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ゆらりゆらり。それは不器用で、ちょっと乱暴な揺りかごに乗っているような感覚。眠りから覚め始めたばかりの頭は、今日は何をするんだっけ、と非日常のような船での日常を思い出していた。
それがもう、二度と手に入らない日常だったはずなのに――そこまで思考が行きついたとき、私の意識は一気に覚醒していった。

「っ!?ここ、は」

文字通り飛び起きた。見渡したその部屋は、見慣れた船での私の部屋で。どこからかが夢だったのでは、と一瞬考えた。でも。

「……痛い」

夢なんかじゃない。はっきり覚えてる。なぜこんな痛みがあるのか。掴まれた腕が、転げたときに打ちつけた肩が、床と擦れた膝が、痛みを通してこの身に何があったのかを思い出させる。この身を震わせた恐怖は本物だ。
気づけば目一杯自分の身体を抱きしめていた。
――痛かった、怖かった。まだ、怖い。痛い。でも、まだ痛いのは、それは。

「…私、生きてる、いきて、る」

生きてるから、痛いんだ。痛いと思うのも、恐怖を思い出すのも、生きているからこそ。
一歩間違えれば消えていた命だ。いや、私は選択を間違った、この命は消えていたはずのものだ。それを救い出してくれたのは、

『言っただろう?お前は簡単に死なねェさ、なにせ』

言葉の続きは知らない。でもそう言ったあの人が、助けてくれたことは覚えている。
消えない恐怖に震える身体を抱えながら、「ありがと、う」という言葉をまるでお守りのように呟いた。


どれくらいそうしたいだろうか。ギィと扉の開いた音に、肩が震えた。

「あ…、」
「よォ、寝坊助。随分ぐっすりだったな」

現れたその人は、ローさんはいつもと変わらぬ様子だった。突然のことに、頭が回らず、ただ彼の動作を目で辿るしかできない。ローさんは僅かに口許を上げた表情のまま、私のベッドの横に椅子に腰掛けた。

「言いてェことや聞きてェこともあるだろうが…まずは、お前の意志を聞こう」

いし?わたしの、きもち?
予想がつかず、言葉を待つ。だが彼が続けた言葉は、予想以上どころではなかった。

「お前、俺の船に乗る気は?」

そこに込められた意図が、私の見当違いでないならば――もはやそれは、夢想の言葉。

「の、乗るって…」
「もう乗ってる、なんてお門違いな発言をするほど、お前は馬鹿じゃねェよな?」

確かに今乗ってるだろうこの船は、きっと彼の船だ。けど彼が言いたいのは、もちろん、そんな物理的なことじゃなくて。

「ハートの海賊団のクルーとして、ここに居る気はあるか?」

なん、で。心で思ったそのままの言葉が落ちる。

「質問があるなら、まずはおれの質問に答えてからだ。イエスか、ノーか。まあどちらにしても迎え方が変わるだけで、結果は同じだがな」

ゆるりと弧を描いた口許から飛び出た言葉が物騒だった気がして身を引きたくなっても、離れない視線が逃がしてはくれない。
居る気?ここにいたいと思うのか?例えばそれに頷いたとしたならば、どんな変わらない結果が待っているの?
質問を飲み込んで、求められている回答を探す。それは彼好みのものではなく、私の答えではなければいけないのだろう。だからこそ、迷う。

私が彼らの仲間として、ここに?そんなの、

「いられる、わけない」

ずっとここにいられるならば、どんなに幸せなのだろう。彼らによろしくと、手を差し出せたなら、どれだけ。
ありえないと知りながら心の底では欲しがっていた言葉に、縋れないのは。

「わたし、だって、だって、みんなに、嘘ついてたのに」

そんな人、あなたたちは信用してくれるんですか。信用なんてしてはいけないでしょうに。

「記憶喪失なんて、してないんです。ずっと、騙してたんです」

手先が、震える。ローさんの顔が、見れなかった。
彼は何も言わない。ただ黙って私の告白に耳を傾けている。まるで全て話せ、と言われているようで、堰をきったように言えなかった“本当”が溢れ出す。違う世界からきたことも、解読できた医学書のことも、全部。拙く震えた言葉で、全てが伝わったかはわからないけれど。

「それで全部か」
「…はい」
「なるほど、な。全面的に信じるかどうかは置いといて、とりあえず納得はした」

静かな声だった。少なくとも怒気はない。しかしこれではっきりしたはずだ。私が今まで彼らを欺いてきたことが。
この裏切りを彼はどう思う?少なくとも、仲間にしたいとはもう、

「だが、お前が嘘をついていたことは前から知ってた」
「……え…?」
「覚えてるか?お前の世界の文字で書かれた本が見つかったとき、お前は話しただろう、海軍将校の背にある『正義』の文字のこと」
「あ…」

「あ、の…海軍の皆さんの背中に書いてる文字と、同じじゃありません…?」

「無意識に読める文字は別だろうが、記憶が抜けてたなら、それぐらい忘れててもいいはずだ」
「…!」
「後でシャチとベポに確認してみたら、その時点で海軍については話してはいても、正義の文字は触れていないとも聞いた。
船にある新聞を読んだ線も考えては見たが、よくよく考えればお前はおれの持っている、おれたちが読める本はほとんど読めなかった。だからその線もねェだろう。
それに、もともと、おれはお前の中の知識の欠落は認めていても、記憶喪失だと思ったことは一度もねェ」
「じゃ、あ、なんで…私を…」
「最初は警戒したさ。だが…お前は平気で嘘をつける奴じゃないだろ。見ていてわかった。お前は平気で嘘をついたつもりでも、おれ達には全くそうはみえねェんだよ。わかりやすすぎる」

ローさんは腕組みしたまま呆れをにじませていた。だがそこに軽蔑はない。「理由は省くが、」まっすぐした視線に、打ち抜かれる。

「そんな怪しい人間だとしても、疑わないでおいてやろうと思うくらいには、お前はこの船で信頼されてたってことだ」

目を丸くせずには、いられない。「うそ、」呟いた言葉は、どうやら彼のもとまで届いてしまったらしい。「おれの言葉を信じねェとでも?」ローさんが顔をしかめながら言うので慌てて首を振った。彼の言葉を疑う気はない。ただそれでも、信じられなくて。
夢のような未来を想像したことはある。だけど、それは妄想でしかなかった。叶わないと知っていたからこそ、望んだもの。

私は。私は、どうしたい?理想はあるのに、身体が縮こまって動かない。自分の弱さを知る己が責め立てる。弱いくせに、この船でどう生きていくつもりなの?弱いくせに、弱いくせに。

「――いつまで、弱く振る舞い続けるつもりだ」
「え、」

差し込まれた鋭い言葉に、俯いていた顔を上げる。

「おれの船に乗りながら、敵に弱いと思わせることは、許さねェ。今この瞬間、おれとお前は仲間じゃねェ。仲間じゃねェやつには、弱みを見せるな。そんな弱さはいらねェ」

この人は、私をどうしたいのだろう?この船に乗れと、言ってくれていた気がしたのはやはり勘違いだったのだろうか。
だがしかし彼がいうことを――彼に対して強く振る舞えといわれても、私は弱いのだ。強くあれるはずがない。それをローさんもよく知っているはずなのに。

「ああ、確かに実際、お前は弱い。それは事実だ。
おれは、別にお前に腕っ節の強さは求めてねェ。だがこの船に乗っている以上は、敵には強がってみせろ」
「つよが、る…?」
「そのくらいの“強さ”は、お前はもう持っているはずだろう?忘れたとは言わせねェ」
「っ痛、」

軽く肩を押されれば、あの小屋で打ち付けた痛みが舞い戻ってきた。どうやら、痛めているらしい。

強がる。私が、強がったこと。私が私の中の弱さに勝って、それができたのは。
簡単に、死んでなんか、やるもんか。例え何度この男に手酷く抱かれようと、飼われようと、何もかもが絶望に染まり命尽きるその時まで。

「もしお前が俺が提示した選択肢以外の道を進みたいと望むなら、お前はおれを殺さねェといけねェな」
「え…」
「お前は海賊船に攫われたんだ。お前はおれを殺さねェ限りは逃げられねェ。
ふ、万一それができたなら、その強さを誇ればいい。純粋な力の強さ、この世界を一人で渡り歩くには十分だろう。――だがその瞬間、お前は紛うことなき人殺しだ」
「な、にが言いたいんですか」
「おれの言葉を拒絶し、それでも生きたいと望むなら、もうそうするしか道はねェってことだ。お前は、そんな強さが欲しいと望むのか?」

望まない、望むわけがない。
(そう内心で即答する自分は、やっぱり弱くて)

「理不尽だと思うか?ただ船を降りて、海賊なんて噂にしか聞かない場所で暮らせる未来はないのかと思うか?思うだろうな、少し前までは、そんな未来が目前にあった」

その未来のために、気まぐれだろうがなんだろうが助けてくれたのは目の前の人だ。だがその人は、一度用意した未来を取り下げて、たちの悪そうな笑みを浮かべていて。

「もしも、お前があいつらと関わろうとしなかったら、お前がおれたちをその辺の海賊と同じようにくくって嫌悪し続けていたなら、そんな未来もあったんだろうよ。――だがそれはもはや、お前じゃねェだろう、レイ」

彼は、間違いなく私に、“レイ”に向き合って、言葉を繋ぐ。

「お前がいまここにいるのは、お前がお前であったからだ。じゃなきゃおれは、わざわざ攫いになんていかねェ」

後悔があるならば、己が己であることを呪え、そして受け入れろ。
その人は言外にそう言いながら、彼の求める選択肢に落とすため、揺すり、私の求めてきた答えを浮き彫りにしてく。

「少なくとも、お前と共にいたいと望むやつを、おれは一匹知っている」
「あ…」
「この船に、弱いだけの人間はいらない。弱いだけの人間を、おれが欲しいと思うわけもねェ。いい加減、己の強さに向き合ってみやがれ。
その強さで、このハートの海賊団の一員として胸を張って敵には必死に強がれ。その代わり、同じ心でお前の弱みを知る仲間を必死に想え」

仲間。そう言われて思い浮かべる人たちは、もう決まっている。
海賊で、荒っぽくて、そのせいで時折怖いと思ってしまうこともあるけれど――私が、好きだと言える人たち。

「この海では、命を狩る強さが、誰かの夢を奪い、己の夢を導くことは事実だ。だが、おれたちが人を斬れる強さだけで名をあげてきたと思ってんなら、お門違いだ。
心臓に刃を突きたてられりゃ命は消えるが、そもそも心臓が動いてないと意味はねェ。戦うこと以外にすべきことなんてごまんとある。
やれねェことを考える暇があるなら、おれ達が心臓動かすために何が必要か、お前ができることを考えろ」

私がこの船で、みんなのためにできること。そんなことは、果たしてあるのだろうか。
私の思いを見越したように、彼は撫でるよりも強引に頭を掴んで、私の顔をあげて目を合わせて訴えた。

「できるかもしれない、そんな可能性だけで勧誘するほど、おれの懐は広くも深くもねェ」
「っ」
「――もう一度聞く、俺の船に乗る気はあるか?」

お前の意思で、答えろ。彼の言葉が胸に迫る。
彼の言葉は残酷なようで、――信じられないくらい幸せだと思える言葉だった。
もしもこの船に来たばかりのころに言われた言葉なら、私はただ恐怖していだろう。でも今は、それが私の幸せだと、思ってしまった。
長い間海賊と航海をしてきたことで、私も狂ってしまったのだろうか。幸せという感覚が鈍ってしまったのだろうか。
避けられない視線と、もうどこにも居場所がない世界。
求められている答えと、心で思う答えが同じであるならば、素直に頷けばいい。夢の世界を現実にするために、覚悟を決めればいい。
だけど、それだけでいいのだろうか?

『己の強さに向き合ってみやがれ』

私の強さ。それがなんなのか、まだよくわからない。でも、この人が強いと言ってくれるものが私の中にあるならば、私は信じたい。今ここで、踏み出す強さにしたい。
――頷くだけじゃ、ダメなんだ。受け入れるだけ、流されるだけで、この人たちの傍にいると、私はまた弱くなる。
だから。

「船長さん、お願いがあります」

私はピンと背筋を張って、ベッドの上で正座をした。
『攫われたんだから仕方ない』
そんな言い訳を、彼らの傍でしたくない。そんな言葉で、逃げたくない。

「私を、ハートの海賊団にいれてください」



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