ赤な顔のままもの凄い勢いで走ってきて俺に掴み掛かるひぃ君に女子高生はやっぱり口を開いたままポカンとしている。 しかしすぐに顔を合わせてくすりと笑みを零し、胸ぐらを掴まれ揺さぶられる俺を見上げた。 「可愛い、奥さんですね」 苦笑混じりに言われた言葉に今度はひぃ君が口を開けて呆然としている。 「はい!世界一可愛くて凶暴な自慢の奥さんです!」 女子高生が声を上げて笑った。 (いらっしゃいませ。笑顔と幸福に満ち溢れた、うんと幸せな日々に) end |