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眼前に聳え立つ巨大な城に向かい、私は走った。ひたすらに走った。幾度も転んだ。膝がすりむけ、血がにじむ。それでも足を止めるわけにはいかなかった。
私の体のどこにこんな体力があるのか解らなかったが、まるで何かに守られているように足が動く。
空を見上げると、この暗雲は、あの城を中心に浮かんでいるのが解った。
まだ――信じたくなんて、ない。
あの兄様が、世界をこんな風にするなんて。私の大切な人を、こんな危険な目にあわせるなんて。
城門が目の前に見えた時、ふっと黒い蝶が過った。その姿はまるで、私を導くように城内へと進んでいった。
誘われるがまま、私は門の中へ足を進めた。場内は荒廃してはいるものの、それでも荘厳な雰囲気を保っている。階段にはベルベットの赤絨毯が敷かれ、三又の蝋燭が仄暗く廊下を照らし出していた。ぎし、ぎし、と小さな軋みを立てて、私は進む。階段を上り、廊下を歩く。蝶は一つの扉の前で立ち消えた。
ぎいい、と、耳に痛い音を立て、扉がゆっくりと開いた。
「兄、様……」
謁見の間のようなそこの、一番奥。
大きく豪華な椅子に、彼は座っていた。
肘置へ頬杖をついて、長い脚を組み。彼は口元に微笑みすらも浮かべていた。
「イリス、よく来たね」
「兄様、どうして……どうしてこんなこと、」
ふ、と、先程の蝶が兄様の後ろで揺らめいた。
「もういいだろう」
兄様の声が合図だったように、蝶が影へと姿を変える。そして、ゆっくり、ゆっくりと形が出来る。
白磁のような無機質な肌。辿り着く場所のない闇色の瞳。すべらかなビロウドの黒髪。
私はこの人を知っている。
「吟遊詩人の、お兄さん……!」
「は。久しぶりだな、女」
深く落ちるようなその声が、何処から聞こえてきているのか解らない。
如何して、彼が、ここに。
「俺の名前を教えてやろう。シェード、だ」
「シェー、ド……、闇の精霊……!」
勇者の村で聞いた、世界を貶めた闇の精霊。なぜ、そんな恐ろしいものが、兄様と――
「イリス。座るといい」
兄様が微笑むと、私の後ろに椅子が現れる。魔法、なのだろう、か。
私は兄様を睨み付けながら、その椅子へ座った。
「教えてください、兄様。こんなこと、どうして!」
「いいよ。教えてあげよう」
くす、くす、と、兄様は笑う。
「この世界は汚れているんだよ、イリス。だから、掃除をしなくちゃあならないんだ」
「そう、じ……」
「そう。僕の両親はね、最低な人間だった。父は酒におぼれて事故死、母は男遊びが激しくて、父の死後捨てられて孤児院で育った。孤児院にもそう長くは居られない。ミッテツェントルムの教会のシスターに誘われ精霊教会に移ることになってからは、シスターを母と慕っていたけれど、シスターは信者から集めた布施を流用していたんだよ。精霊に仕える筈の彼女が、自分の私腹を肥やすためにね」
妹や弟の笑顔がフラッシュバックする。あの日の花束も。焼ける匂いも。私は弾かれるように椅子から立ち上がった。
兄様は歌うように半生を語る。衝撃的な内容とは裏腹に、兄様の表情に陰りは無い。
背中が粟立った。
「――まさか、教会を燃やしたの、は……」
「僕だよ。サラマンダーにやらせたんだ。フレイム君が来た時には少しひやりとしたけど、まあ、結果的には成功したからよしとした」
「――精霊の四人を、利用、したの……」
兄様は少し驚いた様に首を傾げたが、すぐにまたふふと笑う。
「そうだよ。彼らはね、みんな力を欲しがっていた。フェンリルは肥大するウンディーネの力を抑えるため。サラマンダーはフレイム君への嫉妬。ジンは人間への憎しみ。エントは――ふふ。恋心だったのだろうね」
「恋……」
私の脳裏に、森でのエントさんが浮かんだ。好きだと言ってくれたから。この森が、好きだと言ってくれたから。それは兄様の事だったのだ。
「エントさんは、兄様の事、きっと本当に好きだった、のよ……」
「それが何? 僕は彼女を道具以上の目で見た事は無かったよ」
兄様は動けない私のもとへ歩み寄った。
優しい兄様の匂いがする。でも、兄様は。兄様は、世界を裏切った。
「どうして……どうしてそんな酷い事……」
「人間は愚かなんだ。どんなに聖人君子に見えても、心の中は汚く穢れている。だから、一度すべてを無くすべきなんだ。そのためには手段は選ばない」
兄様の指が、私の頬に触れた。顎を掴まれ、視線がかち合う。シェードと同じ、濃闇の瞳に私が映りこんでいた。
「イリス、おいで。君だけは、連れて行きたい」

「――好きなんだ」

耳元で、悪魔の囁きがした。
「わた、わたしは……」
兄様の事。
薄れそうになる意識の奥で、誰かが呼んでいた。

『イリス、死ぬなよ』

太陽のような笑顔。いつだって変わらない手のぬくもり。
世界で一番好きな人。
私は首を振っていた。
「――兄様とは、行けない……」
「イリス……」
「だって私は、この世界が好きだから!」
出会った人たち。一緒に戦った仲間。辛い事だって悲しい事だってある世界だけれど、でもその中で人間は、いや、生き物は、みんな一生懸命生きていたじゃないか。
「みんなの命を奪う権利なんて、誰にもないわ!」
兄様は心の底から悲しそうな顔をした。そして小さく溜息を吐くと、ふわりと体を浮かせる。シェードのもとへ戻ると、兄様は彼を振り返った。
「もういいだろう、サイ。この女一人に拘る事は無い」
「ああ。そうだな……」
兄様は頷くと、私を見た。そこにはもう悲しみなど、何処にもなかった。
「残念だよイリス。なら君にはここで死んでもらうしかないな」
兄様は、細い腕を私に伸ばす。そこからは黒い球が生まれ、どんどん大きくなっていく。
「さようなら」
その言葉と同時に、私に向けてそれは飛んできた。
死ぬなら、せめて。言えばよかった。
私は強く目を閉じた。
「貴女は私が守ります」
「――え?」
聞いたことのある、凛と光る声。私は目を開けた。
大精霊様からもらった、ナイフ、剣、ペンダント、ブレスレットが光っている。そして、私の周りに張られた金色の結界は、右手にはめた指輪から放たれていた。
すうっとそれが消え、かわりに光が収束していく。
それは次第に人の形を成していった。
七色に輝く長い髪は風にたなびき、光を集めた様な金色の瞳は優しげに微笑んでいる。
「あ――」
「イリス。貴女を助けに来ました。私はアスカ」
「あす、か……光の、大精霊――もしかして、船で助けてくれたり、夢で話しかけてくれたのは、」
「姿を見せることが出来ず、ごめんなさい。間に合って、良かったわ」
「っち。お前も転生していたか」
苦々しげに吐き出すようにシェードは言った。アスカは彼を振り返った。
「シェード。どうして解らないのです。人間の意志の力に、100年前だって敗れたでしょう」
「過去の話だ。今の俺には、サイがいる。こやつなら、間違いなく世界を滅ぼすだろう。100年前のようにはいかない!」
シェードが濡烏色の影になり、サイ兄様の体に入っていく。アスカ様が私を振り返り、優しげに微笑んだ。
「貴女に力を貸します。私の力を、使って下さい」
言うや否や、アスカ様の体も一筋の光になり、七色に輝きながら私の中へ吸い込まれた。
身体中が暖かくなり、力が湧き上がってくるような気がした。
「イリス、僕と戦えるのかい?」
「……兄様を止めるのは、私の役割です!」
「そう、じゃあ、悪い子にはお仕置きしないとね」
兄様は腰に差した細身の剣を抜き、優美に構えて見せた。
私も剣を抜く。ウンディーネ様にいただいた、大切なそれ。フレイムさんやフラウさんに教わった剣術を必死に思い出しながら、私は兄様に向かっていった。
兄様の剣を受ける。感じたことのない感覚が、私を襲った。
かみ合った箇所から、嫌な空気を感じる。不安、虚無、そんなものが、剣を通じて私に流れ込んでくる気がした。
兄様の身のこなしは軽く、幾度も幾度も打ち込まれる。兄様はくすくすと可笑しげに笑った。
「イリス、ただ構えているだけじゃあ、僕は倒せないよ?」
「……っ、」
「イリスがやれないなら、僕がやって見せようか」
兄様は動きを突然早め、私の頬を剣先でかすめた。たらり、と、血が落ちる。
斬られた。兄様に。
受け止められない現実に呆然とする私を嘲笑うように、兄様は次々に私に傷を作る。足、腕、無数の切り傷が私に生まれた。
「そのままでは死んでしまうよ、イリス」
兄様は歌うようにそう言うと、剣を下げた。一瞬安心したものつかの間、兄様は手をかざす。その手からは黒い蛇が生まれ、私の首に纏わり付いた。
「う、くっ……」
息が、苦しい。きつく気道を閉ざされたと思えば、緩み、また締め付けられる。その繰り返しだ。
生理的な涙に滲む世界の奥で、兄様は笑っている。
もう、だめかもしれない。
でも、でも。私はまだ。まだ、何も。
そう思った瞬間、私の中から光が溢れて影を弾き飛ばした。突然入り込んでくる酸素に、私は何度も咳込んだ。
「っげほ、げほ……っ!」
「全く、嫌な光だ」
はあと短く溜息を吐いて、兄様は私を見下ろす。体の中のアスカ様が、私に話しかけた。
「戦いなさい、イリス。いまの彼は、シェードに操られているのです。戦わなくては、世界は滅んでしまいます」
「――それは、だめ……っ」
私は何とか立ち上がり、兄様に切りかかった。
フラウさんに教わった、敵の動きを止める斬り方。一生懸命頭で反芻して、その通りに切りつける。
「やっとその気になってくれたんだね、ふふ」
「兄様! 兄様は操られているだけなのよっ!」
何度か攻撃を繰り出すが、兄様の剣は容赦なく私のそれを弾き飛ばす。丸腰になってへたり込んだ私に、兄様は微笑みながら剣を振り下ろした。
剣が私にあたるかという瞬間だった。
突然一迅の青い閃光が走り、サイ兄様の剣が弾き飛ばされた。驚いてその閃光の出所を見ると、そこにはフラウさんが立っていた。私の方に駆け寄り、抱え起こしてくれる。
「イリスちゃん、ごめんね、遅くなったわ。こんなに傷だらけになって……」
「フラウ、さんもっ……!」
「私は大丈夫、」
「煩い青だね、君には手加減しないよ」
サイ兄様はゆらりと立ち上がる。今までとは比にならない深さの黒が、彼を包み込んでいた。
斬りかかるフラウさんに、兄様はまた手をかざす。ブラックホールのようなそれが、フラウさんを吹き飛ばした。
「フラウさん!!」
「い、りすちゃん、剣を拾って……っ」
「黙れ」
兄様はフラウさんの体を踏みつけた。
剣を拾おうとした私の手に、兄様の黒い攻撃が飛んできた。
伏した私の前に、ふわりと緑色の髪が舞う。兄様の攻撃は、彼女に当ってはじけ飛んだ。
「イズナ、さんっ……! どうしてっ、」
「ボク、は……もう、キミの壁になることくらいしか、できなくって……ごめんね」
イズナさんが差し出した剣を、私は泣きながら受け取った。彼女が崩れ落ち、その間をぬって弓が飛んでくる。兄様の足元にそれが刺さり、彼は冷たい目でその弓を見下ろした。
「ったく、無理しやがって……」
「エコーさ、」
「全く使えない道具ばかりだな。小蠅風情が、揃いも揃って邪魔をする……」
兄様は踏みつけていたフラウさんを蹴り飛ばす。
エコーさんは飛んできたフラウさんを受け止めるので精一杯なようだった。肩からはおびただしい血が流れている。
「にいさま、やめてよ、もうやめて……!」
「今静かにしてもらうから、ちょっと待っててくれるかな、イリス」
兄様の手から発せられた黒い影が、三人を包み込む。エコーさんが苦しげに声を上げた。
「っくっそ、動け、ねえ……!」
「もう止めてぇ!!」
私は走り出した。兄様に向かって剣を振り上げる。兄様は満足したようにその剣を受け止めた。
「いいね、その顔だよ、イリス。僕を殺さないと、ほら、みんなが死んでしまうよ?」
「うぁあ!!」
泣きながら無我夢中で叩きつける剣を、兄様はいとも簡単に受け流す。どうして、どうしてこんなことに。兄様は私の足を薙ぎ払うと、その場に倒し、剣を持つ腕を踏みつけた。
手に持っていた剣を蹴り飛ばし、足を退けると、私の身体が、宙に浮いた。
兄様と同じ目線まで上がり、彼はにこりと微笑んだ。
「でも、残念だね。足りないな。――さようなら、イリス」
兄様の剣が、私の心臓目掛けて突き出される。

――ざしゅ。

耳に痛い、肉が立つ音が響いた。
ぴ、ぴっ、と、頬に生暖かい何かがかかる。
私の視界いっぱいに広がったのは、見慣れた優しい、太陽の笑顔だった。
「フレイム、さ……」
「イリ、ス。無事で、良かった――」
兄様の剣は、彼の体を貫いていた。
フレイムさんが、私の体を抱きしめる。
「遅くなって、ごめん、な」
「いや、いやだ、フレイムさん、」
「イリス――」
フレイムさんの手が、ぱたりと落ちる。剣が引き抜かれ、ほぼ同時に彼の体が崩れ落ちた。
「そういえば君も居たね。僕はねえ、君が一番嫌いだったんだ」
「ぐあ、!」
兄様の足が、フレイムさんを蹴り飛ばした。
私の中で、何かが弾けた。
私の体を、強い光が包み込む。崩れ落ちたフレイムさんにも、後ろの3人にも、その光が広がった。
受けた怪我が、すうっと癒えて行く。兄様は苦い顔をして後ろへと飛び下がった。
「な、なんだ、これ?!」
「イリスちゃん、なの……」
「ボクにも、精霊の力が、戻ってくる……」
「これがイリスの力……!」
4人が私のそばに来る。私の手を、4つの手が握りしめた。
繋いだ手から、光の剣が生まれて行く。
アスカ様が具現化し、そっと私の手に彼女の手を重ねた。
「一緒に世界を救いましょう、イリス」
「俺たちがお前の剣に、力になってやる!」
「アスカ様、フレイムさん、みんな……っ」
兄様は、実体化したシェードを見上げている。
「俺の力、全てをお前にやる。あの光を消し去るのだ」
「……ああ」
兄様は頷いた。ずず、と、嫌な音を立て、彼が巨大な黒い剣に形を変えた。
「これが最後だね、イリス」
「兄様。私は……私は、みんなの思いを無駄にするわけにはいかないの!」
二つの剣が、光と闇を放ってぶつかり合う。強い振動に手を放しそうになるけれど、4人の手がそれを支えてくれた。
みんなの力が、私の力になる。
光が闇を、取り込んでいく。
「っく、うぁあああああ!!」
「きゃあああああ!!」
轟音を響かせ、二つの力が、爆発した。
世界は瞬間、真っ白に包まれていった。



Last Episode8 
【in this hopeless world】






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