中野先生が傷ついて帰って来られた。


小林先生に肩を担がれた中野先生は、全身から噎せ返るほどの洋墨の匂いが漂っていた。大丈夫だよ、とわたしを安心させるためか無理に笑っている彼を見るのがつらかった。これはわたしが、わたしの特務司書としての甘さが招いた結果だ。その為に中野先生は。そう考えずにはいられなかった。



森先生曰く中野先生は耗弱していたらしい。耗弱。そんな状態になるまで、わたしは彼を戦わせていたのか。罪悪感で自分が消えてしまいそうになる。中野先生が寝ていらっしゃるベッドの横にある簡易椅子に座る。

「ぅ、……ぁ、」
「っ、」

苦しそうだ。手、少しだけなら握ってもいい、だろうか。どきどきしながら中野先生の手に触れる。意外と骨張っている手に余計どきどきしてしまう。指、長い、な。

「重治さん」

もうほとんど、消え入るような、掠れた声で名前を呼んだ。どうしよう。は、はじめて中野先生を下の名前で呼んでしまった。途端全身から火がついたように火照り始める。は、……、恥ずかしい……。

「……苗字、さん?」

ぎゃあと短い悲鳴を上げ慌てて繋いだ手を離す。さ、さっきの……、名前呼んだの、聞かれていた、だろうか。なんだかさっきとは違う意味でどきどきしてきた。

「そんなに驚かなくても」

困ったように笑う中野先生にまだ鼓動が止まらない。ま、まずい。申し訳ないことをしてしまった。ごめんなさいと謝るとまた困った顔をして笑う。

「ごめんね。少し、失敗しちゃって」
「だ、……大丈夫、なんです、か?」

ばか。大丈夫なわけないだろ。それでも中野先生は優しく「うん」と頷く。「大丈夫だよ」と笑う。ばか。ばか。大丈夫なわけない。中野先生の今の状態の、一体全体どこが大丈夫なものか。なんてひどいやつだ。なんてだめなやつだ。何も言えずにいると沈黙か流れた。会話、会話しなきゃ。何か、会話。「僕はね」中野先生が口を開いた。

「僕はね、あの時裏切った人たちのことを、たまに考えるんだ」

あの時裏切った人たち。がんと頭の中が一瞬で白くなる。次にふ、と脳裏をよぎったのは『「それでもやはり、書いて行きたいと思います。」』だった。何故それだったのかはわからない。違う、ほんとうはわかってる。「それで思うんだ」中野先生は言葉を続ける。

「僕の書いた文学なんて、なくなってしまっても、構わないのかもしれない」

ぎゅう、とシーツを握る中野先生に「そんなこと」と口を開いてしまった。一度口を開いてしまったからには言葉を続けなくてはならない。その会話の相手が中野先生相手なら、特にだ。現に彼は今、どういうことだとわたしを目で促している。
うまく、言えるだろうか。自分が思っていることを。考えていることを。語弊なく、きっちりと、自分の言葉で。わからない。不安で仕方がない。もしかしたらうまく伝わらないかも。でも言わなきゃ。わたしの気持ちをわたし以外に言ってくれる人なんていないのだから。

「わた、……、わたし、わたしは、あのとき、中野先生が書いてくれてよか、よかった、って、おも、……って、ます。筆、を捨てないで、いてくれて、よかったって。だから、だから……」

あ、どうしよう。なんか、なんか。涙、出てきた。視界がじんわり滲む。中野先生、きっとびっくりしてるんだろうな。そりゃ、とっくに成人した、女子が突然泣いたら誰でもびっくりするか。服の袖で涙を拭いて言葉を続ける。

「自分の、……あなたが書いた文学がなくなればいい、なんて、そんなかなしいこと、言わないでください」

全部言葉にしてしまうと恥ずかしいことに子どもみたいにわんわん声をあげて泣いてしまった。やだな、中野先生の前でこんな姿。恥ずかしい。でも言えた。ちゃんと言えた。わたしの言葉で、わたしの気持ちを、中野先生に伝えられた。

「……まさか、君にそんなことを言われるなんて思ってなかったよ」
「中野せんせ、」

涙で視界がぐしゃぐしゃだ。きっと化粧も落ちてる。ひどい顔をしているんだろう。中野先生は、涙でよく見えないけど、きっと今困ったように笑っているんだろうと思う。服の袖で涙を拭う。

「ありがとう」

中野先生の手がわたしの頭に乗せられた。「うれしいよ」と微笑んでくれた。ひええ……、わたし死んでしまうかもしれない……。でも、と中野先生はやっぱり困ったように笑った。

「でも、重治さん呼びはむず痒いね」
「……」

やっぱり聞かれていたんですね?!!


20180115.